2011年11月16日水曜日

特殊性

 引き続き「不都合な相手と話す技術」から、興味ある内容を引用する。

特殊性に逃げてはいけない
対話とは「相手のことはわからない」ということが前提のコミュニケーションである。わからないのだから、わかりあおうと思ったら話すしかないのである。だが、面白いことに、コミュニケ「ションにおいて「わからない」ことを逆手にとる人たちがいる。自分の特殊性を主張して、それが相手には「わからない」ことを強調するのだ。そうして相手よりも優位に立とうとしたり、あるいは自分の立場を正当化しようとしたりするのである。 
たとえば国際コミュニケーションにおいて「日本は特殊だから--」「日本語は特殊だから--」といった文句が使われることがある。これを日本(日本語)特殊論という。「だから外国人であるあなたにはわからない」という論法だ。「だから日本人である私を特別扱いしてほしい」という虫のいい話に使われる場合もある。
これは対話という観点からすると無用な論法である。ただでさえ「わからない」のに、ますます「わからない」状況へと逃げ込んでいる。
ただ、 これは対話以外のコミュニケーションでも無用な論法なのではないか。「自分は特殊だ」と言い張って、まともなコミュニケーションを拒否しているからだ。そもそも日本や日本語が特殊であるならば、アメリカや英語も特殊であり、フィリピンやタガログ語も特殊なのではないか。自分だけが特別だと思うのは、ちょっと幼児的である。
だが、日本特殊論は意外に根強い。
OECDが2000年から3年ごとに実施しているPISA (国際学習到達度調査)という国際テストがある。数学・科学・読解力の3科目について、15歳の子どもを対象として行われる。フィンランドが全科目で1位を独占して話題になった国際テストだ。
日本の順位は年々下がっており、特に読解力の出来が悪い(06年は56カ国中15位)読海読解力とは簡単にいえば国語のテストである。そのためか教育界の一部で日本特殊論が唱えられた。「あれは欧米型の国語のテストだ。日本語は特殊なのだ。できなくても仕方がない」というのだ。
ちなみに06年の読解力で1位になったのは韓国である。日本語は特殊だが、韓国語は特殊ではないとでもいうのか。みっともない。もともと順位を競うための国際テストではないので、順位のことはどうでもよい。自分の特殊性に逃げ込む態度がみっともないのである。
経験を強調しすぎると話し合いにならない
日常的なコミュニケーションでも特殊性を主張する人たちがいる。特に多いのが「自分の経験」を特殊性として主張する人たちだ。経験を語ることが悪いというのではない。「自分には経験があるからわかるが、経験のないあなたにはわからない」という姿勢が問題なのである。対話という観点からすると、改めて「わからない」ことを強調されても無意味なだけだ。また、一方的に「あなたにはわからない」と決めつけるのは、双方向的なコミュニケーションの拒否である。つまり、「話し合い」にもならないということだ。
もちろん経験は貴重なものだ。実際に経験しなければわからないことはいくらでもある。未経験者が経験者から学ぶべきことは多々あるだろう。だが、経験の過信は禁物である。経験とは厄介なもので、本人にとっては紛れもない事実である。しかし、科学的知識などと異なり、多方面から徹底的に検証されたものではない。だから個人の経験に、どの程度の一般的妥当性があるのかは誰にもわからない。そのため「私の経験では・・・」と語ったところで必ずしも説得力はない。

日本は万世一系の特殊な国なのだという事がよく言われる。特殊な国などないし、特殊な人種もない。
年を取ってくると、やたらと自分の経験から、分別くさいことを言うようになる。戒めたいものである。

2011年11月11日金曜日

不都合な相手と話す技術

 東洋経済に「わかりあえない時代の対話力入門」を連載していた、北川達夫氏の本「不都合な相手と話す技術」という本を購入した。現在、読んでいる最中であるが、その前書きを紹介しよう。

日本では、多弁な人間は嫌われる傾向にある。これは古代においては東アジア共通の価値観であり、言葉巧みに出世する人間は「ねい臣」との謗りを受けた。まさに孔子のいうところの「巧言令色すくなし仁(言葉や表情を巧みに使う人間には徳がない)」。 
現代では、同じ東アジアでも中国や韓国においては、この美意識はあまり残っていないよぅだ。いまの中国人や韓国人に、あまり物静かというイメージはない(むしろその逆だ)。その一方で、日本には根強く残っている。たとえば、企業のコミュニケーション研修を引き受けると、担当の偉い人から「まあ、コミュニケーションも大事なんですが、口先だけで中身のない人間になってもらっても困るわけですよ」と、孔子の教えを遵守したーしかし考えようによっては意味不明のコメントをいただくのである。コミュニケーション研修で「中身」の成長を期待されても、それこそ困るわけだが・・・。
言わずとも通じる・・いかなるコミュニケーションにおいても、これほど素晴らしいことはない。日本文化では、ことのほか「言わずとも通じる」ことを大切にしてきた。だから、余計な説明をする人間を「野暮」と呼んだのである。余計な説明を求める人間も同じこと。いちいち説明しないのだから、人によって解釈にプレが生じる。だが、そのプレも含めて「言わずとも通じる」ことのうちとしたのである。「それでは正確に伝わらないではないか」と文句を言う向きもあるだろうが、それもまた「野暮」というものだ。
「古池や蛙とびこむ水の音 淋しくもあるか秋の夕暮れ」という和歌がある。松尾芭蕉の有名な俳句に下の句をつけて、「淋しい」という感情、「秋」という季節、「夕暮れ」という時間帯を示したのである。この和歌について、作家の坂口安吾は「言葉の純粋性」を失わせるものとして痛烈に批判している。余計な説明をして、芭蕉の俳句を台無しにしたというのである。要するに「野暮」ということだ。
「言わずとも通じる」ためには、多くのものを共有している必要がある。わずかな言葉から同じことを連想するためには、文化の基盤をなす知識や経験はもちろんのこと、その背景をなす価値観の共有が絶対的な必要条件なのである。「野暮」な人間は、日本人ならば共有しているべきものを保有していないということで嘲りの対象となったのだ。
だが、時代は変わった。社会も変わった。世界も変わった。多様化・複雑化・グローバル化の波が押し寄せ、余計な説明をしないと通じない人々が急増している。外国人はもちろんのこと、同じ日本人であっても、いちいち説明しなければ理解も納得も得られなくなった。もはや「言わずとも通じる」ことは期待できない。言わなければ絶対に通じないが'言ったところで通じるとは限らない時代になりつつある。こうして「わかりあえない時代」に突入したのだ。
女「あたしの気持ちなんて、誰もわかってくれない・・・」男「そう、わからない。だから俺にもわかるように、きちんと説明してくれ」
こういうやりとりをしなければならない時代になったのかと思うと、心底ゾッとする。まったく「野暮」の極みではないか。だが、「わかりあえない時代」において求められるコミュニケーションの本質とは、おおむねこのようなものだ。「わかりあえない時代」において求められるコミュニケーションーーこれが「対話」である。
対話の発想と方法について詳しく紹介することが、本書の主要なテーマである。ただ、それが必要であるとわかっていても、やはり「野暮」はイヤだ。対話において「野暮」を避けることはできないのか・・・これを追究することもまた、本書の主要なテーマである。

私は、常々夫婦も人種が違う位に考えて、対話した方がいいと思っている。これは会社という組織でも当てはまると思う。
最後まで読んだら、又読後感を紹介したいと考えている。
PS:ねい臣とは「主君におもねり、心の不正な臣下」の意。

2011年11月9日水曜日

ウォール街占拠運動

 東洋経済に連載している、藤原帰一氏(国際政治学者)がウォール街占拠運動について興味ある見解を述べている。

ウォール街そばの公園で開始された活動は10月に入ると全米各都市からロンドン、ローマ、シドニー、東京などへと波及し、オークランドなどでは警察の介入と逮捕者までも生み出した。米国東部降雪のために人数拡大が難しくなったとはいえ、雪の中でも公園を占拠する人々の姿が伝えられている。この占拠運動をどう考えればよいのだろう。
占拠運動で注目を集めたのは、何よりもその運動のスタイルである。既成政党や政治家に働きかけるのではなく、ウォール街を占領する。とはいっても、金融機関に襲いかかるのではなく、公園にテントを張って居座るだけだから、実力行使とは程遠い。不公正な富を蓄えたウォール街で持続的なアピールを続けるという、シンボリックな意味が勝った行動であると評すべきだろう。
そして、フェイスブックやツイッターなど、新しいメディアが活躍した。ツイッターでウォール街占拠が次々に伝えられていた9月、ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストなどでこの活動が伝えられることはほとんどなかった。ノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・E・スティグリッツや投資家のウォーレン・バフェット、告発型ドキュメンタリーで知られるマイケル・ムーアなどがこの活動に加わることで、まず米国外の報道機関が大きく取り上げ始め、10月に入ると米国の新聞やテレビも大々的に報道を始める。新しいメディアが社会連帯を作り、それが「事件」を作り出すわけだ。
彼らは何を訴えているのか。運動の掲げる争点は一つ、人口の1%に富が集中する状況に対抗して、残りの99%から異議を申し立てるというものである。統計の取り方に多少の異論があるとしても、レーガン大統領が就任してからおよそ30年の間、高額所得者が所得を伸ばす一方で、ほかの階層の所得が減少したことに異議のある学者は少ないだろう。
その結果、中間層が経済的繁栄を支えるかっての米国は失われ、これまでにない所得格差が広がってしまった。この格差への告発が占拠運動の中核にあるといってよい。より具体的に見れば、占拠運動の背後には、リーマン・ブラザーズの破綻に発した08年世界金融危機以後の経済情勢への不満がある。膨大な公的資金が注入されることによって金融機関は救済されたが、米国経済の混乱は続き、失業率も9%に上ってしまった。投資会社を救済するためには税金を使うのに、失業が放置されるのはどうしてなのか。99%からの異議申し立てには説得力があるといえる。
だが占拠運動には、異議申し立てはあっても政策はない。金融機関を救済する政策の転換を求めたり、失業対策のための政策を訴えるのではなく、1%が富を独占する現状への告発が運動の中核にある。現状への告発に支えられたこの運動は、具体的な政策要求を伴っていない。
ソーシャルメディアを媒介とする市民の結集という点だけを見れば、この占拠運動にはチュニジアやエジプトに民主化をもたらした「アラブの春」と似た面がある。だが、「アラブの春」には独裁者退陣の要求という明確な目的があった。ところが占拠運動の場合、これが実現されたら勝利だという勝利条件が示されていない。政策の実現を争点にしないのであれば、占拠運動が「勝利」を収めることはできないだろう。
運動は迷惑行為として衰退?厳しくいえば、公園の占拠はただの迷惑行為、それも金持ちだけではなく一般市民にとっても迷惑行為にすぎない。運動の決着点が見えないかぎり、世界各地の占拠運動は、それが長続きすればするほど、逆にその地域に居住する人々の支持を保つことが難しくなる。
世界各地に同時発生した運動は、膨大な数の人々による異議申し立てに成功したにもかかわらず、現実の社会変革をもたらすことなく衰えてゆくのではないか。占拠運動の現状は、そのような暗い展望を予感させる。
どれほど既得権に冒され、 一般市民から乖離したとはいっても、既成政党や政治結社は、社会と政治を結び付けるうえでなお大きな役割を果たしている。確かに、既成の政治が吸い上げていない社会的な不満の大きさを示す点において、占拠運動は大きな役割を果たした。だが、異議申し立てだけでは変革は訪れない。

確かに、「アラブの春」においても、独裁者を倒すまではいいが、それがすぐに民主化に繋がらない。物事を着実に変化させるためには、しっかりとした政治結社(政党)が必須である。政治結社であっても、独裁では駄目である。地域政党大阪維新の会は決して長続きはしないであろう。


2011年11月5日土曜日

トランスサイエンス

もうダマされないための「科学」講義(光文社新書)というタイトルの本を読んだ。なかなか面白い本であった。その中で、なるほどと思った箇所がいくつもあった。その中の一つを紹介する。

価値判断の多面性や政治的・法的問題との関わりの深さ

原子力に限りませんが、リスクの問題は、常に世の中の価値観や利害関係、政治的・経済的・法的な問題との関わりが深いという意味でもトランスサイエンス的です。
その一例として、人々がリスクの程度をどのような要因(因子)に基づいてどのように認識するかを示す「リスク認知」というものがあります。もともとリスク認知は心理学の分野で研究されてきたもので、しばしば科学的に算定された「客観的リスク」に対立する「主観的リスク」と見なされ、前者に基づいて「矯正」されるべきバイアスとして語られることも少なくありません。しかしそれは、リスクというもののトランスサイエンス的性格を見誤った偏狭な見方です。
たとえば、リスクにさらされているのが自分たちだけで、リスクの裏返しである便益は自分たちにはないと認められる場合には、そうでない場合よりもリスクは大きく捉えられる傾向があります。これは社会におけるリスクと便益の分配の「公平性」という正義の問題であり、単なる個人的・主観的な「バイアス」などではありません。
リスクにさらされるのが自発的な意思に基づくのか、そうでないのかも、リスクの捉え方に違いをもたらします。非自発的・強制的であるほうが、リスクは大きく捉えられる。これは「自己決定権」の問題であり、やはり社会正義に属する事柄です。
またいずれの場合も、人々にリスクの「大きさ」として認識されているのは、「損害の発生確率」× 「損害の重大さ」として表される科学的なリスクの大きさではなく、公平性や自発性などトランスサイエンス的な要素についての判断を加えたリスクの「受け入れがたさ」でしょう。
そもそも科学的なリスクの大きさにしても、たとえば「生涯のがん死確率が100mSVの被ばくで0.5% (1000人中5人)増加する」ことを、「たかだか0.5%」として受け入れるか、「0.5%も増加」として受け入れがたいと見なすかは、個人の価値判断に依るでしょう。
このように人間は多面的にリスクを認識しているのであって、科学的なリスクの見方は、重要ではあっても、さまざまにある見方の一つにすぎないのです。このことを軽視して、科学的な見方ばかりをゴリ押しすることは、リスクコミュニケーションではしばしば失策を招くことになります。
3.11以降繰り返されている「福島第1原発事故による放射線リスクは、レントゲンやCTスキャン、放射線治療による被ばくのリスクよりも小さい」といったリスクの比較はその典型例です。この場合、後者の医療放射線による被ばくには、疾病の早期発見や治療などの便益があるし、線量や照射部位もコントロールされています。受けるかどうかは本人の意思に任されています。
これに対し事故による放射性被ばくには何の便益もないし、コントロールも当事者の了解も一切なくばらまかれています。このため、たとえ科学的なリスクの大きさとしては小さかったとしても、リスクの受け入れがたさは事故による被ばくのほうが大きくなります。この違いを無視して「○○よりリスクは小さい」と説明することは、リスクを軽視し、その受け入れを強制する発言のように受け取られ、強い反発を招くことになります。
このため、たとえば米国疾病予防管理センター(CDC)のトレーニング教材『危機・緊急時のリスクコミュニケーション(Crisis&EmeygencyRz'shCommunication)』でも、安易なリスク比較は慎むべきとされています。

リスク問題を簡単に数字だけで、割り切ろうとするのは真の科学ではない。いわゆる科学者が「レントゲン検査であびる数値より小さいですよ」と言って安心させようとするが、これは逆効果になると思う。科学という言葉はきわめてあいまいであると思う。そういうことをあらためて考えさせられた本であった。
解説:「トランスサイエンス」とは1972年にアメリカの核物理学者アルヴィン・ワインバーグが提唱した概念で「科学に問うことはできるが、科学では答えを出せない問題群」を扱う領域だとされている。
「バイアス:とは他のさまざまな影響による偏向。偏りを言う。(bias)

2011年11月2日水曜日

増税論

民主党のブレーンとしていろんなところで発言してきた、北海道大学大学院教授の山口二郎氏が「東洋経済」の中で、以下のようなことを言っている。概略を紹介しよう。
ゴール不在の増税論は逆再分配を強めるだけだ
党内融和を優先し、低姿勢で出発した野田佳彦政権だが、そうした内向きの論理だけでは政権がもたない。ここに来て、重要な政策課題について舵を切る姿勢を見せ始めた。政策路線を選択することは政治指導者の使命である。国内世論で賛否が分かれるような争点について腹をくくって決断するということ自体は、必要なことだと考える。その際、目指す目標、理念を明確にして、政策に伴う犠牲と得られる恩恵を具体的に示し、国民を説得するという態度を取るべきである。その点で、野田政権の展開には大きな不安を感じる。
目下の最大の争点TPP (環太平洋経済連携協定)交渉への参加問題である。TPP積極論を開いていると、私は郵政民営化論議を思い出す。市場原理を拡大することによって日本社会が活気を取り戻し、国民が幸せになるという単純な議論を繰り返してはならない。
輸出産業の経営者が、バスに乗り遅れるなということでTPPへの参加を主張することは当然である。他方、農業団体がこれに反対するのも当然である。経営規模拡大によって日本農業が世界市場で競争力を持つなどという空論は、日本最大の経営規模を持つ北海道の農民でさえ信じていない。
政治とは、この種の利害対立の中で極力折り合いをつけながら一つの方針を決定する作業である。あえて火中の粟を拾うという野田首相の意志は評価したい。しかし、決め方を誤っては禍根を残す。仮にTPP参加を決断したいなら、バラ色のシナリオで粉飾してはならない。また、どちらかの主張が正しいから選ぶのでもない。TPPが毒を含んだ政策であっても、国益のためにこれを選択するという苦渋の判断であることを、国民に丁寧に説明しなければならない。
税・社会保障一体改革についても、野田政権の誠実さが問われる。各種世論調査が示すように、国民は、社会保障の持続可能性や東日本大震災の復興財源のことを考えて、いずれ増税は不可避だと思っている。しかし、復興のための国債を短期間で償還するとか、2-3年後に消費税率を10%に引き上げるという話には、納得していない。野田首相は財務官僚の操り人形というストーリーが一部のメディアに流れ、これを支持する人も大勢いる。要するに、国民は財務官僚を信用していないのである。復興財源のための増税にしても、大震災を隠れみのに、国民に増税を受容させる予行演習という性格があるように思える。
財政の機能として、公共財の提供、所得再分配、景気調整の三つがあるという規定は、高校の政治経済でも習う基本である。では、日本の財政はこれらの役割を果たしているのか。日本の税収は1990年をピークとして、20年間減少の一途である。この間、GDPはほぼ横ばいであるのに税収が減少しているということは、減税をした結果である。
減税の恩恵は、所得税の累進制の緩和や法人税減税という形で、富裕層や大企業に与えられた。他方、国民負担のうち社会保険料は増加の一途をたどっている。2010年、国民負担の対GDP比率は27・6%であり、税負担が15・2%'社会保険料負担が12・4%である。社会保険料は、国民年金保険料を思い浮かべればわかるように、逆進性が強い。したがって、日本の財政は再分配機能を著しく弱めている。東京大学社会科学研究所の大沢真理教授の調査によれば、所得再分配どころか、日本では当初所得よりも再分配後の所得のほうが、格差が大きい。つまり、政府はわざわざ税と社会保険料を徴収し、貧困層から富裕層へ逆の再分配をしているのである。
このような財政に対する現状認識を国民と共有することなしに、一切の増税論議をしてはならない。財務省の描く消費税率引き上げが、逆再分配を強める「やらずぶったくり」につながるのではないかという国民の懸念には十分理由がある。私自身は、新自由主義を批判し、福祉国家の拡充を訴えてきたので、基本的には増税論者である。しかし、国民負担の増加によってどのような社会を作るのかという理念論を欠いた増税論議には、反対せざるをえない。ゴール不在の増税論がまかり通れば、その反作用として河村たかし名古屋市長が唱えるような減税ポピュリズムがはびこり、結果として政府の役割は一層縮小、社会はますます荒廃する。だからこそ、増税論議を財務官僚に任せるわけにはいかない。

民主党のブレーンの山口氏でさえ、野田政権の危うさを指摘している程、今の民主党政権は、政権交代した時から変質してきている。(もともとの体質の化けの皮が剥がれてきただけだが)赤字で記してあるところは、まさに同感である。
 


2011年10月31日月曜日

心の奥行の変化

 以前にも、紹介したが、神谷美恵子氏の「生きがいについて」という本から、紹介する。生きがいという言葉を真正面から言うと、少々照れくさいが、今の時代は真正面から考えることが重要だ。

苦しんだことのあるひとの心には深みがある、というようなことが時々いわれるが、これはどういうことを意味しているのであろうか。
同じ苦しい目にあっても、その苦しみかたは、ひとによってちがう。さらりと苦しみを受け流せるひとと、不器用に苦しみをすみからすみまで味わわなければそこから抜け出せないひとと。ほとんど心に傷あとの残らないひとと、心が深層にまで掘りおこされてしまうひとと。深い心とはそのように深く掘りおこされてしまった心を意味するのであろうか。
もうひとつのみかたは、心の深さというものを、心の世界の奥行と考えてみることである。視覚によって、ものの奥行を認識できるのは眼が二つあるからである。つまり二つの異なった角度から同じものをみているから、自分からその物体への距離もわかるし、その物体そのものの奥行もわかるのである。カッシーラーはいう。「人間経験の深さも・・・われわれの見る角度を変えうること、われわれが現実に対する見解を変更しうることに依存している。」
この「経験の深さ」、もしくは「経験のしかたの深さ」が心の深さをつくるのではなかろうか。いいかえれば、ひとの心に二つ、またはそれ以上の世界が成立し、それぞれの世界が成立し、それぞれの世界から、各々ぺつな角度で同じ一つの対象をみるとしたら、この「心の複眼視」から、ものの深いみかたと心の奥行がうまれるのではなかろうか。 
生きがい喪失の苦悩を経たひとは、少なくとも一度は皆の住む平和な現実の世界から外へはじき出されたひとであった。虚無と死の世界から人生および自分を眺めてみたことがあったひとである。いま、もしそのひとが新しい生きがいを発見することによって、新しい世界をみいだしたとするならば、そこにひとつの新しい視点がある。それだけでも人生が、以前よりもほりが深くみえてくるであろう。もはや彼は簡単にものの感覚的な表面だけをみることはしないであろう。ほほえみのかげに潜む苦悩の涙を感じとる眼、ていさいのいいことばの裏にあるへつらいや虚栄心を見やぶる眼、虚勢をはろうとする自分をこっけいだと見る限―そうした心の眼はすべて、いわゆる現実の世界から一歩遠のいたところに身をおく者の眼である。
現実から一歩遠のいたところに身をおく、ということは、生物のなかでも精神能力が文化した人類だけにできることらしい。この能力によって人間はパスカルのいうように、たとえ宇宙におしつぶされそうになったときでも自分をおしつぶすものが何であるかを知ることができる。動物のように現実に埋没して生きるのでなく、苦しむときには、その苦しむ自分を眺めてみることもできる。

自分を客観的に見る能力があるかどうかが、人間の人間たるゆえんだと思う。絶えず逆の立場でみる、考える習慣を持ちたいものである。

2011年10月26日水曜日

自分らしさ?

東洋経済の「わかりあえない時代の対話力入門から、興味なる内容の抜粋を紹介したい。抜粋にしてはながくいが、あまり省略すると面白くないので・・

作家の石田衣良さんとの対談講演「知層をつくろう~新しい生き方・ことばの力~」から、興味深い内容を紹介することにしよう。このイベントでは、学生など若者を壇上に迎え、この不確かな時代におけるさまざまな思いを語ってもらった。その思いに石田さんと私が応える形で、独特の対話が進行したのである。
たとえば人間関係について。高校時代は部活に専念していた。そこでは部員が一体となって、何事かを成し遂げるという充実感があり、確かな人間関係があった。だが、大学に入ったら表面的な人間関係ばかりで、ぜんぜん充実した感じがしない。多様化する社会では人間関係が重要だというのに、このままでは不安だー。
確かに人間関係は重要である。だが、ここでいう人間関係とは、「わかりあえない」同士でも、社会における共通の問題を解決する(あるいは共通の目標を達成する)ために協働する、「対話的な人間関係」のことを意味する。
協働するためには、互いの利害を調整しつつ、手を結べるところは結び、結べないところは結ばないまま留保しておく必要がある。要するに、「仲良しの友達関係」とは根本的に異なるということ。
その意味では高校時代の人間関係のほうが、対話的であったといえるだろう。部員が一体となるまでには、さまざまな価値観の衝突や利害の調整があったのではないか。気の合わない部員とも手をつなげるところではつなぐことによって、共通の目標を目指したのではないか。
自分らしさを求めると自分らしくなくなる
ある学生は「自分らしさを追求したい」と言う。自分のやりたいことを自分のやりたいようにやってこそ、自分らしいというのである。
なるほど。言いたいことはよくわかる。だが、まず現実問題として、社会においてやりたいことをやりたいようにできるものか?
たとえば本連載にしても、好き勝手に書いているようでいてさまざまな制約の下で書いている。
テーマは「対話」。何を普くにせよう広い意味で対話に関連づけて書かなければならない。対話について好き勝手に書いてよいわけでもない。本誌の読者を想定しながら番くのである。
「今回は小学生向けに書きました」と言っても、本誌の読者に小学生はいないだろうから決して許されないだろう。
実際のところ、制約があったほうが自分を自分らしく表現しやすい場合が多い。たとえば本連載にしても、期限や分量の制約もなく好きなことを好きなように書いてもよいということになったら、たぶん私は何も書けないだろう。1回か2回なら何とかなるかもしれないが、毎週はとても無理である。
制約は多様な意見を確保するうえでも重要である。たとえば、「ハーバード白熱教室」のマイケル・サンデル教授の有名な課題「嵐の海で定員10名の救命ボートに11人目が乗り込もうとしたら、どうするか」について考えてみることにしよう。
この課題について、単純に「あなただったらどうする?」と質問すれば、何の制約もないまま意見を求めることになる。だが、このように質問して、本当に多様な意見が出てくるか?
たとえば、あなたが「自分が助かるためなら、他人をすべて犠牲にしても構わない」と思っていたとしても、それを実際に口にできるか。意見と人格は切り離して考えるべきだというが、それはあくまでも理想。人格を疑われるような意見を言えば、やはり人格を疑われてしまうのである。
かくして、意見を自粛することとなり、結果として多様な意見は確保できなくなるのである。
ここで質問に制約を課してみる。「『弱肉強食』という信念の持ち主だとしたら、どのような行動を取るだろうか?」このように問われれば信念が設定されるために考えやすくもなり、自分の人格から切り離されるために答えやすくもなる。そのほか、たとえば次のような制約を課した質問が可能だろう。
「『他者の命を絶対に奪ってはならない』という信念だとしたら?」「『一人でも多くの人の命を助けるべきだ』という信念だとしたら?」
自由に意見を述べるよりも、このような制約の下で考えることを出発点にしたほうが、結果として多様な意見が確保できるのである。
変化を生むのは安定かそれとも不安定か?
石田さんによると、最近は歴史小説を書く作家が増える一方で、近未来小説を書く作家はほとんどいなくなってしまったという。読者が歴史小説に求めるものは日本古来の美学。これを保守化傾向の表れと見るべきか。また、近未来小説を書く作家がほとんどいないというのは、未来に対する希望がないということなのか。
ある学生が次のように言った。「若者が未来を作っていかなければならない、世の中を変えていかなければならないというが、この先行きの見えない状況で、何をしろというのか。自分のことで精いっぱいで、世の中のことなんて考えていられない。生活の安定が保障されて、初めて世の中を変えることができるのではないだろうか」
なるほど、一理ある見解である。しかし、生活が安定すると、それが乱されることをおそれて、社会を変えていこうという意欲がそがれる傾向がある。失うものの少ない不安定な状況こそ、大きな変化を起こすチャンスなのではないか。かつて大きな変革ほど、失うものの少ない土地で起こったように。
先行きの見えない状況において、人々の発想は萎縮しがちである。萎縮した発想を自由に放任しても、ますます萎縮するだけ。そこから創造的発想は生まれない。創造的発想を生み出すには、むしろ制約の下で思考するような、対話的な仕掛けが必要なのである。

「自分らしさを求めると自分らしくなくなる」という言葉は至言である。私は「自分らしく」という言葉が大嫌いである。こんなところでは自分らしい仕事ができない。薬剤師としての活動ができない。とい言って去って行った人を、多く見てきた。困難な中ほどいい仕事ができると私は考えている。まさに創造的発想を生み出すには、制約があったほうがいいのである。