2011年12月6日火曜日

劇場型選挙

毎日新聞に「ニュースの匠」と言う、鳥越俊太郎氏の時評欄がある。大阪の選挙のことを書いていたので、紹介したい。

大阪のダブル選挙。これはかつて小泉純一郎首相が行った「小泉選挙」 の大阪版ですね。「郵政改革」というシングルイッシュー(単一の課題)を掲げ、「抵抗勢力」という敵をつくって大声で叫ぶ。有権者、特に無党派層があおられる。
今回も同じですよね。「大阪都構想」という旗印を掲げ、大阪市役所という敵役をつくり出して熱く語った橋下徹氏。大阪を再生させたいという大阪の人々の願いと大阪都構想がどこでどう結びついているのか、今ひとつ見えないまま、大阪の有権者は「橋下さんなら大阪を変えてくれるだろう」という、熱狂状態で投票日を迎えました。結果は小泉選挙の時と同じ。熱狂は一つの変化を生み出しました。大阪維新の会が擁立した橋下市長と松井一郎府知事の誕生でした。しかし、ここで一つ考えてみましょう。小泉選挙がもたらし、残したものは何だったでしょうか。日本はよくなったでしょうか。変わったでしょうか。答えは「NO!」です。変わったどころではありません。貧富の差は広がり、国の借金は900兆円近くまで積み上がりました。
私は常々思っていますが、国民の、有権者の熱狂はロクな結果を生まないということです。それは太平洋戦争の末路が私たちに教えてくれる最大の教訓です。そして、この熱狂状態をつくり出すのにメディアのあり方が大きくかかわっているという事実です。小泉選挙の時はテレビが先導しました。今回も一見大阪市長選は平松・橋下両候補にバランスを取って報道されているように見えましたが、独裁者をアピールする橋下氏がテレビ向きでした。

私も、鳥越氏の考えに同感である。メディアの劣化が言われて久しい。特にテレビの責任は大きい。何度、同じ事を繰り返したら気が済むのだろう。

2011年12月2日金曜日

切れる


日経新聞に切れる「中高年男性と」いう興味ある記事が載っていた。紹介しよう。

駅や空港、病院などの公共の場で、ささいなことでキレて駅員や職員らに手を出したり、言い寄ったりする中高年男性が目立つ。一見普通で分別のありそうな大人の男性がなぜキレてしまうのか。専門家はギスギスした職場環境や高齢者の孤独といった現代社会のひずみが背景にあると主張する。
「ふざけるな!」。首都圏にある私鉄の駅で、駅員のAさんは激高した中年の男性乗客からいきなり顔面に平手打ちを受けた。最終電車に乗り遅れた男性客に「申し訳ありませんが、もう電車はありません」と頭を下げた瞬間の出来事。非は乗客側にあるはずだが、この男性は乗り遅れた怒りを駅員にぶつけたのだ。私鉄やJRなどがまとめた調査によると、駅員などへの暴力行為件数は増加傾向にある。2010年度は868件と06年度より約3割増えた。大半は男性の加害事例だ。年齢別では60代以上が最も多く、以下40代、50代の順で中高年が目立つ。
一見普通なのに
駅員や他の乗客に対し、暴力に至らなくても、詰め寄ったり、暴言を吐いたりする迷惑行為は後を絶たない。近年の特徴は一見普通の中高年男性が突然キレるケースが目立つことだ。こうした行為をする男性の多くは、少し時間がたつと、冷静さを取り戻し反省するという。
悪質な行為に対し、交通機関側は断固とした対応をとるようになってきている。「1席くらい空きがあるだろう。なぜ乗せないんだ!」。今年3月、羽田空港の国際線ターミナルで怒声が響いた。航空会社のカウンターで中年の男性が激高し、カウンターの壁を蹴って損傷させた。男性は予定より早く空港に到着したため早い便への変更を求めたが、あいにく満席だった。「残念ながら席がございません」と謝る空港職員に腹を立てた末の蛮行。結局、この男性は10万円近い修繕費を支払う羽目になった。
病院でも、中高年男性によるトラブルが増えている。「指示に従って入院しているのになんで治らないんだ」。都内の大手病院に乳がんの疑いで入院した患者の夫(50代)は回復しない妻の容体にイライラを募らせ、担当医と看護師に怒りを爆発させた。医師が病状を説明しても納得せず、次第にエスカレート。2時間以上も医師と看護師を拘束し大声で怒鳴り続けるなど、常軌を逸した行動を取った。
社団法人全日本病院跡会が3年前に全国約1100の病院に院内暴力の実態を尋ねたところ、過去1年間で「暴行や対応に苦慮した暴言があった」と答えた病院は52・1%の不況で会社をリストラされたり、人員削減で仕事量が増えたりして、中高年男性のストレスが増加していることを背景にあげる。
キレる現象は現役世代だけでなく、退職者の間でも広がっている。「暴走老人!」などの著書がある作家の藤原智美さんは次のように解説する。「地縁や血縁が薄くなった昨今、昔に比べて親戚や他人と話をする機会が減った。対話能力も低下しており、不満があってもなかなか口にできない。そのストレスが限界点を超えた時にキレるのではないか」
脳内物質も関係?
脳科学の観点からの分析もある。人間の情緒を安定させる脳内物質のセロトニン研究の第一人者、東邦大学医学部の有田秀穂教授によると、この物質は衝動や攻撃性を抑制する作用があり、不足すると感情の起伏が激しくなって、ささいなことでもキレやすくなるという。「分泌を促すには運動、日光浴、ふれあいの3要素が大事。デスクワーク中心の現代人は太陽の光を浴びずに机に向かう時間が増え、同僚と赤ちょうちんで一杯という機会は減っている。不足するのは当然」と語る。
有田教授はセロトニンの分泌を活発にする運動療法の実践の場として、「セロトニン道場」を都内に開設している。受講生の中には中高年男性の姿も目立つ。こうした教室に通わなくても、日ごろストレスを感じている中高年男性は、「運動・日光浴・ふれあい」の3つの要素を積極的に日常生活に取り入れてみてはどうだろう。

最近脳内物質とか、脳の機能とかがよく言われるが、こんな言葉に惑わされてはいけないと思う。「運動、日光浴、ふれあい」の大事さを強調するのに「セロトニン」を出す必要はないと思う。

2011年12月1日木曜日

ハイカラさん

高峰秀子のことは、以前書いたが、「台所のオーケストラ」という本の中で、面白くて勉強になる文章(バター)を紹介しよう。
バタ- butter
日本人は、新語を作る名人で、昔は、西洋かぶれのことを、「ハイカラさん」とか「バタ臭い」とかと表現したものである。「ハイカラ」は、洋服の高い襟、ハイ・カラーが縮まってハイカラとなり、「バタ臭い」は、文字通りバターを使う「洋食」ちゅうもンを食すモダンな人、言いかえれば「キザな奴」という意味もあった。
私はあっさりとした日本食が二日も続くとヘナヘナと元気がなくなり、無性にバターの味が恋しくなるというバター好きだが、なんといっても、バターはフランスの無塩バターが最高で、パンにバターをつけるのではなく、バターのかたまりにパンを乗せる、というやりかたで、バタ-の味を楽しむほどだ。
フランスのパンは塩気が強いので、無塩バターをつけて食す。日本のパンは塩気がないので、塩分の強いバターをつけて食す。所変われば品変るっていうけど、ホンマやね。
生まれるのはやさしいが、人になるのはむずかしい。(フィリピンの諺)
バタ臭いは知っていたが、ハイカラさんは知らなかった。
最後の諺は、おまけで載せているのだが、いい諺である。

2011年11月28日月曜日

現代型うつ

 NHKのクローズアップ現代で「現代型のうつにどうむきあうか」という番組が放映された。
今、これまでの概念では捉えきれない「うつ病」が増加していると言う。不眠に悩む、職場で激しく落ち込むといった「うつ」の症状を示す一方で、自分を責めるのではなく上司のせいにする、休職中にも関わらず旅行には出かける…。いわゆる”現代型うつ”だ。20~30代の若者を中心に増え続けているとされている。従来の治療法が効きにくいことから医療現場は混乱している。さらに企業では休職者が増え、経営を圧迫。中には「怠け」と判断し、解雇したところ裁判で訴えられるケースも出ていると言う。
その番組が頭から離れなかったので、本屋に行って「鬱の力」(五木寛之、香山リカ)と言う本を購入した。以下一部を紹介する。
香山 さきほども言いましたが、統合失調症が減ってきた反面、いまは日常生活に、軽度の被害妄想が忍び込んでいます。食べ物に対する過敏症にも、妄想が混じっている場合が多い。ネットで個人情報が盗まれたり、自分の噂がネットで勝手に語られていると思い込むのは、昔だったら、完全に被害妄想の症状です。こういう感覚を万人が持っているとしたら、統合失調症として診断される例は減ったけど、むしろ薄まって広がっているのかもしれません。
五木 統合失調症は、本来、想像力の過剰から生まれてくるものでしょう。ということは、想像力が劣化してきているわけですね。
香山 ええ、そうだと思います。統合失調症は、異文化同士の境界で起きる病気といわれていますが、いまは正常と異常のあいだに節目がなくなっている。異質な者同士がぶつかり合うところがなくなっているから、統合失調症もなくなっているのかもしれない。
うつ病の患者さんの話は、ある意味、了解可能なものばかりで、それほど面白くないんですよ。面白いなんて言ってはいけないのかもしれないけど、精神科医的好奇心からは、やはり「私は実はヒットラーの生まれ変わりなんですよ」とか、「先生、宇宙の法則を教えてあげましょう」なんていう話を聞いてみたい。でも、そういう誇大妄想的な、震撼させられるような話を聞くことが少なくなっていますね。
五木 それはたぶん、患者さん自身にとっても、大きなショックを受ける機会が少ないからですよ。誰でもちょっと気分が鬱になるぐらいは、当たり前に起こりうるけど。それに対して「うつ病」というのは重症の病気でしょう。
香山 私もこのごろ、自分が精神科医として治療をするなかで、「うつ病」と「鬱っぽい感じ」の境界をはっきりさせなきゃいけないと思っているんです。それで、クリニックに来る人に「あなたの場合は、うつ病と捉えなくても結構です。こういう悲しい出来事があったら、しばらく落ち込むのは当然ですから、時間が経てばちゃんと回復できますよ」って話すと、多くの方はそれで安心するんじゃなくて、逆に「じゃあ、私のこの気分は、いったいなんなんですか」って、とても不安になるんですよ。
五木 むしろうつ病だと言われたほうが楽なんだな。
香山 たぶん病気によって、自分の輪郭やアイデンティティを与えてほしいんでしょうね。『その痛みは「うつ病」かもしれません』(大塚明彦著)という本が出ています。体のあちこちが痛い人が、内科とかリウマチの検査とか、体を診る科に行っても、正常だと言われてしまう。「痛いんです」「いや、正常です」「本当に痛いんです」という繰り返しに疲れ果てたなかで、「実はあなたはうつ病でした」と言われると、本人も納得してしまうんだと思うんです。
五木 あなたはうつ病なので、それを治療すれば治ります、と言われると安心する、という心理はよくわかります。得体の知れないもやもやが不気味なので、原因をはっきりさせたいんですよ。まさに心療内科の領域ですね。
香山 そうでしょうね.それに、ただの「鬱気分です」って言われてしまったら、あとは自分の考え方とか生き方とかに直面して、自分で取り組まなければいけない課題になってしまう。でも「うつ病」ということになれば、病人なんだから「お任せします」と言えば済む。受け身の立場で手当てされたい、ケアされたい、流行り言葉で言えば「癒されたい」っていうこともあると思うんです。

たしかに、うつ病と鬱は区別して考えた方がいいと感じた。鬱を辞書で引くと、「暗い気持ちになる。気がふさぐ」と書いてある。鬱がない人はない。「うつ病」とは違うのである。他人に癒されたい、慰めて欲しい人が増えているような気がする。



2011年11月22日火曜日

瀬戸内寂聴

齋藤慎爾著の「寂聴伝」(新潮文庫)を購入して読んでいる。寂聴と言えば、51歳で出家得度して、瀬戸内晴美から寂聴になって久しい。瀬戸内晴美の名の小説を読んだことのある人は少ないのではないか。寂聴となってからの、彼女の活躍はここで記すまでもない。その彼女の評伝である。一部紹介したい。


習慣として四国八十八箇所巡りのほうを「遍路」と呼び、西国三十三箇所、即ち近畿地方一円の観音をまつった三十三の寺々を巡るほうは「巡礼」ということになっていて、その起源を遠く奈良時代にさかのぼるとする説もあり、一般に行なわれるようになったのは室町時代からだという。
晴美は物心ついたときから巡礼の旅姿を見て育っている。幼な心に(幸せな巡礼)と(痛ましい巡礼)の二通りがあること、遍路が死と再生のイニシエーションであることを早くも察知している早熟な感性には驚かざるを得ない。幸福な巡礼は自分の店先で、郷里の知人への土産の数珠を買ったりお大師様の絵像を需(もと)めたりし、他方、痛ましい巡礼は、深くかぶった菅笠に崩れた顔をかくし、木の柄杓を遠くからさしのべて、「巡礼に御報謝」と、くぐもった声で低く言う様子をよく見ている。「彼等は、わが家の店の軒下で、鈴を振って御詠歌をうたった」「私は巡礼の御詠歌の哀切なひびきと、箱廻しと呼んでいた人形廻しの語る浄瑠璃の節まわしを同時に聞いて育った」と回想している。
近年、若い女性たちのあいだで、悲願成就を願うとか信仰とはかかわかりなく、ファッションとしての巡礼を楽しむことが流行しているが、ファッションはともかく、元禄のころから、種々のきまりや掟にしぼりつけられた百姓町人、あるいは生存競争のはげしい上方(大坂、京都)の人びとが、村の祭りや五節句に生活の息抜きを求めて、四国路に杖をひくのは恰好の骨やすめの気晴らしの旅であった。
巡礼の対象となっている土地や社寺は昔とほとんど変わってはいないが、すべてが量産され、大衆化する現代に至って、現代的な、あまりに現代的な巡礼の出現を見ることになる。寺とタイアップして西国三十三箇所巡礼のツアーを企画する旅行会社もあって、いまや人々はバスにさえ乗れば目的とする寺の門前にまで到着し、せいぜいさんけい石段を上る程度の難儀で参詣を済ますことができる。寺に入ると人々は一斉に走って寺務所の前に並ぶ。持参の蒐印帳に寺の印を押してもらうためである。肝心の参詣はあと回し、蒐印だけが目的であるような人もいる。三十三箇所の印を全部集めた蒐印帳は高く売れるというのだ。
宗教学者の笠原芳光は、「巡礼というのは寺に詣るだけではなく、その道中を歩くことをいうのではなかったか。目的だけでなく過程にも意味があるはずである。いや、その途中の旅こそが巡礼ではないのか。かつて、その旅は人生の縮図であり、信仰の道程であった。この辺りであれば山坂をあえぎながら、ときおり木の間隠れに見えるきざ波の志賀の湖に心を洗われて、ようやく寺にたどり着くという旅であったに違いない」と、便利さへの欲求という現代の病根の深さを指摘し、「仏の功徳があるとしたら、それは一つでも二つでも自らの足で歩いて詣でる人に与えられるであろう」と結ぶ。

宗教学者の笠原氏の言っていることは、他の事にも当てはまるのではないだろうか。結果だけで、物事を評価しがちなこのご時勢、道中が大事であることをあらためて考えさせられる。
この政局がめまぐるしく動く最中、前総理は前回のお遍路さんの続きを歩いていると言う。できれば国会議員を辞めてからやって欲しいと思うのは私だけではあるまい。

2011年11月17日木曜日

高峰秀子

 昼休みに甲府の中心地、銀座通りの方に散歩によくでかける。アーケード街を通り過ぎて、少し南に下ると私の好きな店「三枝豆店」がある。そこでは、よく千葉産の「ピーナッツ」と「イカ裂き」を購入する。このアーケード街、私が山梨に来た頃は、よく賑わっていたものだ。今は、昼も夜も人気がない。
 帰り道のアーケード街に「春光堂本店」という本屋があったので、ぶらーと入ってみた。この本屋なかなかやるな・・と思った次第。店主のこだわりの本や、配置が随所に見られた。応援したい本屋である。そこで見つけた本「台所のオーケストラ」高峰秀子著を購入した。高峰秀子と言えば、私にとっては「二十四の瞳」である。もっと若い人は、田中裕子の「二十四の瞳」かもしれない。その本の「まえがき」を紹介しよう。

初対面の人との会話にゆきづまったときは、とにかく食べものの話題を持ちだすのが一番無難だと、私は思っている。内心アホクサイと思っても、食べものの話の途中で突然に怒りだす人はいないし、世の中には意外に食いしんぼうが多いのか、今まで知らなかった食べものの話が聞けたりして思わぬトクをすることもある。
私があんまり食べものの話をしたり、食べものの雑文をあちこちに書き散らすので、
もしかしたら「食通」かも?なんて思う人もいるらしいけれど、とんでもないことで、私は食通ではなくてただの「食いしんぼう」なだけだし、第一、私のようにスキキライのはげしい偏見にみちた人間が「食通」なんかである筈がない。
食べることが大好きだから、といって、日夜、最高級の料亭やフランス料理店に入り
びたってニヤニヤするほどの御身分ではないから、せいぜい自分でマーケットに足を運び、自分の気に入った材料を仕入れてきて、自分で台所に立つよりしかたがない。
たまには半日がかりで煮込み料理などを作ったりもするけれど、いくら料理の本と首っ引きで頑張ったって、しょせんはプロの味に太刀打ちできるはずがないことくらいは、ノータリンの私にもちゃんと分っている。
世の中、平和でダレてるせいか、本屋には料理の本が氾濫している。私はいそいそとその料理の本を抱きしめてわが家へ帰り、まず、美しくて美味しそうなカラー写真に見とれたあと、ややこしくて、ひどく時間のかかりそうな製造過程を読み進む途中でガクン! と戦意を喪失して本をブン投げてしまう。しようこりもないことである。
「手間ヒマかける時間はない。でもサ、ちょっと目先の変ったものは食べたいわ、そ
れも買いおきの材料を使って、チョコチョコっと作れるヤツを」
そういう怠けものの情熱家のために、私は、私の貧しいレパートリーの中から、三
分から小一時間ほど」で出来あがる、私流の即席インチキ料理ばかりを選んで書いてみた。
ゴキブリ女房の手なぐさみのことだから、出来あがった料理をカラー写真にして皆さ
んにおめにかける自信は全くないし、もうひとつ、料理の本にはキチンと材料の分量が書いてあるけれど、私の即席料理はその日の気分や健康の工合でサジかげんもコロコロと変るから、だいたいの目安、目分量でしか紹介することができない。ということは、人にはそれぞれ自分の舌があり、好みの味というものがあるのだから、あとは御自分の舌と相談しながら作ってみてください、ということである。
ただ、私の経験からいうと、料理を作るために、三つのことだけは心がけていたいも
のである。ひとつはごく当り前のことだけれど、キュウリ一本、トマト一個といえども材料だけは吟味すること。醤油その他の調味料や香辛料は少なめに買うようにして、こ
まめに新陳代謝させること、もうひとつは、化学調味料の力は偉大だからこそ、効果的に使いこなすこと。以上のことは、常時、台所の若さを保つコツだと思っているし、大
根おろしひとつでも美味しく食べられることだと、私は信じている。
てな案配でゴタクを並べてみたものの、この中の料理が果たして本当に美味しいのかどうかも、無責任なようだけれど、実は私にも全然、分っちゃいないのです。
ま、中味の味は薄っぺらかも知れませんが、外味のほうだけは、私が日頃尊敬している、安野光雅先生が飾ってくださったので、『台所のオーケストラ』という題名も、楽
しい装丁にヒントを得てつけさせて頂いたというわけで、「馬子にも衣裳、髪かたち」
であります。

 なかなかの達筆家であり、食通とみた。ちなみに、高峰秀子さんは、2010年12月になくなっている。

2011年11月16日水曜日

特殊性

 引き続き「不都合な相手と話す技術」から、興味ある内容を引用する。

特殊性に逃げてはいけない
対話とは「相手のことはわからない」ということが前提のコミュニケーションである。わからないのだから、わかりあおうと思ったら話すしかないのである。だが、面白いことに、コミュニケ「ションにおいて「わからない」ことを逆手にとる人たちがいる。自分の特殊性を主張して、それが相手には「わからない」ことを強調するのだ。そうして相手よりも優位に立とうとしたり、あるいは自分の立場を正当化しようとしたりするのである。 
たとえば国際コミュニケーションにおいて「日本は特殊だから--」「日本語は特殊だから--」といった文句が使われることがある。これを日本(日本語)特殊論という。「だから外国人であるあなたにはわからない」という論法だ。「だから日本人である私を特別扱いしてほしい」という虫のいい話に使われる場合もある。
これは対話という観点からすると無用な論法である。ただでさえ「わからない」のに、ますます「わからない」状況へと逃げ込んでいる。
ただ、 これは対話以外のコミュニケーションでも無用な論法なのではないか。「自分は特殊だ」と言い張って、まともなコミュニケーションを拒否しているからだ。そもそも日本や日本語が特殊であるならば、アメリカや英語も特殊であり、フィリピンやタガログ語も特殊なのではないか。自分だけが特別だと思うのは、ちょっと幼児的である。
だが、日本特殊論は意外に根強い。
OECDが2000年から3年ごとに実施しているPISA (国際学習到達度調査)という国際テストがある。数学・科学・読解力の3科目について、15歳の子どもを対象として行われる。フィンランドが全科目で1位を独占して話題になった国際テストだ。
日本の順位は年々下がっており、特に読解力の出来が悪い(06年は56カ国中15位)読海読解力とは簡単にいえば国語のテストである。そのためか教育界の一部で日本特殊論が唱えられた。「あれは欧米型の国語のテストだ。日本語は特殊なのだ。できなくても仕方がない」というのだ。
ちなみに06年の読解力で1位になったのは韓国である。日本語は特殊だが、韓国語は特殊ではないとでもいうのか。みっともない。もともと順位を競うための国際テストではないので、順位のことはどうでもよい。自分の特殊性に逃げ込む態度がみっともないのである。
経験を強調しすぎると話し合いにならない
日常的なコミュニケーションでも特殊性を主張する人たちがいる。特に多いのが「自分の経験」を特殊性として主張する人たちだ。経験を語ることが悪いというのではない。「自分には経験があるからわかるが、経験のないあなたにはわからない」という姿勢が問題なのである。対話という観点からすると、改めて「わからない」ことを強調されても無意味なだけだ。また、一方的に「あなたにはわからない」と決めつけるのは、双方向的なコミュニケーションの拒否である。つまり、「話し合い」にもならないということだ。
もちろん経験は貴重なものだ。実際に経験しなければわからないことはいくらでもある。未経験者が経験者から学ぶべきことは多々あるだろう。だが、経験の過信は禁物である。経験とは厄介なもので、本人にとっては紛れもない事実である。しかし、科学的知識などと異なり、多方面から徹底的に検証されたものではない。だから個人の経験に、どの程度の一般的妥当性があるのかは誰にもわからない。そのため「私の経験では・・・」と語ったところで必ずしも説得力はない。

日本は万世一系の特殊な国なのだという事がよく言われる。特殊な国などないし、特殊な人種もない。
年を取ってくると、やたらと自分の経験から、分別くさいことを言うようになる。戒めたいものである。