中公新書「在日韓国・朝鮮人」福岡安則著を読んだ。著者が大学で教えながら、在日二世、三世と呼ばれる人々の聞き取り調査をしたことをから、「在日問題」を分析している本である。あとがきの一部を紹介する。
同一が平等ではない。ぼくが言いたいのは、差別するな、区別をしてくれ、ということだ。同質化をめざすのが解放だと思い違いをしている人が多い。区別される勇気、区別する勇気が、いま必要なんじゃないかな。だって、ひとりひとり、生きる条件や内的世界はみんな違うのだから。
これは、私が最初に知り合った在日朝鮮人の友人、金幸二(キムヘンイ)氏の言葉である。金幸二氏との出会いは、ある出版社の仕事を通じてであった。1980年のことだ。当時、彼は、「(在日)を生きる者たちから」という副題をもつ季刊ちゃんそり』という雑誌の編集部の一員であった。「ちゃんそり」とは、朝鮮語で「ぐち、たわごと」を表す言葉だという。金田幸二という通名は捨てて、本名ひとつで生きているという彼の語りで印象に残ったのは、一言でいって、「ちがいがあって何が悪いのか」というものであった。
いまの社会、人種差別・民族差別がなくなってきたとはいえ、まだまだ残存している。日本において、朝鮮人に対する差別はずいぶんと大きいのである。その日本に、朝鮮人として、私が住んでいるのです。朝鮮人といっても、私は日本で生まれ、日本で育ち、日本語しか話せず、日本でしか生活できません。外見も中身も他の人と変わらず、ただ違うことといえば、受験などの履歴書の本籍の欄に、“韓国”と小さく書かなければならないということだけです。私自身の違いはそれだけなのです。けれども、社会は、そう見てくれません。なぜ、朝鮮人は嫌われるのでしょうか。こんなにも日本を愛している私が、なぜ、外国人として、差別を受けなくてならないのでしょうか。誰か教えてください。私の居場所を探してください。これは、短期大学を担当した時の韓国籍の女子学生が書いたものである。
私の息子が小学生、中学生の時、在日韓国人の同級生と仲がよかった。子どもがその友達の家に遊びに行った時、私に「お父さん、○○くんの家の中は、なんとなくうちと雰囲気が違うよ」と言ったことを思い出した。その時、息子は彼が在日韓国人と知っていたかどうかも確認しなかった。彼は日本名を名乗っていた。私は、なんとなくうわさで知っていたが・・・。息子と話をしなかったことが悔やまれる。
2012年6月11日月曜日
zainiti
中公新書「在日韓国・朝鮮人」福岡安則著を呼んだ。著者が大学で教えながら、在日二世、三世と呼ばれる人々の聞き取り調査をしたことをから、「在日問題」を分析している本である。あとがきの一部を紹介する。
同一が平等ではない。ぼくが言いたいのは、差別するな、区別をしてくれ、ということだ。同質化をめざすのが解放だと思い違いをしている人が多い。区別される勇気、区別する勇気が、いま必要なんじゃないかな。だって、ひとりひとり、生きる条件や内的世界はみんな違うのだから。
これは、私が最初に知り合った在日朝鮮人の友人、金幸二(キムヘンイ)氏の言葉である。金幸二氏との出会いは、ある出版社の仕事を通じてであった。1980年のことだ。当時、彼は、「(在日)を生きる者たちから」という副題をもつ季刊ちゃんそり』という雑誌の編集部の一員であった。「ちゃんそり」とは、朝鮮語で「ぐち、たわごと」を表す言葉だという。金田幸二という通名は捨てて、本名ひとつで生きているという彼の語りで印象に残ったのは、一言でいって、「ちがいがあって何が悪いのか」というものであった。
いまの社会、人種差別・民族差別がなくなってきたとはいえ、まだまだ残存している。日本において、朝鮮人に対する差別はずいぶんと大きいのである。その日本に、朝鮮人として、私が住んでいるのです。朝鮮人といっても、私は日本で生まれ、日本で育ち、日本語しか話せず、日本でしか生活できません。外見も中身も他の人と変わらず、ただ違うことといえば、受験などの履歴書の本籍の欄に、“韓国”と小さく書かなければならないということだけです。私自身の違いはそれだけなのです。けれども、社会は、そう見てくれません。なぜ、朝鮮人は嫌われるのでしょうか。こんなにも日本を愛している私が、なぜ、外国人として、差別を受けなくてならないのでしょうか。誰か教えてください。私の居場所を探してください。これは、短期大学を担当した時の韓国籍の女子学生が書いたものである。
私の息子が小学生、中学生の時、在日韓国人の同級生と仲がよかった。子どもがその友達の家に遊びに行った時、私に「お父さん、○○くんの家の中は、なんとなくうちと雰囲気が違うよ」と言ったことを思い出した。その時、息子は彼が在日韓国人と知っていたかどうかも確認しなかった。彼は日本名を名乗っていた。私は、なんとなくうわさで知っていたが・・・。息子と話をしなかったことが悔やまれる。
同一が平等ではない。ぼくが言いたいのは、差別するな、区別をしてくれ、ということだ。同質化をめざすのが解放だと思い違いをしている人が多い。区別される勇気、区別する勇気が、いま必要なんじゃないかな。だって、ひとりひとり、生きる条件や内的世界はみんな違うのだから。
これは、私が最初に知り合った在日朝鮮人の友人、金幸二(キムヘンイ)氏の言葉である。金幸二氏との出会いは、ある出版社の仕事を通じてであった。1980年のことだ。当時、彼は、「(在日)を生きる者たちから」という副題をもつ季刊ちゃんそり』という雑誌の編集部の一員であった。「ちゃんそり」とは、朝鮮語で「ぐち、たわごと」を表す言葉だという。金田幸二という通名は捨てて、本名ひとつで生きているという彼の語りで印象に残ったのは、一言でいって、「ちがいがあって何が悪いのか」というものであった。
いまの社会、人種差別・民族差別がなくなってきたとはいえ、まだまだ残存している。日本において、朝鮮人に対する差別はずいぶんと大きいのである。その日本に、朝鮮人として、私が住んでいるのです。朝鮮人といっても、私は日本で生まれ、日本で育ち、日本語しか話せず、日本でしか生活できません。外見も中身も他の人と変わらず、ただ違うことといえば、受験などの履歴書の本籍の欄に、“韓国”と小さく書かなければならないということだけです。私自身の違いはそれだけなのです。けれども、社会は、そう見てくれません。なぜ、朝鮮人は嫌われるのでしょうか。こんなにも日本を愛している私が、なぜ、外国人として、差別を受けなくてならないのでしょうか。誰か教えてください。私の居場所を探してください。これは、短期大学を担当した時の韓国籍の女子学生が書いたものである。
私の息子が小学生、中学生の時、在日韓国人の同級生と仲がよかった。子どもがその友達の家に遊びに行った時、私に「お父さん、○○くんの家の中は、なんとなくうちと雰囲気が違うよ」と言ったことを思い出した。その時、息子は彼が在日韓国人と知っていたかどうかも確認しなかった。彼は日本名を名乗っていた。私は、なんとなくうわさで知っていたが・・・。息子と話をしなかったことが悔やまれる。
2012年6月6日水曜日
能弁と雄弁
「総研いのちとくらし」の中で、二木立氏の「ニューズレター」の最後に私の好きな名言・警句がある。その中で紹介されていた山田孝男氏が「週刊エコノミスト」で書いている文章で、「能弁と雄弁」の違いを言っているところを紹介していたので、エコノミストからそこの部分を探した。以下に記す。
【週刊エコノミスト 5月1・8日合併号】
◇山田孝男(やまだ・たかお=毎日新聞政治部専門編集委員)
映画のサッチャー(メリル・ストリープ)が英国議会の党首討論で雄弁をふるうのは、1982年、フォークランド戦争に勝利した直後、野党にあらためて団結を呼びかける場面である。バックベンチャー(サッチャーの背後の一般議員席)がどよめき、沸き立つ−−。
イギリスの2大政党制に憧れた日本が国会で党首討論を始めたのは99年11月7日だった。最初の取組は凡人・小渕恵三(当時首相、自民党総裁)と宇宙人・鳩山由紀夫(同民主党代表)。「朝食にピザ(=小渕のあだ名が「冷めたピザ」)を食べましたか?」という鳩山の寒いジョークしか覚えていない。
以来、延べ58回の党首討論が実施された。首相も反問する論戦型が定着したと言えなくもないが、それによって前より国会論戦の質が上がったという実感はない。上滑りする論戦は2大政党の液状化と党首の力不足を映し出している。
◇放置される公約違反
そこで野田佳彦首相である。この人の演説、答弁を聞くたびに思うのは「能弁」と「雄弁」の違いということである。「能弁」は「弁舌の達者なこと」(広辞苑)をいう。「雄弁」は「人に感銘を与える、巧みで力強い弁舌」(同)。
野田首相の言葉は常に乱れず、滑らかだが、聞く者に感銘を与えない。つまり、能弁に過ぎない。要するに弁が上滑りをするのだ。
【週刊エコノミスト 5月1・8日合併号】
◇山田孝男(やまだ・たかお=毎日新聞政治部専門編集委員)
映画のサッチャー(メリル・ストリープ)が英国議会の党首討論で雄弁をふるうのは、1982年、フォークランド戦争に勝利した直後、野党にあらためて団結を呼びかける場面である。バックベンチャー(サッチャーの背後の一般議員席)がどよめき、沸き立つ−−。
イギリスの2大政党制に憧れた日本が国会で党首討論を始めたのは99年11月7日だった。最初の取組は凡人・小渕恵三(当時首相、自民党総裁)と宇宙人・鳩山由紀夫(同民主党代表)。「朝食にピザ(=小渕のあだ名が「冷めたピザ」)を食べましたか?」という鳩山の寒いジョークしか覚えていない。
以来、延べ58回の党首討論が実施された。首相も反問する論戦型が定着したと言えなくもないが、それによって前より国会論戦の質が上がったという実感はない。上滑りする論戦は2大政党の液状化と党首の力不足を映し出している。
◇放置される公約違反
そこで野田佳彦首相である。この人の演説、答弁を聞くたびに思うのは「能弁」と「雄弁」の違いということである。「能弁」は「弁舌の達者なこと」(広辞苑)をいう。「雄弁」は「人に感銘を与える、巧みで力強い弁舌」(同)。
野田首相の言葉は常に乱れず、滑らかだが、聞く者に感銘を与えない。つまり、能弁に過ぎない。要するに弁が上滑りをするのだ。
2012年6月4日月曜日
やる気と能力
東洋経済に佐藤優氏が連載している「知の技法」「出生の作法」と言う、外交官時代の経験をもとに、書いている文章は、畑は違うが参考になることが多い。その中の一節を紹介したい。
中間管理職にとって、部下に関してはある程度選ぶことができるが、上司を選ぶことはできない。人間には波長がある。波長が合わない人と一緒に仕事をすることは苦痛だが、折り合いをつけるしかない。人間の感情は相互的。こちらが「嫌だな」と思っているときは、相手もこちらについて良い感情を抱いていない。こういう人と接触が増えると、それだけ摩擦熱が生じるので、できるだけ距離を置いた関係で人事異動を待つのが、現実的方策である。さて、これらの好き嫌いを別にして、部下でも上司でも、やる気と能力の組み合わせで、以下の四つのタイプに分かれることを押さえておく必要がある。
第1型‥やる気も能力もある。
第2型‥能力はあるが、やる気がない。
第3型‥やる気はあるが、能力がない。
第4塑‥やる気も能力もない。
やる気も能力もあるという第1型は、大体どの組織にも2割程度いる。こういう上司の下だと中間管理職としては働きやすい。またこういう部下は、中間管理職の期待に応えてよい仕事をしてくれるため、基本的に扱いやすい。
最も有害なのは、第4型のやる気も能力もない人ではなく、第3型のやる気はあるが能力がない人だ。しかも当事者は、能力がないという現実を直視しょうとしない。だから暴走する。そのためにただでさえ複雑な事態が一層複雑になる。こういう部下に対しては'たとえば公的な試験(外交官ならTOEFLかIELTS)を受験させ、客観的データによって、自分の能力を自覚させることが、効果がある。
いずれにせよ第3型の場合、当人の性格によるところが大きいので、矯正は難しいというのが筆者の経験則だ。もっともこういう人は、50-100人に1人しかいないため、部下でいる間に暴走しないように注意し、できるだけ早く異動させるというのが、現実的対応だと思う。幹部が第3型の場合、上司の思いつきに振り回されず、中間管理職が自分の頭で上司の指示を取捨選択することで、難を避けるしかない。
一番厄介なのは、第3型の「やる気はあるが、能力がない」はなるほどと思う。他は対応の仕方が簡単だが、第3型は対応に困ることが多い。自分への戒めとしたい。
中間管理職にとって、部下に関してはある程度選ぶことができるが、上司を選ぶことはできない。人間には波長がある。波長が合わない人と一緒に仕事をすることは苦痛だが、折り合いをつけるしかない。人間の感情は相互的。こちらが「嫌だな」と思っているときは、相手もこちらについて良い感情を抱いていない。こういう人と接触が増えると、それだけ摩擦熱が生じるので、できるだけ距離を置いた関係で人事異動を待つのが、現実的方策である。さて、これらの好き嫌いを別にして、部下でも上司でも、やる気と能力の組み合わせで、以下の四つのタイプに分かれることを押さえておく必要がある。
第1型‥やる気も能力もある。
第2型‥能力はあるが、やる気がない。
第3型‥やる気はあるが、能力がない。
第4塑‥やる気も能力もない。
やる気も能力もあるという第1型は、大体どの組織にも2割程度いる。こういう上司の下だと中間管理職としては働きやすい。またこういう部下は、中間管理職の期待に応えてよい仕事をしてくれるため、基本的に扱いやすい。
最も有害なのは、第4型のやる気も能力もない人ではなく、第3型のやる気はあるが能力がない人だ。しかも当事者は、能力がないという現実を直視しょうとしない。だから暴走する。そのためにただでさえ複雑な事態が一層複雑になる。こういう部下に対しては'たとえば公的な試験(外交官ならTOEFLかIELTS)を受験させ、客観的データによって、自分の能力を自覚させることが、効果がある。
いずれにせよ第3型の場合、当人の性格によるところが大きいので、矯正は難しいというのが筆者の経験則だ。もっともこういう人は、50-100人に1人しかいないため、部下でいる間に暴走しないように注意し、できるだけ早く異動させるというのが、現実的対応だと思う。幹部が第3型の場合、上司の思いつきに振り回されず、中間管理職が自分の頭で上司の指示を取捨選択することで、難を避けるしかない。
一番厄介なのは、第3型の「やる気はあるが、能力がない」はなるほどと思う。他は対応の仕方が簡単だが、第3型は対応に困ることが多い。自分への戒めとしたい。
2012年5月29日火曜日
苦海浄土
水俣病を知るのに、一番いいのは石牟礼道子氏の「苦海浄土」を読むとことである。少々長いが、素晴らしい文学作品である。池澤夏樹氏は、自分で選んだ「世界文学全集」中に、唯一日本人作家を入れているのが、この本である。以下、池澤氏の紹介文と、作品の一部を紹介する。
今さら言うまでもないが、石牟礼道子の『苦海浄土』は水俣病という大きな不幸の物語である。1950年代の後半から熊本県水俣市で発生した「奇病」と、それに苦しむ患者たちの姿、原因究明にまつわる欺瞞の数々、行政の非力ないし無責任、元凶であるチッソという会社の厚顔無恥・・・などなど悲しくも腹立たしい、また情けない話題に満ちている。情けないと言うのは、当時の日本国民の1人1人にあの惨状の責任があるとぼくが考えるからだ。もちろんぼく自身も含めて。
しかし、それと同時に、あるいは並行して、これはかつて水俣にあった幸福感の物語でもあるのだ。その点でこの作品は凡百の公害がらみのノンフィクションの類を圧倒して、人間の深みに届くルポルタージュ文学になっている。
かつて水俣が古代的な(というのは近代の毒に犯されないままの、という意味だが)幸福の地であったことを知るには同じ著者による「椿の海の記」という本を読むのがいい。幼年時代の「みっちん」のふくふくと幸せなようすが、豊饒な自然や港の賑やかな話題と共に記されている。
『苦海浄土』のところどころに巧妙に配置された幸福感は今は失われたもの、過去の残照でしかないが、それでも充分に眩しい。その光が眩しいからこそ、すぐ隣にある不幸の闇が黒々と際立つのだ。
舟の上はほんによかった。
イカ奴は素っ気のうて、揚げるとすぐにぷうぷう墨をふきかけよるばってん、あのタコは、タコ奴はほんにもぞかとばい。
壷ば揚ぐるでしょうが。足ばちゃんと壷の底に踏んばって上目使うて、いつまでも出てこん。こら、おまや舟にあがったら出ておるもんじゃ、早う出てけえ。出てこんかい、ちゅうてもなかなか出てこん。壷の底をかんかたぴん叩いても駄々こねて。仕方なしに手綱の柄で尻をかかえてやると、出たが殺後、その逃げ足の早さ早さ、ようも八本足のもつれもせずに良う交して、つうつう走りよる。こっちも舟がひっくり返るくらいに追っかけて、やっと籠におさめてまた舟をやりおる。また籠を出てきよって籠の屋根にかしこまって坐っとる。こら、おまやもううち家の舟にあがってからはうち家の者じゃけん、ちゃあんと入っとれちゅうと、よそむくような目つきして、すねてあまえるとじやけん。
わが食う魚にも海のものには煩悩のわく。あのころはほんによかった。舟ももう、売ってしもうた。
たこの動きが目に浮かぶような見事な文章力である。
今さら言うまでもないが、石牟礼道子の『苦海浄土』は水俣病という大きな不幸の物語である。1950年代の後半から熊本県水俣市で発生した「奇病」と、それに苦しむ患者たちの姿、原因究明にまつわる欺瞞の数々、行政の非力ないし無責任、元凶であるチッソという会社の厚顔無恥・・・などなど悲しくも腹立たしい、また情けない話題に満ちている。情けないと言うのは、当時の日本国民の1人1人にあの惨状の責任があるとぼくが考えるからだ。もちろんぼく自身も含めて。
しかし、それと同時に、あるいは並行して、これはかつて水俣にあった幸福感の物語でもあるのだ。その点でこの作品は凡百の公害がらみのノンフィクションの類を圧倒して、人間の深みに届くルポルタージュ文学になっている。
かつて水俣が古代的な(というのは近代の毒に犯されないままの、という意味だが)幸福の地であったことを知るには同じ著者による「椿の海の記」という本を読むのがいい。幼年時代の「みっちん」のふくふくと幸せなようすが、豊饒な自然や港の賑やかな話題と共に記されている。
『苦海浄土』のところどころに巧妙に配置された幸福感は今は失われたもの、過去の残照でしかないが、それでも充分に眩しい。その光が眩しいからこそ、すぐ隣にある不幸の闇が黒々と際立つのだ。
舟の上はほんによかった。
イカ奴は素っ気のうて、揚げるとすぐにぷうぷう墨をふきかけよるばってん、あのタコは、タコ奴はほんにもぞかとばい。
壷ば揚ぐるでしょうが。足ばちゃんと壷の底に踏んばって上目使うて、いつまでも出てこん。こら、おまや舟にあがったら出ておるもんじゃ、早う出てけえ。出てこんかい、ちゅうてもなかなか出てこん。壷の底をかんかたぴん叩いても駄々こねて。仕方なしに手綱の柄で尻をかかえてやると、出たが殺後、その逃げ足の早さ早さ、ようも八本足のもつれもせずに良う交して、つうつう走りよる。こっちも舟がひっくり返るくらいに追っかけて、やっと籠におさめてまた舟をやりおる。また籠を出てきよって籠の屋根にかしこまって坐っとる。こら、おまやもううち家の舟にあがってからはうち家の者じゃけん、ちゃあんと入っとれちゅうと、よそむくような目つきして、すねてあまえるとじやけん。
わが食う魚にも海のものには煩悩のわく。あのころはほんによかった。舟ももう、売ってしもうた。
たこの動きが目に浮かぶような見事な文章力である。
2012年5月23日水曜日
戦後沖縄の人権史
「本土復帰」検証のよすがに、と言うことで、沖縄人権協会編著で「戦後沖縄の人権史」というタイトルの本が紹介されていた。わたしもこれから購入して読むつもりである。池田香代子氏(翻訳家)の紹介文章を以下に記す。
人権というキーワードで沖縄の戦後を年代記のように記述する。これは、編著主体である沖縄人権協会にしかできないことだ。本書が施政権返還協定発効から40年の節目に上梓されたことの意義は大きい。沖縄はなぜ「本土復帰」を望んだのかを今一度確認し、その目的は達成されたのかを検証するためのよすがとなるからだ。
「復帰」前、沖縄は、「同朋を日本に連れ戻したい」というような「本土」側の情緒とは、完全に無縁だった。まさに人権がない状態にあって「本土」が享受している平和の果実、つまり日本国憲法を発見し、それを獲得することを目指したのだ。
「本土復帰」はそのための手続きだった。けれど、日本という国家は沖縄を裏切り続けた。百歩譲って、サンフランシスコ条約で沖縄を切り離したのは、敗戦国としていたしかたなかったと弁明できるかもしれない。けれど、施政権返還時に米軍基地への土地提供などをめぐって、法制化や密約を駆使してなされた行為は、確信犯的積極的な裏切りであり、それが、地位協定見直しも普天間閉鎖も実現しない現在の裏切りへと直結している。
読み進みながら、ある判決を思い浮かべていた。人権は平和があって初めて実現される、だから憲法前文の平和的生存権は異体的な人権だとした、イラク自衛隊派遣違憲訴訟にたいする名古屋高裁の判決だ。巻末近く、この判決が引用されていた。そう、軍隊があるところに平和はなく、平和のないところに人権は乏しい。この国の政治は、それをいつまで沖縄に実証させておくつもりかと、天を仰いだ。
5月いっぱい、私は沖縄にこだわるつもりだ。
人権というキーワードで沖縄の戦後を年代記のように記述する。これは、編著主体である沖縄人権協会にしかできないことだ。本書が施政権返還協定発効から40年の節目に上梓されたことの意義は大きい。沖縄はなぜ「本土復帰」を望んだのかを今一度確認し、その目的は達成されたのかを検証するためのよすがとなるからだ。
「復帰」前、沖縄は、「同朋を日本に連れ戻したい」というような「本土」側の情緒とは、完全に無縁だった。まさに人権がない状態にあって「本土」が享受している平和の果実、つまり日本国憲法を発見し、それを獲得することを目指したのだ。
「本土復帰」はそのための手続きだった。けれど、日本という国家は沖縄を裏切り続けた。百歩譲って、サンフランシスコ条約で沖縄を切り離したのは、敗戦国としていたしかたなかったと弁明できるかもしれない。けれど、施政権返還時に米軍基地への土地提供などをめぐって、法制化や密約を駆使してなされた行為は、確信犯的積極的な裏切りであり、それが、地位協定見直しも普天間閉鎖も実現しない現在の裏切りへと直結している。
読み進みながら、ある判決を思い浮かべていた。人権は平和があって初めて実現される、だから憲法前文の平和的生存権は異体的な人権だとした、イラク自衛隊派遣違憲訴訟にたいする名古屋高裁の判決だ。巻末近く、この判決が引用されていた。そう、軍隊があるところに平和はなく、平和のないところに人権は乏しい。この国の政治は、それをいつまで沖縄に実証させておくつもりかと、天を仰いだ。
5月いっぱい、私は沖縄にこだわるつもりだ。
2012年5月15日火曜日
沖縄本土復帰40年
今日は沖縄本土復帰40年である。沖縄の歴史を知る上で「琉球王国」高良倉吉(岩波新書)は参考になる。以下、わかり易いところを紹介する。
「幕藩体制のなかの異国」
以上に展開した叙述によって、次の点がほぼあきちかになったと思う。日本列島の社会と共通の文化的基盤から出発しながらも、琉球諸島社会がしだいに個性化の過程をたどり、古琉球の時代において日本列島の国家と明確に区別される独自の王国を形成したこと。その王国がアシアの国際社会と交流しつつ歴史を形成してきたこと。そして、王国には国内を統治するための諸制度や組織が明瞭に存在したこと、等々である。
そして日本本土の南に出現したこの王国は、日本国家のなかに段階的に編成されてゆく。その第第一段階は、島津侵入事件(1609年)を契機とする近世の段階である。全体として琉球王国は近世日本の国家体制(幕藩制国家)の一環に編成され、その直接的な管理者として薩摩藩が存在した。たとえばキリシタン禁制、鎖国制、石高制、士農分離制といった幕藩制国家の基本的な原理は薩摩藩を介して琉球にも導入され、王国のあり方を強く規定している。要するに、「幕藩体制下の琉球」というあらたな性格が近世を通じて付与されたのである。
だが、琉球の王国体制は温存されたままであり、中国皇帝(明朝の滅亡後は清朝)の冊封をうけこれに進貢する関係も存続したために、従来の「王国としての琉球」「冊封体制下の琉球」という性格は残った。この二つの性格を濃厚にふくんだまま、「幕藩体制下の琉球」としての近世の時間は経過したのであった。
実質的に近世日本の国家体制のもとにくみこまれた従属的な存在、その一方では中国の冊封体制下にもある王国・・、一見暖味な存在にみえる近世のこの王国をさして、これまで「日支両属」と形容する歴史家が多かった。あながちまちがいとはいえないが、しかし、日本への属し方が支配―被支配関係を軸とする直接的なものであったのに対し、中国への属し方は外交・貿易を媒介とする間接的なものであったから、両者を「両属」という同一レベルで表現するのは正確とは思えない。それに、日本の封建国家に従属し、中国皇帝の冊封をうけたとはいっても、琉球の土地・人民を直接的に統治したのは琉球国王であり、その統治機関たる首里王府であった。そこで、このような多義的な事情をカウントにいれたうえで、最近の歴史家は近世琉球の基本的性格を「幕藩体制のなかの異国」と表現するようになっている。
第二段階は、1879(明治12)年の琉球処分によって王国が崩壊し、「沖縄県」が設置された以降の段階である。日本における廃藩置県(1871年)は,それまで大名が支配してきた各藩の土地・人民を天皇にお返しする「版籍奉還」(1869年)を前提に実施されたが、琉球国王の場合は天皇から土地・人民の支配権を授けられたことはなかったので、「版籍」を天皇に「奉還」する必要はなかった。したがって、沖縄県設置について琉球側が頑強に反対し、また、琉球に対する宗主権を楯に中国側が強く抗議する状況のなかで、明治国家としては軍隊・警察官を本土から動員し、力ずくで首里城のあけわたしを迫る行動に出るしかなかった。
もし、近世の270年間を通じて王国が完全に日本の「国内」的存在に編入されていたのであれは、このような紛糾した事態は起こらなかったであろう。沖縄県設置をめぐて、琉・日・中三者がもめたのは、近世の琉球王国が「幕藩体制下」に編成されていながらち、反面ではまた、それを相対化するほどの「異国」として存在しつづけてきたことに原因があったといわなければならない。
冊封体制とは
中国,歴代王朝が東アジア諸国の国際秩序を維持するために用いた対外政策。中国の皇帝が朝貢をしてきた周辺諸国の君主に官号・爵位などを与えて君臣関係を結んで彼らにその統治を認める(冊封)一方,宗主国対藩属国という従属的関係におくことをさす。
「幕藩体制のなかの異国」
以上に展開した叙述によって、次の点がほぼあきちかになったと思う。日本列島の社会と共通の文化的基盤から出発しながらも、琉球諸島社会がしだいに個性化の過程をたどり、古琉球の時代において日本列島の国家と明確に区別される独自の王国を形成したこと。その王国がアシアの国際社会と交流しつつ歴史を形成してきたこと。そして、王国には国内を統治するための諸制度や組織が明瞭に存在したこと、等々である。
そして日本本土の南に出現したこの王国は、日本国家のなかに段階的に編成されてゆく。その第第一段階は、島津侵入事件(1609年)を契機とする近世の段階である。全体として琉球王国は近世日本の国家体制(幕藩制国家)の一環に編成され、その直接的な管理者として薩摩藩が存在した。たとえばキリシタン禁制、鎖国制、石高制、士農分離制といった幕藩制国家の基本的な原理は薩摩藩を介して琉球にも導入され、王国のあり方を強く規定している。要するに、「幕藩体制下の琉球」というあらたな性格が近世を通じて付与されたのである。
だが、琉球の王国体制は温存されたままであり、中国皇帝(明朝の滅亡後は清朝)の冊封をうけこれに進貢する関係も存続したために、従来の「王国としての琉球」「冊封体制下の琉球」という性格は残った。この二つの性格を濃厚にふくんだまま、「幕藩体制下の琉球」としての近世の時間は経過したのであった。
実質的に近世日本の国家体制のもとにくみこまれた従属的な存在、その一方では中国の冊封体制下にもある王国・・、一見暖味な存在にみえる近世のこの王国をさして、これまで「日支両属」と形容する歴史家が多かった。あながちまちがいとはいえないが、しかし、日本への属し方が支配―被支配関係を軸とする直接的なものであったのに対し、中国への属し方は外交・貿易を媒介とする間接的なものであったから、両者を「両属」という同一レベルで表現するのは正確とは思えない。それに、日本の封建国家に従属し、中国皇帝の冊封をうけたとはいっても、琉球の土地・人民を直接的に統治したのは琉球国王であり、その統治機関たる首里王府であった。そこで、このような多義的な事情をカウントにいれたうえで、最近の歴史家は近世琉球の基本的性格を「幕藩体制のなかの異国」と表現するようになっている。
第二段階は、1879(明治12)年の琉球処分によって王国が崩壊し、「沖縄県」が設置された以降の段階である。日本における廃藩置県(1871年)は,それまで大名が支配してきた各藩の土地・人民を天皇にお返しする「版籍奉還」(1869年)を前提に実施されたが、琉球国王の場合は天皇から土地・人民の支配権を授けられたことはなかったので、「版籍」を天皇に「奉還」する必要はなかった。したがって、沖縄県設置について琉球側が頑強に反対し、また、琉球に対する宗主権を楯に中国側が強く抗議する状況のなかで、明治国家としては軍隊・警察官を本土から動員し、力ずくで首里城のあけわたしを迫る行動に出るしかなかった。
もし、近世の270年間を通じて王国が完全に日本の「国内」的存在に編入されていたのであれは、このような紛糾した事態は起こらなかったであろう。沖縄県設置をめぐて、琉・日・中三者がもめたのは、近世の琉球王国が「幕藩体制下」に編成されていながらち、反面ではまた、それを相対化するほどの「異国」として存在しつづけてきたことに原因があったといわなければならない。
冊封体制とは
中国,歴代王朝が東アジア諸国の国際秩序を維持するために用いた対外政策。中国の皇帝が朝貢をしてきた周辺諸国の君主に官号・爵位などを与えて君臣関係を結んで彼らにその統治を認める(冊封)一方,宗主国対藩属国という従属的関係におくことをさす。
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