2013年4月5日金曜日

ユダヤ人の歴史


以前にも紹介したことがある「もういちど読む山川:世界史」をぱらぱら読んでみた。
その中で、「ユダヤ人の歴史」として以下の文章があった。
ユダヤ人の歴史
前13世紀に南シリアのパレスチナ地方に侵入し定着したヘブライ人は、みずからをイスラエル人と称し、またユダヤ人ともよばれた。彼らはユダヤ教とキリスト教をうみだすとともに、唯一神ヤハウェへの信仰と選民思想とをよりどころに、いくたの苦難にたえながら、今日まで聖都イェルサレムを核として一体性を保ってきた民族である。
前11世紀末に王国をたて、ダヴィデ・ソロモン両王のもとで栄えたが、その後、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂し、さらに両国ともそれぞれアッシリアと新バビロニアによってほろばされる。なかでもユダ王国の滅亡に際しては多くのユダヤ人がとらえられて東方に送られ(バビロン捕囚)、彼らはペルシア王キュロスの手で解放され帰国を許されたものの、この時代に世界各地へのユダヤ人の離散(ディアスポラ)がはじまった。
祖国にとどまったユダヤ人はそののちも大国の抑圧に悩み、セレウコス朝シリアに対する抵抗に成功して一時独立を達成するけれども、ローマ帝国との戦いに敗れて、イェルサレムは破壊され、ディアスボラの動向もまた決定的となった。
中世から近代にいたるまでイスラエルの地はビザンツ帝国・アラブ人・十字軍・オスマン帝国そしてイギリスにあいついで支配されるが、ヨーロッパ各地に離散したユダヤ人たちも社会の下層にあって差別と抑圧の対象とされた。
19世紀の未、古代イスラエルの地にユダヤ人の国家を再建しようとする運動(シオニズム)がうまれ、第二次世界大戦後イスラエル建国となって結実する。しかしそれは7世紀以降パレスチナに住み続けたアラブ人を排除する結果をともない、現在にいたるアラブとイスラエルとの尖鋭な対立の原因となった。
イスラエルとアラブとの戦いのルーツは紀元前13世紀からの歴史に根ざしている。あらためて紛争解決の困難さを感ずる。そういえば、PLOのアラファト議長が亡くなって大分経つが、毒殺されたのではないか?という記事もあったことを思い出した。

2013年4月3日水曜日

名言・警句


『二木立の医療経済・政策学関連ニューズレター(通巻104号)』
私の好きな名言・警句の紹介(その99)-最近知った名言・警句のなかから、一部紹介する。
美輪明宏(歌手、77歳。2012年「NHK紅白歌合戦」に初出場して、1965年発表の自作曲「ヨイトマケの唄」を熱唱。音楽配信サイト「レコチョク」が行った「紅白で最も印象に残ったアーティスト」投票で1位に)「60年同じスタンスでやってきましたでしょ。これまでも『美輪は変わらないのに、世間がついてきた』と言われてきました。今度もそうかな、と」、「日本の美を知る環境に育ち、それが軍国主義であっという間に否定されるのを見てきました。私のスタイルは、軍国主義に対するレジスタンス、戦闘服なんです」(「毎日新聞」1月30日朝刊、「『歌う美輪さん』衝撃」)。二木コメント-私も40年間「同じスタンスでやってきました」が、美輪さんを見習ってさらに20年それを続けようと思いました。私は、日本がまだ貧しかった1950年代の日雇い労働者(ヨイトマケ)の汗と涙を正面から歌い上げた「ヨイトマケの唄」は、社会福祉の「どんなきれいな」政策よりも、「どんなきれいな」理論よりも、日雇い労働者を「励まし慰め」、彼らに対する偏見や差別の解消に貢献したと信じており、1994年から現在に至るまで20年間、日本福祉大学のゼミコンパ、学部・大学院の講義、各種の懇親会で歌っています。2006年には、この唄を国際的にも広めるべく、本学の小泉純一教授(英語)の助言も受けながら、歌詞を実際に歌えるように英訳しました。同じ年に、韓国人と中国人の友人に頼んで韓国語訳・中国語訳も作ってもらい、各種国際会議の懇親会では、できるだけ、日英中韓4か国語版のヨイトマケの唄の歌詞を配布しています(以上、4月1日に出版予定の近著『福祉教育はいかにあるべきか-演習指導と論文指導』勁草書房、第1章)。4月に日本福祉大学学長に就任したら、この唄を(事実上の)「日本福祉大学第二校歌」にしたいと、密かに考えています。なお、各国語訳をご希望の方には個別に差し上げますので、ご連絡下さい(著作権法上、本「ニューズレター」に掲載することはできません)。
   山田洋次(映画監督。新作「東京家族」(1953年)は映画史に輝
小津安二郎「東京物語」を、東日本大震災後の現代に舞台を移し
て「なぞった」作品)「『東京物語』と『東京家族』で見終わった後の
印象が違うとしたら、小津さんと僕の人生観が少し違うってことじ
ゃないですかね。小津さんは、やっぱり少し冷たいんです。人生
を突き放してみているところがある。虚無的ですよね。僕は希望
というのを捨てたくない。見つけにくいものですけどね」(「朝日新
聞」2013年1月30日朝刊、「山田洋次『東京家族』語る」)。二木コメ
ント-山田監督は、「武士の一分」(2006年公開)でも、次のように
「希望」を語っていました。
 私も、「東京家族」を観た。「東京物語」をもう一度観たいと思い、ツタヤに行ったら、貸し出してあった。近いうちに観てみたい。
 三輪明宏氏は、現在の煌びやかな格好に惑わされてはいけない。ものすごく筋の通った人間であると思う。

2013年4月1日月曜日

震災日録


以前にも紹介した、森まゆみさんの著書「震災日録」(記憶を記録する)から。
昨日、田名加さんが言っていたことが頭から離れない。「金をもらって原発を認めてしまった人はその責任をとらなければならない。原発内で出た使用済み核燃料は製造物責任でそこに置いておくしかありません。
岩手のほとんど汚染されていないがれきを東京が引き受けるのはまだしも。大熊町へ双葉町の住民は核を受け入れた責任をとるべきだし、除染は移染にすぎない。もうそろそろきれいごとはやめて、もうここには住めない、ならどうするか、ということを提起しなければならない。こういうと東京の住民を喜ばせるだけかもしれませんが。
福島の子どもに罪はないのに、と私が言うと、「それもキレイゴトだと思う。子どもを守るのは親の責任です。親が子どもを逃がすか、一緒に避難するか、そこに留まることを選ぶか、それによって子どもの未来が決まるでしょう。国が住民の命なんか守りつこないことは証明済みですから」。
30年近く、原発と対峙し、差止訴訟の中心におられる方の冷静なきびしい言葉である。田名加さんは志賀原発から近い羽咋市でヨウ素剤を配布するよう運動し、成功した。
「原子力を受け入れるということは、海も空も田畑も汚し、取りかえしのないことになるんだということを、覚悟して受け入れるならいい。無責任にただ金をもらいへ地域振興の甘い夢に乗せられて、原子カムラのいいなりになる人が多すぎる。ムラなんてかわいいものじゃない。日本は政財官学マスコミのよってたかってつくった原子力帝国です」。
注:文中の田名加氏は、おそらく「多名賀哲也」氏のことだと思う。誤字と思われる。
多名賀氏は30年以上、原発問題に向き合ってきた人だけに、綺麗ごとでない言葉だが、重い言葉と考える。よってたかってつくった原子力帝国・・・。

2013年3月29日金曜日

池澤夏樹

 
3・11を忘れないために、くどいようだが、いろんな人の文章を紹介したい。今回は
池澤夏樹 「3・11後 忘却に抗して」(毎日新聞)の文章を紹介。
流されるな、論理持て
「地理的条件が国の歴史を作るのです」。作家、池澤夏樹さんは静かに、しかし、よどみなく語り始めた。
「日本の場合、島国であること。それも大海にある遠い島などではなく、大陸と1衣帯水の島。だから文明や人、技術は大陸から伝わったが、軍勢は海を渡って来られなかった。異民族支配を知らずに済んだ。思えばこの国は、実にうまくできた国土なのです。ただし、この地理的条件ゆえに、災害も多い」
ギリシャ、沖縄、フランスと移り住んできた池澤さんは今、北海道・札幌に暮らす。常に外からの視点で、日本という国を前後左右、斜めから見つめてきた。だからだろう。地政学の講義のような池澤さんの語り口を聞いていると、かなたの宇宙船からこの島国を見下ろしている気分になる。その宇宙船は、どこか“着地点”をまっすぐ目指している、そんな感じ・・・。
「災害が多いのは、大陸プレートと海洋プレートの境界線の上に位置しているから。つまり大陸の縁にあるこの島国は、それゆえ火山の噴火や地震、津波が多かった。災害と復興こそが、この国の歴史の主軸なのです」
繰り返される天災が、国民性を形づくったという。「日本人は自然と対決することを避け、むしろ絡み合うように生きてきた。勝てる相手ではないから。災害のたび、多くを失い、泣き、脱力し、そしてしばらくすると立ち上がり、再び作り上げた。江戸時代、大火を何度も体験しながら、燃えない石の家をつくろうとせず、紙と木の家を建て続けた。火事も天災と受け止めていたのでしょう。問題は、人が意志を持って行った結果である人災すら、天災と同じように受け止め、災害の責任追及をうやむやにしがちなことです」
(天)ではなく、(人)の出した火も、天災のように受け止めてきたこの国。2011年3月11日、津波と福島第一原発の暴走を前に私たちは、天災と人災とをどこまで区別できたのかーー。ここが宇宙船の“着地点”だ。
池澤さんは言う。「原発事故を天災と受け止めた人は少なくなかった。東電は「想定外」という言葉で、人災ではなく天災、と問題をすり替えようとした。今回ばかりは日本人も随分と抗議し、責任追及している。しかし頭で「想定外」を否定しながらも、心のどこかで『大変な津波だったんだから仕方ない』とあきらめてはいないか。それを乗り越えるには論理の力が必要です」
論理がないから、私たちは流されてしまう。思えば過去にも。「第二次大戦で負けた時に似ています。日本人は政策決定者の責任を追及する前に「一億総ざんげ」してしまった。アイヌや沖縄人、朝鮮半島から来た人たちを軽視し、単一民族国家と言い募り、その一体感で『お父さん』の責任追及より『家族みんなで団結を』と問題をすり替えた。震災後、正直いうと僕はうんざりでした。『みんなで頑張ろう』だの『絆』だの・・・」 
池澤さんがふいにみせた憤りと、「絆」という言葉との不釣り合いさに、ドキリとした。震災後、人々が見出し、あるいは求めた人と人の絆は、我々の希望ではなかったのか。
「確かに今回はみんな、よく東北を助けました。ボランティアの動きも早かった」と前置きした後、こう続けた。「しかし、絆は『縛り』にもなるからね」
池澤さんは例を挙げた。たとえば、1000人の被災者がいる避難所で、300人分の食料支援を「全員に行き渡らないと不公平だから」と断った避難所。ようやく電気が復旧したのに、隣家が停電中と知って気が引けて電灯をつけなかった人々。絆を重んじるがあまり、個人の大切なものをないがしろにしなかったか。
「稲作に由来する集団主義。隣組的などうかつ、異物排除・・。東日本大震災の後、東北だけでなく、日本全体が『向こう三軒両隣主義』にさらされた。ひっそり暮らさねば、と」
思わず「自粛」や「被災地を考え、我慢しろ」という言葉が思い出された。
「さらに原発事故で対立軸が生じた。逃げるか逃げないか。『逃げられる人はいいね』とある人は言い、『子どもがいるから必死』と別の人は言った。地震や原発事故は、絆を結ぶと同時に、分断する力でもあったのです」
今、池澤さんは「脱原発」を掲げ、執筆や講演活動を続けている。「原子力は人間の手に負えません。国土は国の基本なのに、日本のまん中に何十年も住めない国土をつくってしまった。福島の人は全国各地に避難している。ディアスポラ、流浪の民を生んでしまった。大きな罪です」
「除染?世の中の毒は焼けば消失しますが、放射性物質は違う。取り除けないのだから『除染』ではなく 『移染』。そんなものを大気に、海に放出し、国際社会においても罪を犯してしまった」
日本にいる者で、責任の外にある者などいない、と明言する。だからこそ、「日本が本当に変わっていく転機としなければならない」とも。
長く外国に暮らし、各国を旅してきた作家は今、しみじみという。「東日本大震災の日、日本に住んでいて良かった」と。それはなぜ?
「外国にいたら抽象的な考え方にとどまっていたでしょうから。僕はこれまで、知らない土地に暮らし、言葉を覚え、その地の文化を徐々に理解することが面白くて仕方なかった。でも今回は違う。僕は東北という土地に取り付かれてしまったんです。頭からどうしても離れない。毎月のように通っています。ただ復興を見届けなければと思うのです」
近著「春を恨んだりはしない」の最後に書いている。東北で多くの人々が唐突に逝った。残された者は、それに付き添えなかった悔恨を共有し、それでも先に向かって歩いて行かねばならない、と。(その先に希望はあるか?もちろんある。)
池澤さんは同書の中で続ける。「希望はあるか、と問う我々が生きてここにあることがその証左だ」と。
だから最後の質問は、インタビューの前から決めていた。「東北で希望は見いだせましたか」池揮さんは一瞬の迷いもなくきっぱりと答えてくれた。「ええ。見つかりますよ」
それは例えば、被災し、仮設住宅に暮らす理髪店の青年。津波で父親を亡くしたその人は,池澤さんの髪を切りながらこう言ったそうだ。「うちなんか運がいいほうです。手に職があるしね。被災地にいても、人の髪の毛は伸びるから」

日本にいる者で、責任の外にある者などいない。この言葉は重い。希望はあるか、と問う我々が生きてここにあることがその証左だ。この言葉は力強い。
今回のキーワードは以下の3つである。
論理がないから、私たちは流されてしまう
絆は『縛り』にもなる
日本にいる者で、責任の外にある者などいない

2013年3月27日水曜日

玄侑宗久

 
「3・11後 忘却に抗して」(毎日新聞)の中で、玄侑宗久さんの文章を紹介する。


墨色の被布―――作家の玄侑宗久さんは、福島県三春町にある寺の住職でもある。寺は福島第一原発から西へわずか45キロ。震災直後の2カ月で、玄侑さんの寺の檀家だけでも5人が自殺した。
「福島県民の間で、いくつもの心の分裂が深刻化している」と言う。放射能から逃れるため福島から出る、出ない。残ったとしても地元の米や野菜を食べる、食べない。子どもに食べさせる、食べさせない。それらはまるで「踏み絵」のような苦痛を伴う。
「放射能の問題は、結局精神的な問題になってしまっています。年間100ミリシーペルー以下の低線量被ばくについては健康被害を示す明確なデータがない。現代人は分からないことに向き合うのが苦手ですからどちらかに分類したがり、その結果二つの極端な立場が生まれた。放射線は少なければ少ないほどよいと考える悲観的立場と、塩分などと同様に放射線も適量ならば体にいいという楽観的立場です。どちらも医学的には証明が難しいため、信仰に近い様相を呈しています」
万が一を考えれば、悲観的立場の方が“正義”だろう。「注意しなければならないのは、こうした態度を他県の人から取られれば、それはあっさりと『差別』になってしまうということです。福島の人とは接しない方がいい、結婚しない方がいいと」
玄侑さんは、ひとまず冷静になって原発事故前の生活でどれだけ被ばくしていたか知る必要があるとし、放射性カリウムを例に説明する。
「放射性セシウムばかり注目されていますが、もともと自然界には放射性カリウム40がある。我々にとって必須ミネラルであるカリウムのうち、0.01%は放射性カリウムで、バナナにも40ベクレル、米には1キロ当たり30ベクレルほど含まれる。体重60キロの人は約4000ベクレルの放射線を発しています。これが有害なら母親が赤ちゃんを抱くのも危ない。今福島に必要なのは、信仰やイデオロギーに陥ることなく具体を見ながら対処することです。夢のような放射線ゼロを目指すこの正しき人々が、私は最も怖いのです」
福島を分裂させる原因は、国の責任放棄にもある。昨年4月から政府の東日本大震災復興構想会議委員も務める玄侑さん。放射能に汚染された土壌などを保管する「中間貯蔵施設」の建設を巡る問題を気に掛ける。野田佳彦首相(当時)は原発が立地する双葉町と大熊町を含む双葉郡(6町2村)内への設置を要請しているが、「なし崩し的に最終処分場になるのでは」との懸念もあり、結論は出ていない。
「国は、双葉郡の6町2村で話し合って決めてくださいと言っているが、決まるわけがない。8町村が集まれば、たとえ双葉郡内での受け入れはやむを得ないと思っていても、みんな自分の町だけには持ってこさせたくないわけです。双葉町の井戸川克隆町長は『双葉郡民も国民ですか。憲法で守られていますか』と聞きましたが、人権の問題が出てきたら、もう当事者間では決まりません。みんなの人権を守るために誰かの人権を踏みにじるのが国家の仕組みですが、その責任を国家が放棄したのですから」
玄侑さんはやや身を乗り出した。だが、怒りを抑えるように落ち着いた口調のまま続けた。「結局、自己責任の発想です。国は、町村がこう言ったからこうしたという言い訳を常に考えている。国は腹案を持っているはずですから、県も交えて腹を割って話し合い、ごまかしなく誠意をもって正面からお願いするしかないのです。犠牲を強いる代わりに当然の手当てとして、一時的にせよ永続的にせよ、町村単位で移転できる代替地を国があっせんせねばなりません。そうでなければ全国に散らばった福島県民は、完全にユダヤ人状態になってしまう。国としての責任と決断が問われています」
震災を機に、原発に代表される効率や市場経済を優先するシステムの危うさが露呈したはずだった。しかし、この国はその教訓を生かす方向には進んでいない。玄侑さんはそう感じる。
特に納得がいかないのは環太平洋パートナーシップ協定(TPP)参加に向けた、震災前と変わらない国の態度だ。「福島は風評被害だけでどうしようもない状況ですから、世界的競争力も何もありません。政府はTPPに参加しなければ『バスに乗り遅れる』と言いましたが、そのバスはどこへ向かっているのか。世界の流れがおかしくなっているとは思いませんか。IMF(国際通貨基金)が助けようとしているのは、ギリシャ人ではなく、ギリシャの銀行なのですよ」と、語気を強める。

私には、以下の言葉がキーワードとして心に残った。
夢のような放射線ゼロを目指すこの正しき人々が、私は最も怖いのです
みんなの人権を守るために誰かの人権を踏みにじるのが国家の仕組み
結局、自己責任の発想です
IMF(国際通貨基金)が助けようとしているのは、ギリシャ人ではなく、ギリシャの銀行なのですよ

2013年3月25日月曜日

震災のこと 渡辺えり

 
 3・11を心に刻んで(岩波書店)から、俳優「渡辺えり」さんの文章を紹介する。
東北にあれだけの被害があったというのに、この東京の暮らしに不便がないことを不思議に思う。あれだけの人たちが亡くなったというのに、私が今、時々笑ったりしながら過ごしていることを不思議に思う。
あれから、山形に帰郷する回数が増えた。山形は東北でも地震の被害が少なく、原発事故後も奥羽山脈が放射能の風を遮った。山形市は被災した地区には車で二、三時間という距離なので、そこを拠点に瓦礫撤去や炊き出しのボランティアができた。
友人のミュージシャンや劇団員たちを募り、避難所でのコンサートや絵本の朗読、そして炊き出しや生活用品の寄付などを行った。
津波と原発事故の両方の災害で南相馬市から避難されて来た方たちが、山形市の避難所に多くおられた。炊き出しに礼儀正しく整列し、「すみませんね。ありがとうございます」と頭を下げる姿に胸が詰まった。自分たちは何も悪いことをしていないのに、こんなにも頭を下げ、ボランティアに対して感謝の気持ちを表している。子供たちにと思い持っていった絵本やぬいぐるみを、年配の方々も喜んで下さる。すべてが津波にさらわれてしまったため、記憶の中の絵本をまさぐりたい思いが強いという。そしてぬいぐるみをしっかと抱く熟年の男性たちもおられた。
もし自分ならどうしたであろう? 自分を表すものがすべてなくなるという感覚。自分というものの存在を示す記憶の鏡がすべて消えてしまう。物だけではない。温かな、生きていた身近な人たちも永遠に消えてしまう。そして、そうした体験をした直後に避難した不慣れな場所で、知らない方たちと共同生活を余儀なくされ、我慢に我慢を強いられているのに、頭を深々と下げてお礼を言うのだ。そんなことが私にできるのだろうか・・・?
子供と離ればなれのまま地元から派遣され、避難所の看護師をしている若い看護師さんたちもいた。笑顔を絶やさず、自分の生活のことは語らずに奉仕する。看護師さんたちも被災者なのにである。一緒にご飯を食べている時に、思わず号泣なさった看護師さんが忘れられない。東京から来た私の質問に、初めて「辛かった」と言えた時だった。一緒に来た人たちには自分の辛さは言えない。みんな同じように辛いからである。被災していない私にやっと泣けたという。
いつもいつも自分より相手のことを考えているそんな方々を私は尊敬する。これは津波の被害が甚大だった名取市の体育館の避難所でもそうであった。毎日の化粧が楽しみだった年配のおしゃれな山田さんは着物も化粧品もすべて流され、すっぴんで過ごす日々がつらかったけれど、一命を取り留めただけでも幸せと思おうと決意した日から笑顔を絶やさないのだとおっしゃった。そして私に貴重な飴を差し出し「頑張って!」と握手するのである。そして「ありがとう。ありがとう」とみんなが集まって来てくれる。最後の歌のあいさつをした時、「ええ?もう終わりなの?まだ帰らないで」とみんなが瞳を少女のように輝かせるのである。
自分に一体何ができるのか? これは偽善ではないのか?を取り除くことなど私にはできない。自分はこれだけのことをしたのだと自分に言い聞かせたいだけなのではないか?石渡小学校の避雑所で私の腕を掴んで泣いていた年配の女性たち。「津波のお陰で渡辺さんに会えた・・・」と冗談を言って笑ってくれた女性。段ボールの中の子供たち。

2013年3月21日木曜日

再び流民

 
河北新報の連載で 再び流民となりて 旧満州移民と原発避難 未来の人へ/「新天地開く気概を」
は人生で2度流民となった人のインタビューを載せている。一部紹介する。
<苦難生き抜く>
「長生きしなさいよ。あんたは命の限り『津島を元に戻せ』と国や東京電力に叫び続けなければならん。国策被害の生き証人だ」福島第1原発事故で福島県浪江町南津島から二本松市の仮設住宅に避難する大内孝夫さん(79)を、同市に住む友人の佐藤常義さん(80)が訪ねてきた。
旧満州(現中国東北部)開拓団での幼なじみ。苦難の逃避行を一緒に生き抜いた。帰国後、大内さんは津島に再入植した。佐藤さんは10年ほど職を転々とした後、バス運転手に落ち着いた。
以前から会っては戦中戦後の苦労や近況を語り合う仲だった。最近、話題はどうしても原発事故に結び付く。
「関東軍も満鉄(南満州鉄道)も頭がいいのはソ連参戦前に家族を帰国させた」「残った連中も特別列車ですぐ逃げた。官舎や社宅はガラガラだった」「原発事故も同じだ。関係者の家族にまず情報が入った」
「日本は満州でひどいことをした。俺たち子どもでさえ、腹が減ると中国人の家に乗り込んで『ギョーザ出せ』だもの」「中国の恨みは百年じゃ消えん。平謝りすることはないが、反省しないと」「あんたも原発で家を取られた。もっと怒れ」
二人の会話が続く。佐藤さんが語気を強めた。
「日本はいつもこうだった。戦争、公害、原発・・・。発展のために無理をして誰かが犠牲になる。二度あることは三度あるぞ。孝夫君、気をつけろ」。大内さんは笑って聞くだけだ。
旧満州引き揚げと原発事故避難、どちらが大変なのか。「原発だな」。福島県葛尾村から同県三春町に避難する岩間政金さん(87)は答えた。
なぜだろう。原発事故では避難所があり、食事が提供された。仮設住宅も建てられた。賠償もある。旧満州では寒さと飢えが多くの命を奪った。
岩間さんも「避難自体は今の方がずっと楽だ」と認める。「だがな」と語り始めたのは、原子力災害の特殊性だ。
<終わり見えぬ>
「山の木一本、菜っ葉一枚採れないのが悔しい。放射能は厄介だぞo戦後はやる気さえあれば何でもできた。今度は避難がいつ、どう終わるか見当もつかん」と嘆く。
犠牲者も実は多いと言う。「仮設では年寄りがずいぶん死んでる。冬になると連日葬式だ。葛尾で日なたぼっこしていれば、もう少し長生きできたろう。かわいそうに」
カネやモノだけで人は生きていけない。開拓者の岩間さんにとって、仮設住宅の生活は「芸が使えない」不完全燃焼の場だ。若者には「早く新天地を探せ」とよく話す。「世界は広い。放射能があるだけに村に帰れとは言えない。新しい仕事も1、2年根詰めれば一人前だ。俺たちの苦労を思えば簡単だわい」
自身は一日も早く葛尾に帰るつもりだ。「もう人生は終わり。何をしようにも間に合わない」。国策の過ちで2度、すみかを追われた。もはや消えゆく身。多くは望まない。願わくは現在の避難者が将来、再び流民にならないことを。 (福島総局・中島剛)
「日本はいつもこうだった、戦争、公害、原発・・発展のために無理をして誰かが犠牲になる。2度あることは3度ある。気をつけろ」という言葉は説得力があり、悲しい。国、東電は責任を取らず、結局「絆」という悩ましい言葉で、自分たちで再起しろと言っている。全国紙がこのような連載をして欲しいものだ。