2015年6月30日火曜日

社長退任


私の民医連39年
()ウイエムピー山田龍矢
一九七六年四月には私を含めて新人薬剤師が九人入職した。はっきり覚えていないが先輩も同じ位しかいなかったと思う。最初はできたばかりの巨摩薬局に就職したが、二年目の薬局長と一年目が私を含めて三人、計四人であった。2年目には先輩がいなくなり、薬局長代理になった。そうこうしているうちに就職四年目に結婚をして、子供も二人生まれた。その半年後が一九八三年四月(倒産)である。倒産の事は今から考えると、思い出になってしまうが、私自身他の人が考えるほど大変ではなかった。一番辛かったのは、その後何年も続く後輩薬剤師の退職であった。少ない人数の中で仕事をしながら、他の職種にはないもう一つの仕事が、薬事委員会での仕事であった。それまでの薬の数、価路をもっと少なく、安くして経営に寄与しなくてならなくなった。その後15年間は同一法人で保険薬局を経営できた。一九九八年1月の保険薬局の別法人化(ワイエムピー)12600万(のれん代)を払ってきた。その時に山梨民医連ができ、副会長になった。その後二〇〇三年に「山梨みんいれん事業センター」を設立し、山梨民医連に貢献し、二〇〇五年の「山梨医療福祉事業共同組合」の立ち上げとなった。保険薬局の別法人化から17年間、絶対に赤字にはしないと言う思いで頑張ってきた。私のような生意気で、血の気の多い人間をこれまで育ててくれた、山梨民医連の先輩、仲間に感謝したい。保険薬局を取り巻く環境はますます厳しくなるが、新体制で乗り切って欲しい。まだ事業協にいるので、全面的に支援をしていくつもりだ。
これを持って「つれづれなるままに」を最後としたい。時々覗いてくれた方々に感謝。

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