2011年4月30日土曜日

神話の恐ろしさ

 東洋経済の「対話力」入門の連載で北川達夫氏は以下のような興味深いこと言っている。

徹底的な対話によって「神話」の成立を防ぐ「神話」という興味深い言葉がある。この場合の「神話」とは、「神様の時代の物語」ではなく、「特に根拠もないのに、人々の間で絶対に正しいと信じられてきたこと」。最近では、原子力発電所の「安全神話」という表現が目についた。「原子力発電所は絶対に安全だ」と特に根拠もなく(それなりにあるのだろうけど)信じられてきということだ。その「安全神話」は今般の大震災によってもろくも崩れさった。原子力発電所の危険性については、もとより織り込み済みだったはずだ。ただ、「絶対に安全」という建前でなければ、原子力発電所の建設などできないという、社会的な、あるいは政治的な要請があったのだろう。
「神話」の恐ろしいのは、建前に覆い尽くされて、本音が見えなくなってしまうところ。原子力発電所の「安全神話」の下で、周辺住民の不安は見えなくなる。また、科学者の良心も見えなくなる。今般の大震災に際して「想定外の事態」という言葉が多用された。これはつまり、原子力発電所は「想足内の事態という条件下なら、安全である可能性が高い」という程度のことだったのではないのか。そもそも科学者であれば、(条件を問わず)絶対に安全」などということは、絶対に言わないものである。
今後は、原子力発電所に限らず、何らかの社会的リスクを伴う事業や政策に関しては、絶対に「神話」の成立を防ぐことが必要だろう。そのためには、事業者や科学者や行政などといった「玄人」と、市民という「素人」が徹底的に対話して、一定のコンセンサスを見いだしていくようにしなければならない。これを実現するためには、まず「玄人」の隠蔽体質を打破する必要がある。十分な情報の共有なくして、対話もコンセンサスもありえない。一方、「素人」の側にも努力が必要である。私たちは「『絶対』はありえない」とわかっていても、往々にして「『絶対に大丈夫』と明言してほしい」と要求しがちだ。その要求に応える形で(悪く言えば、そこに付け込んで)、「安全神話」は醸成されていくのである。

確かに、私達も日常的に同じようなことをしている気がする。例えば「わたしはこれに対しては反対だよ。やるなら勝手にやってくれ」というやり方で自分を免責していることは往々にしてある。勝手にやってくれと言う前に徹底的に議論をすべきである。

0 件のコメント:

コメントを投稿