2011年5月12日木曜日

吉田兼好

「学びなおしの古典」という新聞連載記事で作家の清川妙は今回の東日本大震災に思いを寄せ以下のように、このブログのタイトルにもなっている「徒然草」を紹介している。

『徒然草』の中には、いたるところに、作者、兼好の死生観が語られている。「死は前よりしも来たらず、かねてうしろに迫れり。人皆死ある事を知りて、待つこと、しかも急ならざるに、覚えずして来たる。沖の干潟遙かなれども、磯より潮の満つるがごとし」死は前から来るとは限らない。前から来れば覚悟もできようが、気がつかないうちにそっと背後に迫っている。人間は死ぬものだということは、皆、知ってはいても、そんなに急ではないと安心しているのだが、死は突如おそってくる。沖の干潟がはるか遠くのほうに見えていて、潮が来るとも思えないのに、不意に磯のほうから潮が満ちてくるようなものである。このたびの大震災、大津波は、兼好の言葉をまぎれもない事実として、私たちに見せつけた。人は皆死ぬ。しかも、その死期を予知することはできない。だから、いつ死が迫ってくるか分からないということを覚悟しておけ、と兼好は言うのである。人はただ、無常の身に迫りぬることを心にひしとかけて、つかのまも忘るまじきなり無常とはもともと、この世のすべてのものが、しばらくの間も同じ状態にとどまらないことをいうのだが、転じて、特に死のことをいう。「ひしと」とは、思いが心に深く、くいこんで、中まで染みこんでいくさまである。「心にひしとかけて」という言葉には、切なさがこもる。「つかのま」とは、ごくごく短い時間。ひと(つか)とは指四本の幅。その短さを時間におきかえて、そんな短い間にも忘れてはならぬと、これも切ないまでの具体的な指示である。
兼好は、人にも自分にも、しっかりと言い含めているのだ。今から六百年以上も前に生きた兼好の思いが、今の私たちの心にぴったりと寄り添ってくれるのは、驚くばかりである。
 いつ死んでもいいように今を生きたいものである。しかも、その生き方をいつも考えながら。
 あらためて「徒然草」を読み直してみたいと思う。

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