2011年5月30日月曜日

恐怖と理性


人間は情報では動かない 解釈・評価で行動を起こす
恐怖は理性を駆逐するその自覚が必要である

東洋経済の「対話力入門」北川達夫氏の連載は時々引用するが、今回も示唆に富んでいる内容である。原発関連の人間の行動に関して以下のように言っている。

私の友人のプロ格闘家は、猫を極端に恐れている。道端の猫を見ただけで、恐怖で立ちすくんでしまう。もちろん猫に害がないことはわかっている。現実に猫に襲われた経験があるわけでもない。そのことを頭ではわかっているのだが、それでも猫が怖くて仕方がないのだ。恐怖とはこのようなものである。こうして、風評被害や飲料水の買い占めが起こるわけだ。ここで重要なのは飲料水の買い占めに走る人々を「特殊な連中」だと考えないこと。誰でも「恐怖で理性が吹っ飛ぶ可能性を秘めているのだ。現実に買い占めに走るかどうかは、程度の問題にすぎない。あるいは買い占めとは別の形で、理性の吹っ飛んだ行動をすることになるかもしれないのである。一般に、恐怖心が強すぎる人間は「臆病」とされる。恐怖心が弱すぎる人間は「無謀」とされる。理想的なのは、理性によって恐怖心を制御しつつ状況を的確に判断して「適度に勇敢な行動」をとることのできる人間であるという。これがアリストテレス的な意味での「中庸の徳」であり、おそらくは「正しく理解して正しく怖がる」ことなのだろう。だが、現実問題として、万人に「中庸の徳」を求めるのは不可能である。また「中庸の徳」を備えている人物であったとしても、時には理性が吹っ飛んで極端に臆病になったり、極端に鮭謀になったりする可能性がある。そのことを十分に自覚しておく必要があるのだ。人間は本能的恐怖に駆られると、理性が吹っ飛んだ行動をする一方で、「救い」を求める傾向がある。それも、思考を完全停止して「救い」を求めてしまうのである。たとえば'テレビなどで「絶対に大丈夫です」と強弁する論者の言葉を「事実」と信じて「救い」を覚えた方もいるのではないか。「救い」を求めること自体には、特に害があるとは思わない。ただ、本能的恐怖に駆られた自分の「弱き」を自覚していないと、ある種のスキが生まれてしまう。こういった環境は、不安を無用にあおり、人心を掌握しようとする人物にとっては、絶好のチャンスなのである。

このことに一番長けていたのは「ヒットラー」であろうか。何事にも、少し距離を置いて、覚めた見方をする訓練も必要であると感じた。

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