2012年3月23日金曜日

原発のウソ

昨年購入した「原発のウソ」(小出裕章)という本を再度読んだ。原発事故から、1年経つとメディアの関心も薄くなってくる。しかし、決して忘れてはならない。関心を持ち続けるためにも、時々本を読む。以下、紹介する。

「核のゴミ」は誰にも管理できない
 日本が原子力発電をはじめてから、まだ45年しか経っていません。原発を動かしてきたのは、東京電力、関西電力などの9つの電力会社が中心です。これらの電力会社は戦後にできました。1951年のことですから、いまだに60年の歴史しか持っていないのです。
日本の家庭で電気が使えるようになってから、125年。それなのに低レベル放射性廃棄物は「300年間お守りをする」などという約束をしている。
 でも、300年先の世界なんて、想像できますか?
 今から300年前は、忠臣蔵の討ち入いりの時代です。その時代に生きていた人たちは、今日、私たちがこんな生活をしているなんて決して想像できなかった。今の私たちだって「300年後の日本人がどんな生活をしているか」なんて想像できません。
 300年後には電力会社はなくなっているかもしれません。民主党や自民党もないでしょう。たった60年の歴史しか持っていない会社が原子力を推進して「死の灰」を生み出し、それを300年間管理するなんてことが、本当に約束できるのでしょうか。当然、電力会社は「一企業の時間の長さからすれば300年は長すぎるから、国が責任を持ってくれ」 と言っています。そりやあ、そうだろうと思います。電力会社が責任を取れる道理がない。
そこで政府は「よし、じゃあ放射能のゴミは国で責任を持ってやろう」と言っているわけです。
ただし、政府にもその責任は取れないでしょう。日本という国は、明治維新が起きてからようやく近代国家になったといいます。それより前は「士農工商」の世界で、侍は刀を持ってちょんまげを結っていました。それからまだ143年しか経っていません。米国の歴史はわずかに235年です。日本や米国という国すら存続しているかどうか分からない未来まで、放射能のゴミをどうやって責任をもって管理していくというのでしょうか。ましてや、高レベル放射性廃棄物を管理する100万年という時間は、何をどう考えていいのか分からないほどです。
 このような途方もない作業にかかるエネルギーは、原子力発電で得たエネルギーをはるかに上回ってしまうでしょう。二酸化炭素の放出も膨大になるでしょう。なにより、見知らぬ子孫たちが100万年間汚染の危険を背負いながら、また莫大なコストを支払い続けながら、「核のゴミ」を監視しなくてはならないのです。
はるか未来の子孫に全ての負債を押し付けることで原子力発電が成り立っているということだけは、忘れないでいただきたいと思います。

 国民の中には、「いつまで原発、大震災のニュースや番組をやっているんだ」とい人がいる。私は、忘れない努力をするべきだと思う。

2012年3月15日木曜日

前回と同じく、「徒然草」より、面白い段を紹介しよう。これは自分自身、共感することばかりである。少々長いがしっかり読んで欲しい。

心を狂わす深酒、心を通わす一献
「世間には合点のゆかぬことが多いものである」という書き出しではじまる第175段は、『徒然草』全243段のなかで三番目に長い章段である。文字数にして約1500字、400字詰め原稿用紙に写すと四枚弱に及ぶ。
隠遁者・兼好がそれだけの長い行を割くとなれば、抹香くさい話だろうと思いきや、なんとテーマは「酒」である。あまりに長いので全文をここに紹介できないのが残念だが、「酒飲みの狂態」を完膚なきまでに描き尽くして、みごとである。
「なにかことがあるたびに、まずは酒を勧めて、無理に飲ませているのをおもしろがるのは、どうしてなのか、わけがわからない。飲む人が、とても我慢できそうにない様子で眉をひそめ、人の見ていないときを見はからって酒を捨てようとし、逃げようとするのを、つかまえて、引きとめ、むやみに飲ませてしまうと、きちんとした人も、たちまち狂人のようになって馬鹿になり、健康な人も、見る見るうちに重病人のようになって、前後不覚になって倒れ込んでしまう。(第175段)」
最近はやや下火になったが、「イッキ飲み」が流行っていたころは、グループ内に必ずひとりふたりは急性アルコール中毒になる人がいた。顔が土色になって意識不明の状態に陥る。ヘタをすると死ぬこともあるのに、飲めない人に無理やり飲ませるなんて、本当に酷い話である。
ではあるが、そもそも酒飲みというのは、酔うために飲むのである。酔いたい自分のそばに、冷静極まりない素面の人がいると、興が半減する。だから、「飲め」と強要する。「みんなで狂えば怖くない」という共犯意識なのだ。それを、真顔で「飲めない」などと自主親告するから、マークされる。イケそうな顔であちこち席を移り、人の盃に注ぎまわって相手を先に泥酔させるのが、「飲めない酒を飲む」コツである。お酒の席がつらい下戸殿は、お試しあれ!うまく立ちまわらないと、「二日酔い」という第二の地獄が待っている。
「翌日まで頭痛がし、食べられず、うめき伏して、前世と現世の生の境を隔てたように、昨日のことは記憶がなく、公私の大事な用も怠って、支障をきたす。(第175段)」
ところで、飲めない人は「ぶっ倒れる」という形でとりあえず幕引きとなるが、飲める人の酔狂たるや、どんどんエスカレートして歯止めがきかない。目に余る狂態を毎度繰り返していても、本人は知らないのだから、酔うとはオメデタイことである。もしもわが身の泥酔状態を素面で見たら、そのときの羞恥と後悔は、二日酔いの苦しみ以上に臓物を捩れさせるだろう。
「思慮深い感じで、奥ゆかしいと思っていた人も、分別もなく大声で笑い騒ぎ、しゃべ-がすぎ、烏帽子は歪み、紐もはずし、裾をまくりあげて脛をだし、そのたしなみのない様子は、日ごろのその人とも思えない。酔っぱらった女はというと前髪をかきあげて額を剥きだしにし、恥ずかしげもなく顔をのけぞって笑いだし、人が盃をもっている手に取りついたり、下品な人は肴を取って他人のロに押しっけたり、自分でも食べたりしているのは、みっともないものだ。(第175枚)」
このほか、醜い裸踊りを見せる調子モン、鼻持ちならない自慢ヤロウ、泣き上戸のウジウジ屋、罵声を飛ばすコン畜生、物品を壊す与太モン、よろけて落ちる大マヌケ、くどくどしい説教タレ、まっすぐ歩けぬチドリ足などが描かれていて、「狂い水にイカれた御仁たち」のオンパレードである。よくぞここまで細かく書き込んだものだと、作者の観察眼と筆力には感嘆する。せめてこの章だけでも、ぜひとも原文で、その筆致を堪能していただきたいものである。
ところで、「酒飲みは地獄に落ちる」とまで叱責する兼好だが、同時に擁護論も添えている。
「月の夜、雪の朝、また桜の花の下でも、ゆっくり話をしながら盃をだしたりするのは、なにかにつけて感興を添えることである。なすこともなく所在ない日、思いがけなく友がやってきて、一杯やるのも、心が慰められる。近寄りがたく高貴な方がおいでの御簾のなかから、御果物や御酒などを、いかにも上品そうな様子で差しだされたりするのも、たいそうよい。冬、淡い座敷で、火でなにかを煎りなどして、,心おきない親しい者同士が差し向かいでおおいに飲むのも、とてもおもしろい。旅の仮屋や野山などで、「御肴になにかあればなぁ」などといって、芝の上で飲んでいるのも、たいへんおもしろい。酒を勧められるのをひどく迷惑がる人が、無理強いされてほんのちょっと飲んだのも、なかなかよい。身分の高い人が、特別な好意で、「もう少し、飲みようが少ないな」などとおっしゃったりするのも、うれしいものだ。近づきになりたい人が酒好きで、すっかりうちとけてしまったのも、またうれしい。(第175段)
風情を味わい、気遣いを喜び、親愛の情を深め、互いの心を慰める。そのための「一献」である。飲めない酒の無理強いも、ほんのひと口だけなら関係を麗しくする。一方は無理して飲んだ人の気遣いを喜び、一方もくどくは勧めない相手に安心するだろう。
深酒をして自分ひとりが酔い痴れぬように、何事も「相手あっての感興」と心得ておきたい。

今も、昔も(1330年頃)人間のやることは全く変わっていないとつくづく思う。

2012年3月13日火曜日

徒然草

ヘタな人生論より、「徒然草」というタイトルの本を購入した。帯には「不確かな今だからこそ
兼好法師の、絶妙なバランス感覚に学びたい!」と書いてある。164段を紹介しよう。

陰口、むだ口、差しで口・・・自覚のない世間話は恐ろしい
世間の人が互いに会うとき、ほんのしばらくの間も黙っていることがない。必ずなんらかの言葉を交わす。その話していることを聞くと、多くは益のないうわさ話だ。世間の噂や、人の善悪の差しで口、こんなことは自分のためにもほかの人のためにも損失が多く、得になることは少ない。しかも、こういうことを話すとき、お互いの心のなかで無益なことだということをわかっていない。(第164段)

いわゆる「世間話」といわれるものの正体である。のべつまくなし語られる話は、人の噂と批評であって、所詮はむだ話にすぎない。兼好は一刀両断に「くだらない」と切り捨てる。
ここまではっきりいわれると、抵抗を感じる方もあるだろう。もちろん、なかには「ほほえましい話」だってあるにはある。しかし、哀しいかな、世間話の大半は、やはり「陰口・むだ口・差しで口」に集約されるといわなければならない。
大学時代、心理学の授業で、教授から変わった課題をだされた。「街中で見ず知らずの人の日常会話を聞き、その心理を分析してリポートせよ」というものである。課題の目的は、話し手の「心理」の分析だったので、「話の内容」そのものが高尚か下劣かは問題ではない。
それでも、記録された会話をみなで読み直したときには、唖然とした。その八割が、「人の噂」と「人の批評」と「お節介な忠告」だったのである。若い世代に忠告が少なかったものの、「陰口」や「批評」がゼロという世代はなかった。
これは、当時の私たちには驚きだった。自分たちも世間話をするが、こんなにひどいだろうかと思ったのである。しかし、その意識をもって以後は、自分たちも同じことをしていることに気づいた。「○○先生は教え方がヘタだ」とか「△△さんは話が通じなくて困る」とか、寄るとすぐに人の批判がはじまる。
考えてみれば、家族でも同僚・友人でも近隣者でも、人格の異なる人間が同じ場所(家・職場・学校・地域など)に集まれば、いっしょにいること自体がストレスになる。考え方が違う、テンポが違う、表現が違う、気配りが違う。誰が悪いというのではなくても、お互いがお互いをイライラさせてしまうのは当然だろう。
だから、思わず愚痴がでる。不平・不満は胸に溜めておくのが難しい。誰彼かまわず、ついついぼやいてしまう。話しているうちに、だんだん言葉がエスカレートしていって、気がつくと悪口になっているということもある。そうであるなら、人のことはいわないことが原則だ。
とはいえ、兼好のように世間話の一切を捨ててしまうというのも無理な話だろう。彼は出家僧なので、この章を厳密な意味で書いたのだと思う。むだな話をしている暇があれば、もっと価値あること(彼の場合は仏道修行)をすべきだと。
しかし、私たちは俗世のなかで生きている。人と話をせずに生活できるわけもないし、高尚な話ばかりしているのも息苦しい。むだと思えるものにも効用はあるわけで、世間話の一切を否定したら、人間関係がかえってギクシャクするような気もする。
大事なのは、節操と自覚であろう。「愚痴」なら許そう、「陰口」は許さない。この境目を心得ていることだと思う。
人が、誰かによって受けている苦痛を語りだしたとしよう。その人の表情を見ていれば、それが「愚痴」か「陰口」かは本能的に察知できる。「愚痴」は本当につらそうだったり、逆にわざと明るさを装うような表情だったりする。それは、「ふんふん」と聞いてあげればよい。しかし、「陰口」の場合は、目のなかに悪魔的な光が宿る。口調がどれほど優しかろうと、論調がどれほど客観的であろうと、陰湿な表情は隠せない。そのときは、「いない人の話はやめようよ」といえる勇気はもっていたい。
「他人の不幸は蜜の昧」といって、人間というものは、なぜか人の悪評を聞くと心地のよい気分になるものらしい。つい好奇心を剥きだしにして、「へぇ、そうなの」といっただけで、後日「あの人もそういっていた」と陰口の共犯者にされる。そういう意味では、世間は怖い。まして、話の尻馬に乗って同様の陰口を口走ったら、自分も怖い世間のひとりである。
やめようといっても話をやめてくれなければ、その場を立ち去ることだ。つらい気持ちを軽くしてあげるのはよいことだが、悪魔の快感を増長させることに加担する必要はない。
聞き手が口の堅い信頼できる人でないなら、迂闊に悩み事など言うべきでない。自分は「愚痴」のつもりでも、その人の口を通じて「陰口」や「誹謗中傷」に化ける場合もある。
あとでどんなに「そんなつもりではなかった」と言ってみても、言われた方の不快感は消えない。
かって、日本がまだ高度成長を遂げる前、文字通りの「井戸端会議」というものが町のあちこちで見られた。電化製品が各家庭に行き渡るまでは、共同の井戸で近所の主婦たちが洗い物をしながら、世間話を楽しんでいたものである。
「うちのおばあちゃんが孫に甘くて困る」とか、「お父ちゃんの稼ぎが悪くて」とか、自分の家族の愚痴をこぼす。べつに深刻に悩んでいるふうもなく、冗談まじりのカラリとした話し方である。聞いているほうもあっさりしたもので、「ウチだって同じよ」と大笑いする。ある書物には「あれは一種のカウンセリング効果があった」と書かれていた。
舅姑につかえ、夫につかえ、外出することもなく家事に追われた専業主婦たち。たくさんの子を育てて、自分の身をかまう暇すらなかった当時の女たちは、井戸端会議で小さなガス抜きをすることによって、不平不満を爆発させないようにしていたのだと。
「ウチだって同じよ」が合言葉だったようで、それは暗黙のうちに互いを励まし合う知恵だったと、著者は書いていた。
どの家の生活状況も似たり寄ったりだったし、相互に行き来もあったので、お互いの家庭をよく見知っていたという背景もあるだろう。悩みを共有できた時代だったといえる。
また、その地域の主婦が同じ時間に全員揃うので、よほどのことで村八分にでもされない限り、陰口というものは発生しにくい。逆に、それぞれの性格を話のなかで把握して、波風が立たないつき合い方を自然に会得していたと思われる。なんの解決にもならない「むだ話」と承知のうえで、それをうまく活用した好例であろう。
核家族になり、電化製品が行き渡り、共稼ぎで、子どもの数も少ない現代。「隣はなにをする人ぞ」で、近所づき合いなどまったくなくても生活できるようになった。オープンな「井戸端会議」がなくなったぶん、世間話は少数の人間関係のなかで行われる隠微な「ひそひそ話」になったのかもしれない。見えない他人の家庭を詮索し、幸不幸を比較し、覗き見趣味に近い形で噂話をするようになったのだろうか。「そこにいない人」を評定するワイドショーのご近所版のような感はある。
女性だけではない。男性も、飲み屋で同じようなことをしている。「あいつは役に立たない」とか、「俺ならあんなふうにはしない」とか。
「だからどうしよう」という建設的な方向へいかない話は、所詮は「むだ話」である。せめて「むだ話」なのだという自覚だけは失わずにいたい。なにやら自分たちが正しいような、ファッショ的な錯覚に陥らない知性は必要だろう。

兼好の言葉を借りれば、「心のなかで無益なことだと知らない」ことが問題なのである。
確かに最後の言葉は重要だ。何事も言葉、会話が相手に対して、どう受け止められるかを考えながら、喋るのと、何も考えないで喋るのとは必然的に喋り方が違ってくるものである。陰口は慎みたいものである。

2012年3月10日土曜日

被爆労働者

以前にも、紹介した「犠牲のシステム福島・沖縄」の中に、ぜひ知って欲しい箇所がある。「犠牲のシステム」で、第一の犠牲は「過酷事故」であること。次に第二の犠牲として「被爆労働者」を挙げている。以下、長いがぜひ読んで欲しい。これが実態なのだ。

第二の犠牲   被曝労働者
 原発が犠牲のシステムであるのは、第二に、被曝労働者の存在を前提にしているからである。被曝労働者の問題はすでに1980年前後から、いくつかのルポルタージュ作品によって取り上げられていた。たとえば、堀江邦夫『原発ジプシー』(1979年)や森江信『原子炉被曝日記』(1979年)、あるいは樋口健二『闇に消される原発被曝者』(1981年)、鎌田慧『日本の原発地帯』(1982年)などである。したがって、問題そのものは少なくとも一部では知られていたのだが、原発批判につながる言論がタブー化・周緑化されるなか、広く知られることはなかった。被曝労働者の実態が一部ではあれマスメディアを通して広く報じられたのは、福島原発事故の結果である。
 それも最初は、海外の報道によって「フクシマ50」と呼ばれ、後に国内で「平成の特攻隊」「決死隊」などと呼ばれることによってであった。最悪の破局を防ぐために原発内で被曝しながら命をかけて作業している人たちがいる、彼らこそ英雄だ、いう称賛の声が上がったのだ。
 作家の佐藤優氏は「この危機を脱出するために、生命を日本国家と日本人同胞のために差し出さなくてはならない人が出てくる」と言って、国家のための死を「尊い犠牲」として顕彰する言説を展開した(佐藤優)。海江田万里経産相は、「現場の人たちは線量計をつけて入ると(線量が)上がって法律では働けなくなるから、線量計を置いて入った人がたくさんいる」として、「頑張ってくれた現場の人は尊いし、日本人が誇っていい」と称賛した(朝日新聞7月24日)。
 靖国神社は戦争で倒れた日本軍兵士たちを、「お国のために」自己の生命を犠牲にした「英霊」として、その功績をたたえ、そのことを通じて、遺族を心理的に慰撫するだけでなく、国民を戦争に動員し、戦死者を出しつづける国家指導層の責任への問いかけを封じる役割を果たした。
 原発事故において、大量被曝を覚悟しながら働かざるをえない人々を英霊予備軍としてたたえることは、自分たちは安全な場所にいて彼らの犠牲から利益を引き出す人々の責任を見えなくしてしまう。彼らの犠牲から利益を引き出す人々とは、まず第一に、電力会社や原発関連企業の幹部たち、中央政府の政治家・官僚たち、原子力委員会、原子力安全委員会などに名を連ねる学者・専門家たち、要するに、この事故の収束に最大の責任を負う人々である。
 原発推進にかかわってきた地方の政治家(そのトップは県知事)と行政幹部もまた、ここに連なる人々であろう。佐藤栄佐久・前福島県知事が証言するように、原発危機では県ですら結局は二の次にされるという現実があるにせよ、原発推進に邁進した自治体の首長たちの責任は暖味にされてはならない。
確認しよう。事故に際して破局を防ぐためには、だれかが被曝労働の犠牲を担わなければならないというのが原発というシステムなのだ。
 恒常的に組み込まれた被曝労働
 こうした被曝労働は、危機のときだけ必要とされるのではない。原発内部では、とくに事故が起こっていないときでも、ほぼ日常的に末端労働者は被曝労働を強いられ、健康被害に晒されており、被曝が原因と思われる病気や死亡例が後を絶たない。そのことがすでに先述のルポライターの人々の証言や取材によって明らかになっている。
末端の被曝労働者は電力会社の社員ではなく、下請け、孫請け、ひ孫請けの会社が集めた非正規労働者であったり、寄せ場から実態も知らされずに集められた日雇いの労働者であったりする。経済的弱者であるがゆえに被曝しながらでも働かざるをえない人々の犠牲がなければ、平時の原発でさえ成り立たないシステムなのだ。
 3・11以後、3月中に被曝労働に当たった作業員約3600人のうち、100ミリシーベルトを超えた被曝者が124人いた。また3月から5月までで600ミリシーベルトを超えた人も2人いたとされている。4月25日作成の経済産業省の試算では、50ミリシーベルトを超える人が約1600人。最近の厚生労働省の発表では、7月末までに第一原発に投入された作業員は1万6000人で、100ミリシーベルト以上の被曝者は108人。作業員のうち200人近くがその後の所在がわからないという報道もあり、東電の管理の杜撰さ、使い捨ての実態が垣間見える。
 これらの数字がほぼ実態を表わしているとして、これは何を意味しているのだろうか。日本では原発労働者の被曝限度は、国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告に基づき、5年間につき100ミリシーベルトを超えず、かつ1年間につき50ミリシーペルトを超えてはならないとなっている。一方、労災の認定基準は、たとえば白血病の場合、年間5ミリシーベルトである。こうした原発労働者の労災申請は因果関係が確定できないなどと斥けられることが多く、ほとんどが闇に葬られているといわれているが、過去35年間で労災が認められたわずか10例を見ると、白血病6人、多発性骨髄腫2人、悪性リンパ腫2人。累積の被曝線量が最高の人は129.8ミリシーベルト、残り9人は100ミリシーベルト以下で、最低の人は5.2ミリシーベルト。
静岡県の浜岡原発で働いていて被曝し、1991年に白血病で亡くなった嶋橋伸之氏は、8年間の累積被曝量が50・93ミリシーベルトだった(藤田祐幸『知られざる原発被曝労働』)。
 こうしたデータをあてはめると、今回の福島原発事故収束のために作業に当たっている人たちからは、何千人もの労災認定者が出てもおかしくない。嶋橋さんと同じ基準をあてはめれば、何千人もの人が死亡することになってもおかしくない、ということになる。
 福島のケースで政府は累積250ミリシーベルトに基準を引き上げた。年間50ミリシーベルトが限度だというのに、250ミリシーベルトまで我慢せよというわけだ。3月17「日前後、細野豪志首相補佐官は「250ミリシーベルトでは仕事にならない」と引き上げを求め、菅首相が「五〇〇ミリシーベルトに上げられないか」と望んだのに対して、北沢防衛大臣の反対で引き上げが見送られたと報じられている(毎日新聞、7月25日)。250ミリシーベルトにせよ、500ミリシーベルトにせよ、これらの人々はすでに政府によって見捨てられていると言わざるをえないのではないか。
 二重の被害
 忘れてならないのは、原発で働く作業員のおよそ7割から8割は「地元」、原発立地および周辺の自治体出身者と見られることだ。
 東電によれば、2010年7月の時点で第1原発の作業員は6778人,うち5691人が下請け会社の社員で、福島県出身者は5174人だった。つまり約76パーセントが福島県出身者である。『原発ジプシー』の著者として知られる堀江邦夫氏によれば、堀江氏が所属した下請け会社の労働者約60人のうち、約7割が地元出身の農民や若者たちで、残りの3割が県外からの日雇い労働者だったという(堀江邦夫)。また、今回の事故で作業員の健康診断をした医師の証言では、約8割が地元の人で、避難所から通っている人が多かったという。
 つまり、原発事故の地元被災者が、被曝しながら事故の収束に当たらせられている、二重の被害者になっているということなのだ。
 このように見てくると、原発というものが、内部にも外部にも犠牲を想定せずには成り立たないシステムであることがわかる。日常的にも、危機においても、原発はその内部に被曝労働者の犠牲を必要としている。そして、いったん大事故になれば、まず地元とその周辺の人々や環境が、そして放射性物質の拡散によって、県境や国境をも越えて、広大な地域の人々や環境が犠牲とされるのである。


  しかし、原発に組み込まれた犠牲はこれだけでは終わらない。
第三の犠牲として、「ウラン採掘に伴う問題」。第四の犠牲として「放射性廃棄物をどうするか」となっている。3.11を迎えるにあたって考えたい問題である。

2012年3月6日火曜日

無言国ニッポン

非営利・協同総合研究所ニュースの理事長(中川雄一郎)のページという欄がある。「無言国ニッポン」というタイトルの記事があった。なかなか興味深い記事なので一部紹介する。

先般、朝日新聞の「声」欄(「無言国ニッポン」)に載っていた二つの投書に興味を覚えた(2012年2月17日付朝刊)。一つは「ひと声かければすむものを」と題する84歳の男性の投書である。もう一つは「『こんにちは』は客から言おう」と題する13歳の少年の投書である。
前者の内容はこうである。電車が駅に止まると、降りる人は「あたふたと、ひたすら前の人をかき分けて扉に向かう。ものも言わずに」。「ちょっとごめん」とか「降ります」とか、何でもよいから声をかければ楽に降りられると思うのだが、黙って降りようとする。また混んでいる回転寿司屋でも「横の男性の腕が私の前にニューツと突き出てくる。醤油差しを取ったのだ」。ひと言「失礼」と言って取ればすむのに。「そうすれば『どうぞと私が返す。それだけのことなのに、無言国ニッポン、鳴呼・・・」。
後者はこう書いている。父親の仕事の関係で約7年間フランスに滞在し、1年ほど前に帰国したばかりで、「フランスの習慣」がまだ抜けていない。「フランスでは、買い物でお店に入る時に『こんにちは』と挨拶するのが当たり前でした」ので、「日本で先日、コンビニに行き、僕はいつも通り『こんにちは』と言って店に入りました」が、一緒にいた母親に「恥ずかしいからやめなさい」と小声で注意されてしまった。以前から「周りの人が何も言わずに店に入るのに気づいていましたが、僕は、こういう場合、日本では挨拶しないということを改めて知りました。・・・後から自分が恥ずかしいことをしたのではないかと不安になりました」。(そして少年はこう続ける)「それにしても、日本ではなぜ、お客は挨拶しないのでしょう。僕はすべきだと思います。その方が気持ちよく買い物ができそうです。『客と店員』である前に『人と人』として挨拶できる国になってほしいです」。両者の投書も日常的にわれわれ「日本人」が目撃しているーーしかし、最近とみに不思議に思われなくなってしまったー生活の一コマである。前者は、(投稿者が「東京都府中市」在住なので)特に東京や横浜、それに名古屋や大阪などの大都会でしばしば目にする一コマであるかもしれない。私は時々地方都市に所用で出かけるが、このような場面に遭遇した経験はほとんどないからである。それにしても、このような「無言状態」が日常的になったのはいつから頃だろうか。
私の個人的な経験を含めて、この症候群が大都市を中心に伝染していったのは、自公連立の小泉政権(2001年4月~06年9月)が、金融市場と労働市場を中心にさまざまな部門において可能な限りの規制緩和を実施して、働けど働けど貧困から抜け出せない「ワーキング・プワ-」(workingpoor)を生みだした新自由主義政策=「小さな政府」を遂行し、その結果を「自己責任」という言葉でいとも簡単に括ってしまい、ついに人びとの間に二重三重の「新たな格差」が広がっていくのを許してしまってからではないか、と私は考えている。
「無言国ニッポン症候群」の伝染因子が明らかになったのは2004年の「イラクで人質になった日本人3名に対する(多数派の)日本人による激しいバッシング」であった、と指摘しておく。これは政治的にも社会的にも激しいバッシングであって、まさに「究極の自己責任」を問う恐怖感を日本社会全体に与えたのである。欧米人から見ても、この恐怖感は実に異常なものに映った。シカゴ大学のノーマン・フィールド教授(当時)はこの異常さを次のように語っている(朝日新聞2005年8月17日付朝刊)。「日本人は今、他人や社会の出来事との関係を拒否することが新種のアイデンティティになっていないか」。「(日本の)国民の圧倒的多数が、自分は経済的成功を遂げた国家の一員だと信じる社会、日本の国民的アイデンティティの核を作ってきたこの意識は、バブル崩壊後も生き続けている。日常に潜む抑圧を告発する個人は、この多数派から『私は黙ってこの日常を生きているのに』との迷惑意識を向けられる」。「イラクで人質となった3人へのバッシングもそうだ。3人は身近でないイラク人に共感し、個人として行動した。それは、無意識の日常生活を生きたい人びとには迷惑なことだったのである」。「日本国民の圧倒的多数派」は今もなお、「(日本社会の)日常に潜む抑圧を告発することは迷惑だ」、「黙って日常生活を生きていこう」と考えているのだろうか。福島原発事故を受けた「脱原発」を考えることもなく、また戦後67年にもなろうとしているのに、米軍基地が「独立国ニッポン」にかくも多数存在し、しかもその70%が沖縄にあるような「世界的に異常な状態」を許しておいて、「無意識の日常生活を生きたい」などと国民の多数派は考えているのだろうか。

新自由主義、自己責任、格差社会・・これらがキーワードとなりそうである。3・11大震災から、もうすぐ1年になる。あらためてこの言葉の中身を考えたい。