2012年3月13日火曜日

徒然草

ヘタな人生論より、「徒然草」というタイトルの本を購入した。帯には「不確かな今だからこそ
兼好法師の、絶妙なバランス感覚に学びたい!」と書いてある。164段を紹介しよう。

陰口、むだ口、差しで口・・・自覚のない世間話は恐ろしい
世間の人が互いに会うとき、ほんのしばらくの間も黙っていることがない。必ずなんらかの言葉を交わす。その話していることを聞くと、多くは益のないうわさ話だ。世間の噂や、人の善悪の差しで口、こんなことは自分のためにもほかの人のためにも損失が多く、得になることは少ない。しかも、こういうことを話すとき、お互いの心のなかで無益なことだということをわかっていない。(第164段)

いわゆる「世間話」といわれるものの正体である。のべつまくなし語られる話は、人の噂と批評であって、所詮はむだ話にすぎない。兼好は一刀両断に「くだらない」と切り捨てる。
ここまではっきりいわれると、抵抗を感じる方もあるだろう。もちろん、なかには「ほほえましい話」だってあるにはある。しかし、哀しいかな、世間話の大半は、やはり「陰口・むだ口・差しで口」に集約されるといわなければならない。
大学時代、心理学の授業で、教授から変わった課題をだされた。「街中で見ず知らずの人の日常会話を聞き、その心理を分析してリポートせよ」というものである。課題の目的は、話し手の「心理」の分析だったので、「話の内容」そのものが高尚か下劣かは問題ではない。
それでも、記録された会話をみなで読み直したときには、唖然とした。その八割が、「人の噂」と「人の批評」と「お節介な忠告」だったのである。若い世代に忠告が少なかったものの、「陰口」や「批評」がゼロという世代はなかった。
これは、当時の私たちには驚きだった。自分たちも世間話をするが、こんなにひどいだろうかと思ったのである。しかし、その意識をもって以後は、自分たちも同じことをしていることに気づいた。「○○先生は教え方がヘタだ」とか「△△さんは話が通じなくて困る」とか、寄るとすぐに人の批判がはじまる。
考えてみれば、家族でも同僚・友人でも近隣者でも、人格の異なる人間が同じ場所(家・職場・学校・地域など)に集まれば、いっしょにいること自体がストレスになる。考え方が違う、テンポが違う、表現が違う、気配りが違う。誰が悪いというのではなくても、お互いがお互いをイライラさせてしまうのは当然だろう。
だから、思わず愚痴がでる。不平・不満は胸に溜めておくのが難しい。誰彼かまわず、ついついぼやいてしまう。話しているうちに、だんだん言葉がエスカレートしていって、気がつくと悪口になっているということもある。そうであるなら、人のことはいわないことが原則だ。
とはいえ、兼好のように世間話の一切を捨ててしまうというのも無理な話だろう。彼は出家僧なので、この章を厳密な意味で書いたのだと思う。むだな話をしている暇があれば、もっと価値あること(彼の場合は仏道修行)をすべきだと。
しかし、私たちは俗世のなかで生きている。人と話をせずに生活できるわけもないし、高尚な話ばかりしているのも息苦しい。むだと思えるものにも効用はあるわけで、世間話の一切を否定したら、人間関係がかえってギクシャクするような気もする。
大事なのは、節操と自覚であろう。「愚痴」なら許そう、「陰口」は許さない。この境目を心得ていることだと思う。
人が、誰かによって受けている苦痛を語りだしたとしよう。その人の表情を見ていれば、それが「愚痴」か「陰口」かは本能的に察知できる。「愚痴」は本当につらそうだったり、逆にわざと明るさを装うような表情だったりする。それは、「ふんふん」と聞いてあげればよい。しかし、「陰口」の場合は、目のなかに悪魔的な光が宿る。口調がどれほど優しかろうと、論調がどれほど客観的であろうと、陰湿な表情は隠せない。そのときは、「いない人の話はやめようよ」といえる勇気はもっていたい。
「他人の不幸は蜜の昧」といって、人間というものは、なぜか人の悪評を聞くと心地のよい気分になるものらしい。つい好奇心を剥きだしにして、「へぇ、そうなの」といっただけで、後日「あの人もそういっていた」と陰口の共犯者にされる。そういう意味では、世間は怖い。まして、話の尻馬に乗って同様の陰口を口走ったら、自分も怖い世間のひとりである。
やめようといっても話をやめてくれなければ、その場を立ち去ることだ。つらい気持ちを軽くしてあげるのはよいことだが、悪魔の快感を増長させることに加担する必要はない。
聞き手が口の堅い信頼できる人でないなら、迂闊に悩み事など言うべきでない。自分は「愚痴」のつもりでも、その人の口を通じて「陰口」や「誹謗中傷」に化ける場合もある。
あとでどんなに「そんなつもりではなかった」と言ってみても、言われた方の不快感は消えない。
かって、日本がまだ高度成長を遂げる前、文字通りの「井戸端会議」というものが町のあちこちで見られた。電化製品が各家庭に行き渡るまでは、共同の井戸で近所の主婦たちが洗い物をしながら、世間話を楽しんでいたものである。
「うちのおばあちゃんが孫に甘くて困る」とか、「お父ちゃんの稼ぎが悪くて」とか、自分の家族の愚痴をこぼす。べつに深刻に悩んでいるふうもなく、冗談まじりのカラリとした話し方である。聞いているほうもあっさりしたもので、「ウチだって同じよ」と大笑いする。ある書物には「あれは一種のカウンセリング効果があった」と書かれていた。
舅姑につかえ、夫につかえ、外出することもなく家事に追われた専業主婦たち。たくさんの子を育てて、自分の身をかまう暇すらなかった当時の女たちは、井戸端会議で小さなガス抜きをすることによって、不平不満を爆発させないようにしていたのだと。
「ウチだって同じよ」が合言葉だったようで、それは暗黙のうちに互いを励まし合う知恵だったと、著者は書いていた。
どの家の生活状況も似たり寄ったりだったし、相互に行き来もあったので、お互いの家庭をよく見知っていたという背景もあるだろう。悩みを共有できた時代だったといえる。
また、その地域の主婦が同じ時間に全員揃うので、よほどのことで村八分にでもされない限り、陰口というものは発生しにくい。逆に、それぞれの性格を話のなかで把握して、波風が立たないつき合い方を自然に会得していたと思われる。なんの解決にもならない「むだ話」と承知のうえで、それをうまく活用した好例であろう。
核家族になり、電化製品が行き渡り、共稼ぎで、子どもの数も少ない現代。「隣はなにをする人ぞ」で、近所づき合いなどまったくなくても生活できるようになった。オープンな「井戸端会議」がなくなったぶん、世間話は少数の人間関係のなかで行われる隠微な「ひそひそ話」になったのかもしれない。見えない他人の家庭を詮索し、幸不幸を比較し、覗き見趣味に近い形で噂話をするようになったのだろうか。「そこにいない人」を評定するワイドショーのご近所版のような感はある。
女性だけではない。男性も、飲み屋で同じようなことをしている。「あいつは役に立たない」とか、「俺ならあんなふうにはしない」とか。
「だからどうしよう」という建設的な方向へいかない話は、所詮は「むだ話」である。せめて「むだ話」なのだという自覚だけは失わずにいたい。なにやら自分たちが正しいような、ファッショ的な錯覚に陥らない知性は必要だろう。

兼好の言葉を借りれば、「心のなかで無益なことだと知らない」ことが問題なのである。
確かに最後の言葉は重要だ。何事も言葉、会話が相手に対して、どう受け止められるかを考えながら、喋るのと、何も考えないで喋るのとは必然的に喋り方が違ってくるものである。陰口は慎みたいものである。

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