2012年3月15日木曜日

前回と同じく、「徒然草」より、面白い段を紹介しよう。これは自分自身、共感することばかりである。少々長いがしっかり読んで欲しい。

心を狂わす深酒、心を通わす一献
「世間には合点のゆかぬことが多いものである」という書き出しではじまる第175段は、『徒然草』全243段のなかで三番目に長い章段である。文字数にして約1500字、400字詰め原稿用紙に写すと四枚弱に及ぶ。
隠遁者・兼好がそれだけの長い行を割くとなれば、抹香くさい話だろうと思いきや、なんとテーマは「酒」である。あまりに長いので全文をここに紹介できないのが残念だが、「酒飲みの狂態」を完膚なきまでに描き尽くして、みごとである。
「なにかことがあるたびに、まずは酒を勧めて、無理に飲ませているのをおもしろがるのは、どうしてなのか、わけがわからない。飲む人が、とても我慢できそうにない様子で眉をひそめ、人の見ていないときを見はからって酒を捨てようとし、逃げようとするのを、つかまえて、引きとめ、むやみに飲ませてしまうと、きちんとした人も、たちまち狂人のようになって馬鹿になり、健康な人も、見る見るうちに重病人のようになって、前後不覚になって倒れ込んでしまう。(第175段)」
最近はやや下火になったが、「イッキ飲み」が流行っていたころは、グループ内に必ずひとりふたりは急性アルコール中毒になる人がいた。顔が土色になって意識不明の状態に陥る。ヘタをすると死ぬこともあるのに、飲めない人に無理やり飲ませるなんて、本当に酷い話である。
ではあるが、そもそも酒飲みというのは、酔うために飲むのである。酔いたい自分のそばに、冷静極まりない素面の人がいると、興が半減する。だから、「飲め」と強要する。「みんなで狂えば怖くない」という共犯意識なのだ。それを、真顔で「飲めない」などと自主親告するから、マークされる。イケそうな顔であちこち席を移り、人の盃に注ぎまわって相手を先に泥酔させるのが、「飲めない酒を飲む」コツである。お酒の席がつらい下戸殿は、お試しあれ!うまく立ちまわらないと、「二日酔い」という第二の地獄が待っている。
「翌日まで頭痛がし、食べられず、うめき伏して、前世と現世の生の境を隔てたように、昨日のことは記憶がなく、公私の大事な用も怠って、支障をきたす。(第175段)」
ところで、飲めない人は「ぶっ倒れる」という形でとりあえず幕引きとなるが、飲める人の酔狂たるや、どんどんエスカレートして歯止めがきかない。目に余る狂態を毎度繰り返していても、本人は知らないのだから、酔うとはオメデタイことである。もしもわが身の泥酔状態を素面で見たら、そのときの羞恥と後悔は、二日酔いの苦しみ以上に臓物を捩れさせるだろう。
「思慮深い感じで、奥ゆかしいと思っていた人も、分別もなく大声で笑い騒ぎ、しゃべ-がすぎ、烏帽子は歪み、紐もはずし、裾をまくりあげて脛をだし、そのたしなみのない様子は、日ごろのその人とも思えない。酔っぱらった女はというと前髪をかきあげて額を剥きだしにし、恥ずかしげもなく顔をのけぞって笑いだし、人が盃をもっている手に取りついたり、下品な人は肴を取って他人のロに押しっけたり、自分でも食べたりしているのは、みっともないものだ。(第175枚)」
このほか、醜い裸踊りを見せる調子モン、鼻持ちならない自慢ヤロウ、泣き上戸のウジウジ屋、罵声を飛ばすコン畜生、物品を壊す与太モン、よろけて落ちる大マヌケ、くどくどしい説教タレ、まっすぐ歩けぬチドリ足などが描かれていて、「狂い水にイカれた御仁たち」のオンパレードである。よくぞここまで細かく書き込んだものだと、作者の観察眼と筆力には感嘆する。せめてこの章だけでも、ぜひとも原文で、その筆致を堪能していただきたいものである。
ところで、「酒飲みは地獄に落ちる」とまで叱責する兼好だが、同時に擁護論も添えている。
「月の夜、雪の朝、また桜の花の下でも、ゆっくり話をしながら盃をだしたりするのは、なにかにつけて感興を添えることである。なすこともなく所在ない日、思いがけなく友がやってきて、一杯やるのも、心が慰められる。近寄りがたく高貴な方がおいでの御簾のなかから、御果物や御酒などを、いかにも上品そうな様子で差しだされたりするのも、たいそうよい。冬、淡い座敷で、火でなにかを煎りなどして、,心おきない親しい者同士が差し向かいでおおいに飲むのも、とてもおもしろい。旅の仮屋や野山などで、「御肴になにかあればなぁ」などといって、芝の上で飲んでいるのも、たいへんおもしろい。酒を勧められるのをひどく迷惑がる人が、無理強いされてほんのちょっと飲んだのも、なかなかよい。身分の高い人が、特別な好意で、「もう少し、飲みようが少ないな」などとおっしゃったりするのも、うれしいものだ。近づきになりたい人が酒好きで、すっかりうちとけてしまったのも、またうれしい。(第175段)
風情を味わい、気遣いを喜び、親愛の情を深め、互いの心を慰める。そのための「一献」である。飲めない酒の無理強いも、ほんのひと口だけなら関係を麗しくする。一方は無理して飲んだ人の気遣いを喜び、一方もくどくは勧めない相手に安心するだろう。
深酒をして自分ひとりが酔い痴れぬように、何事も「相手あっての感興」と心得ておきたい。

今も、昔も(1330年頃)人間のやることは全く変わっていないとつくづく思う。

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