2012年5月15日火曜日

沖縄本土復帰40年

今日は沖縄本土復帰40年である。沖縄の歴史を知る上で「琉球王国」高良倉吉(岩波新書)は参考になる。以下、わかり易いところを紹介する。
「幕藩体制のなかの異国」
以上に展開した叙述によって、次の点がほぼあきちかになったと思う。日本列島の社会と共通の文化的基盤から出発しながらも、琉球諸島社会がしだいに個性化の過程をたどり、古琉球の時代において日本列島の国家と明確に区別される独自の王国を形成したこと。その王国がアシアの国際社会と交流しつつ歴史を形成してきたこと。そして、王国には国内を統治するための諸制度や組織が明瞭に存在したこと、等々である。
そして日本本土の南に出現したこの王国は、日本国家のなかに段階的に編成されてゆく。その第第一段階は、島津侵入事件(1609年)を契機とする近世の段階である。全体として琉球王国は近世日本の国家体制(幕藩制国家)の一環に編成され、その直接的な管理者として薩摩藩が存在した。たとえばキリシタン禁制、鎖国制、石高制、士農分離制といった幕藩制国家の基本的な原理は薩摩藩を介して琉球にも導入され、王国のあり方を強く規定している。要するに、「幕藩体制下の琉球」というあらたな性格が近世を通じて付与されたのである。
だが、琉球の王国体制は温存されたままであり、中国皇帝(明朝の滅亡後は清朝)の冊封をうけこれに進貢する関係も存続したために、従来の「王国としての琉球」「冊封体制下の琉球」という性格は残った。この二つの性格を濃厚にふくんだまま、「幕藩体制下の琉球」としての近世の時間は経過したのであった。
実質的に近世日本の国家体制のもとにくみこまれた従属的な存在、その一方では中国の冊封体制下にもある王国・・、一見暖味な存在にみえる近世のこの王国をさして、これまで「日支両属」と形容する歴史家が多かった。あながちまちがいとはいえないが、しかし、日本への属し方が支配―被支配関係を軸とする直接的なものであったのに対し、中国への属し方は外交・貿易を媒介とする間接的なものであったから、両者を「両属」という同一レベルで表現するのは正確とは思えない。それに、日本の封建国家に従属し、中国皇帝の冊封をうけたとはいっても、琉球の土地・人民を直接的に統治したのは琉球国王であり、その統治機関たる首里王府であった。そこで、このような多義的な事情をカウントにいれたうえで、最近の歴史家は近世琉球の基本的性格を「幕藩体制のなかの異国」と表現するようになっている。
第二段階は、1879(明治12)年の琉球処分によって王国が崩壊し、「沖縄県」が設置された以降の段階である。日本における廃藩置県(1871年)は,それまで大名が支配してきた各藩の土地・人民を天皇にお返しする「版籍奉還」(1869年)を前提に実施されたが、琉球国王の場合は天皇から土地・人民の支配権を授けられたことはなかったので、「版籍」を天皇に「奉還」する必要はなかった。したがって、沖縄県設置について琉球側が頑強に反対し、また、琉球に対する宗主権を楯に中国側が強く抗議する状況のなかで、明治国家としては軍隊・警察官を本土から動員し、力ずくで首里城のあけわたしを迫る行動に出るしかなかった。
もし、近世の270年間を通じて王国が完全に日本の「国内」的存在に編入されていたのであれは、このような紛糾した事態は起こらなかったであろう。沖縄県設置をめぐて、琉・日・中三者がもめたのは、近世の琉球王国が「幕藩体制下」に編成されていながらち、反面ではまた、それを相対化するほどの「異国」として存在しつづけてきたことに原因があったといわなければならない。

 冊封体制とは
中国歴代王朝東アジア諸国国際秩序を維持するために用いた対外政策。中国の皇帝朝貢をしてきた周辺諸国の君主に官号・爵位などを与えて君臣関係を結んで彼らにその統治を認める(冊封)一方,宗主国対属国という従属的関係におくことをさす。

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