2012年5月29日火曜日

苦海浄土

水俣病を知るのに、一番いいのは石牟礼道子氏の「苦海浄土」を読むとことである。少々長いが、素晴らしい文学作品である。池澤夏樹氏は、自分で選んだ「世界文学全集」中に、唯一日本人作家を入れているのが、この本である。以下、池澤氏の紹介文と、作品の一部を紹介する。

今さら言うまでもないが、石牟礼道子の『苦海浄土』は水俣病という大きな不幸の物語である。1950年代の後半から熊本県水俣市で発生した「奇病」と、それに苦しむ患者たちの姿、原因究明にまつわる欺瞞の数々、行政の非力ないし無責任、元凶であるチッソという会社の厚顔無恥・・・などなど悲しくも腹立たしい、また情けない話題に満ちている。情けないと言うのは、当時の日本国民の1人1人にあの惨状の責任があるとぼくが考えるからだ。もちろんぼく自身も含めて。
しかし、それと同時に、あるいは並行して、これはかつて水俣にあった幸福感の物語でもあるのだ。その点でこの作品は凡百の公害がらみのノンフィクションの類を圧倒して、人間の深みに届くルポルタージュ文学になっている。
かつて水俣が古代的な(というのは近代の毒に犯されないままの、という意味だが)幸福の地であったことを知るには同じ著者による「椿の海の記」という本を読むのがいい。幼年時代の「みっちん」のふくふくと幸せなようすが、豊饒な自然や港の賑やかな話題と共に記されている。
『苦海浄土』のところどころに巧妙に配置された幸福感は今は失われたもの、過去の残照でしかないが、それでも充分に眩しい。その光が眩しいからこそ、すぐ隣にある不幸の闇が黒々と際立つのだ。
舟の上はほんによかった。
イカ奴は素っ気のうて、揚げるとすぐにぷうぷう墨をふきかけよるばってん、あのタコは、タコ奴はほんにもぞかとばい。
壷ば揚ぐるでしょうが。足ばちゃんと壷の底に踏んばって上目使うて、いつまでも出てこん。こら、おまや舟にあがったら出ておるもんじゃ、早う出てけえ。出てこんかい、ちゅうてもなかなか出てこん。壷の底をかんかたぴん叩いても駄々こねて。仕方なしに手綱の柄で尻をかかえてやると、出たが殺後、その逃げ足の早さ早さ、ようも八本足のもつれもせずに良う交して、つうつう走りよる。こっちも舟がひっくり返るくらいに追っかけて、やっと籠におさめてまた舟をやりおる。また籠を出てきよって籠の屋根にかしこまって坐っとる。こら、おまやもううち家の舟にあがってからはうち家の者じゃけん、ちゃあんと入っとれちゅうと、よそむくような目つきして、すねてあまえるとじやけん。
わが食う魚にも海のものには煩悩のわく。あのころはほんによかった。舟ももう、売ってしもうた。
たこの動きが目に浮かぶような見事な文章力である。

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