2014年5月29日木曜日

幻影の明治


マニアックな本を図書館で借りた。「幻影の明治」渡辺京二著である。この著者を知っている人はまずいないと思う。私も初めてである。1930年大連生まれの評論家である。発行所が「平凡社」なので、変な人ではないと思い、読んでみることに。以下は司馬遼太郎の本に関しての記述である。
これは以前にも一度書いたことだが、私は司馬遼太郎のよい読者ではない。『燃えよ剣』や『峠』などは感心して読んだが、ある時期からだめになった。読んでいて、与太はかりとはしてと感じて、しらけてしまう。ひどい場合は退屈する。とにかく小説と銘打ちながら、講釈につぐ講釈で、その中身もとても本気でつきあえる代物ではない。その転機になったのが、『情況』誌が今回特集を組む『坂の上の雲』だったように思う。
何言ってるんだ、と言いたくなるところに数ページ置きに出会うようになれば、読むのが苦痛になる。一例をあげよう。「明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の読書階級であった旧士族しかいなかった」。不思議な文章、奇天裂な認識というほかはない。「明治初年の日本ほど小さな国はなかった」というのは、世界史を通じてそうだというのか、あるいは明治初年当時の世界を見渡してそうだというのか。いずれにせよ、お話にもならぬ与太である。ポルトガルやオランダが日本よりずっと小さな国であるのは小学生でも知っているのだから、私が司馬の正気を疑うのは当然だろう。
あるいはこの「国」というのは国勢の意味なのだろうか。だとすると次の文章につながるわけだが、「産業といえば農業しかなく」とは司馬は本当に信じてそう書いたのか。幕末日本を訪れたヨーロッパ人は、当時の日本に展開していた市場経済のゆたかさに瞳目し、商品の廉価・晶質のよさからして、欧州産品はとてもはいりこめないと感じた。オールコックは機械動力以前の最高の段階と評している。蝦夷地での漁業はゴローヴニンが感嘆したほど大規模であり、それがもたらす練粕は関西の綿作の肥料となった。
木綿機業はマニファクチャーの段階に達し、絹糸・絹織物は幕末開国後の貿易収支を支えた。銅山についていえば、江戸期の日本は世界有数の銅産出国で、長崎オランダ商館から輸出される日本銅はヨーロッパの銅価格に影響を与えた。以上は司馬が『坂の上の雲』を執筆した時点における常識である。
「明治の初年の日本ほど小さな国はなかったであろう・・」の記述で私は川端康成の「雪国」の書き出しを思い出した。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」
夜の底が白くなった・・こんな文章ってあり?と考え込んだ。その書き出しと似ている。大作家の文章は深く考えてはいけないのかもしれない。

2014年5月23日金曜日

通販生活


「通販生活」を時々購入する。通販で商品を購入するのではない。面白い特集が時々ある。2014年夏号の特集は「集団的自衛権、賛成?反対?」である。ぜひ読んでみて欲しい。以下は「山椒言」に載っている、萩本欣一氏の言葉である。
なに、きょうは震災の話を聞きにきたの?「通販生活」も変わってるね~。僕は「運」の本を2冊も出してるくらいだから、運の話しかできないよ。
僕はね、幸せが1個くると不幸せも1個くると思ってるの。そうすると、今回の震災で大きな不幸を負った人は、みんな2倍くらい幸せになんなきやいけない。震災から3年たったけど、まだ幸せになれていない人も多いよね。
まず言葉の問題だけど、僕は「被災」した方とは言わないの。そういう不幸の言葉を使うと不幸が生まれちゃうから。たとえば、「ウデのいい(農業や漁業や酪農の)職人」が、手を休めるときがきてしまったと考えるの。せっかくウデのいい職人がたくさんいるんだから、その優れた手をどう使うかを考えたほうがいいよね。
いま日本には元気がなくて、下り坂の町もたくさんあるでしょ。そういう町を、ウデのいい職人たちに元気にしていただく。自分の生活だけじゃなく、その町の人の生活も支えるんだから、2倍元気になるじゃない。
政府も「補償」じゃなくて「応援」のために、その地域では消費税やガソリン税なんかも全部免除して、どんどん稼いでもらう。病院やスーパーもつくってもらってね、3年あったら日本に3つくらいすごい町ができあがっていただろうなあ。国内総生産じゃなくて「町内総生産」も東京に迫る勢いで、みんなその町に行きたいって行列するから関所もつくらなきや。
こんなふうにさ、いま困ってる人たちが「英雄」になるようなことをやらなきやダメだと思うんだよね。僕が総理大臣や復興大臣をやっていたら、そうしていたんだけど、誰もなれって言ってくれなかったんだよね()
原発?あんなものやめたほうがいいのは間違いないよ。ほとんどの人がそう思ってるでしょ。でも日本のことだけを考えて言い争っていると、グズグズとこれから何十年も続いちやう。だからね、僕はちょっと違った発想が必要だと思うの。
中国がこれから10年で60基も新しく原発をつくるって言ってるんだから、世界のことも考えなくちやいけない。もし中国で事故が起こったとき、日本が知らんぶりはできないでしょう。だから、子どもたちが廃炉や除染の技術なんかを学んでね、もし中国や世界で何かあったときは、原爆も原発事故も体験した日本人が先頭に立って助けに行ってほしい。
そのうち、日本人のなかから原発よりすごいエネルギーを発明するすぐれ者が出てきてさ、世界に向けて「原発なんてもうやめようよ、こっちのほうがすごいよ」って言うから。そうしたら気持ちいいよねえ。これが世界中から原発をなくすいちばん早い方法じゃないかなあ。
今、廃炉に関わる人が減ってきていると言う。労働条件が悪すぎるからだ。萩本さんの発想が面白い。ちなみに「通販生活」は定価180円である。

2014年5月21日水曜日

山崎豊子


昨年9月、山崎豊子がなくなった。彼女の小説はほとんど読んでいる。社会問題をテーマにした小説で彼女の右にでるものはいないと思う。
日経に中国の比較文学者、張競氏が「作家と中国」というエッセイを書いている。その中で、山崎豊子氏の事を書いている。一部紹介する。
「胡耀邦がいなかったら?」『大地の子』についての取材を受けた時、そう聞かれたことがある。
「この小説は書けませんでしたね」と、山崎豊子はきっぱりと答えた。
中国の歴代指導者のなかで、故胡耀邦総書記は日本に対して稀に見るほど好意的である。たとえ県知事が訪問してきても、時間さえあれば会見していた。本来、政治的な力をまったく持たない作家と会うのは何のメリットもない。だが、山崎豊子だけは例外である。しかも、会見したのは1回ではなく、3回だ。
1984年の1回目のとき、北朝鮮の金日成主席が126日から中国を非公式に訪問した。緊急に協議すべきことがあったのであろう。胡耀邦は27日に続き、28日午前も金日成と会談し、餞別の宴会の後、専用列車で帰国する金日成を北京駅まで見送った。山崎豊子との会見に臨んだのはそのあくる日だ。
翌年の8月、中曽根首相の靖国の公式参拝をきっかけに日中関係は急速に悪化し、胡耀邦は10月に訪中した安倍晋太郎外相とも会見を行わなかった。そんな険悪な雰囲気の中で、12 7日、胡耀邦総書記は山崎豊子と2回目の会見をした。
もっとも不思議なのは3回目である。政治改革を求める学生デモの責任を問われ、胡耀邦は87116日に辞職を余儀なくされた。鄧小平との対立はその前から表面化し、胡耀邦もすでに気付いていたはずだ。もはやたいして用もない作家に会見するどころではない。にもかかわらず、辞職のわずか2カ月半前、山崎と3回目の会見をした。
あらためて「大地の子」のDVDを借りて観た。又、並行して小説も読みなおしている。20年以上も前に書かれた小説であるが、色あせていない。

 

 

2014年5月13日火曜日

戦争を想定するのか


毎日新聞、野坂昭如氏の「七転び八起き」の「戦争を想定するのか」というエッセイから、日本国憲法のところを紹介する。
さて、この5月で68年目を迎えた日本国憲法。日本はこれまでこの平和憲法の下で建前と本音を使い分けつつ、のんしゃらんとやってきた。日米安保条約によって、日本の安全についてはアメリカに依存、一方、平和憲法を保持する国として結構上手に立ち居振るまい、ある意味世界に冠たる処世術を身につけていたといえるだろう。
これまでしばしば憲法違反が取り沙汰され、その都度改正派、護持派が登場。双方揚げ足取りつつ言いただす。そのうち憲法は形骸化、時々空論はあるものの、実のある論議には、なかなか結びつかない。議論の開かれないまま、警察予備隊以後、自衛隊はれっきとした軍隊であるにもかかわらず、戦力であるの、ないのといわれながら増強され、歴史を積み重ねてきた。
これまでも第九条があろうがなかろうが、拡大解釈と歪曲化で自由自在、好き勝手な解釈を下してきたが、ここへきて時代が変わったという。集団的自衛権、憲法解釈の変更について、まずは閣議決定結論ありきで進める。
現在の安倍政権は、憲法そのもの議論から離れ、避けながらどうにか強引にまとめようとしている。戦争が出来る国にして、行政が責任を持つ、官邸主導といえば戦前と同じ。本来憲法は権力を縛り、国民を守るもの、解釈次第でいとも簡単に歯止めをなくす。憲法でさえ他の法律と同じ扱い。憲法については国民的議論が必要。世間の側もウヤムヤにしてはいけない。
一片のお触令が町の風景を変える。これに人の眼はたちまち慣れてしまう。日の丸揚げてニホンヨイクニと祝ううち、選ばれし子供が兵士となり、生命を賭けて国を守るは男子の最高徳目、最終的には国民皆兵、お婆さんまでもが竹やりを担ぎ出す。今の皆さん、まさかとみなす向きが多いだろうが、考えられなかったことが、いつの間にか当たり前となり受け入れられた軍国の時代をぼくは生きた。
憲法の解釈だけを変えて誰も責任を持てないまやかしはやめた方がいい。日本の平和のために憲法を変えるというのなら国民がしっかり考えて結論を出すべきである。つまり戦争を想定するということ。夫や息子が兵士になる、都市の在り方も変わる。憲法を守るでも改めるでもなく放置することは良くない。まして時の権力ごと解釈を変えるなど世の中は戦前に戻るだろう。
われわれ自身が、自分の息子を戦争に送り出すことを想定することが重要である。
私の父親は太平洋戦争で7年間中国で戦ってきた。遠い昔の話ではない。

2014年5月8日木曜日

東北を聞く

  詩人、佐々木幹郎氏の「東北を聞く」を読む。「牛方節」「斎太郎節」「新相馬節」の唄に、人々はどんな思いを込めてきたのか。詩人が、津軽三味線の二代目「高橋竹山」とともに、東日本大震災の直後に被災地の村々を行脚した旅の記録の本である。その中の一部を紹介する。
初代高橋竹山の秘法
寿命が延びた
クラシックやジャズ,ポップス音楽を聴いて、そのライブ演奏が気に入ったとき、人々は「ブラボーー」と誉めたたえ、「素晴らしかった」と言い、「感動的な名演だった」と批評し、あるいは感激のあまり 「涙が出た」とも言う。音楽に共感するこのようなことばは、確かに最高の誉めことばには違いない。
しかし、日本の民謡の場合、最高の誉めことばはこれらとは違う。面白いことに、老人たちの多くは,民謡の演奏に感激したときこんなふうに言うのだ。
「ああ、寿命が三年延びた!」
延びる寿命が二年」でも「二年」でもいい。年数に意味はない。「寿命」はそのことをつねに意識している人たちが、本能的に使うことばだ。気が楽になった、リラックスした。ストレスを発散して、ほんとうに楽しんだ。そのことを「寿命が延びた」という言いかたであらわす。生きる、あるいは生き延びる元気が出た、ということだ。それは生活に密着したところから生まれ出てくる評価のことばである。いや、音楽を批評しょうという意識すら成立しないところで、実感として生まれてくることばだ。こういう批評のことばが一番怖い、とわたしは思う。
クラシックやジャズ、ポップス音楽を聴いた人たちから、「寿命が延びた」というような批評のことばをわたしは聴いたことがない。もちろん、若い人たちは「寿命」ということばを使わない。彼らはその若さによって、自らの「寿命」が長く続くことを錯覚する権利がある。
しかし、音楽演奏を評価することばで、「寿命が延びた」とは、その音楽が聴く人の身体に充分に入ったということを示している。そうであるなら、クラシック音楽のピアノでもヴァイオンでもフルートでも、老若男女を問わず、聴く人たちに「寿命が延びた」と言わせる演奏こそが、最高の演奏だ、と言っていい。そこにおいては、術と芸能の違いはない。わたしたちは音楽を評価するとき、生活感を持ったことばをあまりにも持たなさすぎるのである。
音楽を楽しむ時の言葉と、生活感と関連させることは面白い。