2014年5月8日木曜日

東北を聞く

  詩人、佐々木幹郎氏の「東北を聞く」を読む。「牛方節」「斎太郎節」「新相馬節」の唄に、人々はどんな思いを込めてきたのか。詩人が、津軽三味線の二代目「高橋竹山」とともに、東日本大震災の直後に被災地の村々を行脚した旅の記録の本である。その中の一部を紹介する。
初代高橋竹山の秘法
寿命が延びた
クラシックやジャズ,ポップス音楽を聴いて、そのライブ演奏が気に入ったとき、人々は「ブラボーー」と誉めたたえ、「素晴らしかった」と言い、「感動的な名演だった」と批評し、あるいは感激のあまり 「涙が出た」とも言う。音楽に共感するこのようなことばは、確かに最高の誉めことばには違いない。
しかし、日本の民謡の場合、最高の誉めことばはこれらとは違う。面白いことに、老人たちの多くは,民謡の演奏に感激したときこんなふうに言うのだ。
「ああ、寿命が三年延びた!」
延びる寿命が二年」でも「二年」でもいい。年数に意味はない。「寿命」はそのことをつねに意識している人たちが、本能的に使うことばだ。気が楽になった、リラックスした。ストレスを発散して、ほんとうに楽しんだ。そのことを「寿命が延びた」という言いかたであらわす。生きる、あるいは生き延びる元気が出た、ということだ。それは生活に密着したところから生まれ出てくる評価のことばである。いや、音楽を批評しょうという意識すら成立しないところで、実感として生まれてくることばだ。こういう批評のことばが一番怖い、とわたしは思う。
クラシックやジャズ、ポップス音楽を聴いた人たちから、「寿命が延びた」というような批評のことばをわたしは聴いたことがない。もちろん、若い人たちは「寿命」ということばを使わない。彼らはその若さによって、自らの「寿命」が長く続くことを錯覚する権利がある。
しかし、音楽演奏を評価することばで、「寿命が延びた」とは、その音楽が聴く人の身体に充分に入ったということを示している。そうであるなら、クラシック音楽のピアノでもヴァイオンでもフルートでも、老若男女を問わず、聴く人たちに「寿命が延びた」と言わせる演奏こそが、最高の演奏だ、と言っていい。そこにおいては、術と芸能の違いはない。わたしたちは音楽を評価するとき、生活感を持ったことばをあまりにも持たなさすぎるのである。
音楽を楽しむ時の言葉と、生活感と関連させることは面白い。

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