2014年5月13日火曜日

戦争を想定するのか


毎日新聞、野坂昭如氏の「七転び八起き」の「戦争を想定するのか」というエッセイから、日本国憲法のところを紹介する。
さて、この5月で68年目を迎えた日本国憲法。日本はこれまでこの平和憲法の下で建前と本音を使い分けつつ、のんしゃらんとやってきた。日米安保条約によって、日本の安全についてはアメリカに依存、一方、平和憲法を保持する国として結構上手に立ち居振るまい、ある意味世界に冠たる処世術を身につけていたといえるだろう。
これまでしばしば憲法違反が取り沙汰され、その都度改正派、護持派が登場。双方揚げ足取りつつ言いただす。そのうち憲法は形骸化、時々空論はあるものの、実のある論議には、なかなか結びつかない。議論の開かれないまま、警察予備隊以後、自衛隊はれっきとした軍隊であるにもかかわらず、戦力であるの、ないのといわれながら増強され、歴史を積み重ねてきた。
これまでも第九条があろうがなかろうが、拡大解釈と歪曲化で自由自在、好き勝手な解釈を下してきたが、ここへきて時代が変わったという。集団的自衛権、憲法解釈の変更について、まずは閣議決定結論ありきで進める。
現在の安倍政権は、憲法そのもの議論から離れ、避けながらどうにか強引にまとめようとしている。戦争が出来る国にして、行政が責任を持つ、官邸主導といえば戦前と同じ。本来憲法は権力を縛り、国民を守るもの、解釈次第でいとも簡単に歯止めをなくす。憲法でさえ他の法律と同じ扱い。憲法については国民的議論が必要。世間の側もウヤムヤにしてはいけない。
一片のお触令が町の風景を変える。これに人の眼はたちまち慣れてしまう。日の丸揚げてニホンヨイクニと祝ううち、選ばれし子供が兵士となり、生命を賭けて国を守るは男子の最高徳目、最終的には国民皆兵、お婆さんまでもが竹やりを担ぎ出す。今の皆さん、まさかとみなす向きが多いだろうが、考えられなかったことが、いつの間にか当たり前となり受け入れられた軍国の時代をぼくは生きた。
憲法の解釈だけを変えて誰も責任を持てないまやかしはやめた方がいい。日本の平和のために憲法を変えるというのなら国民がしっかり考えて結論を出すべきである。つまり戦争を想定するということ。夫や息子が兵士になる、都市の在り方も変わる。憲法を守るでも改めるでもなく放置することは良くない。まして時の権力ごと解釈を変えるなど世の中は戦前に戻るだろう。
われわれ自身が、自分の息子を戦争に送り出すことを想定することが重要である。
私の父親は太平洋戦争で7年間中国で戦ってきた。遠い昔の話ではない。

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