2010年12月29日水曜日

手帳

 毎年年末になると、来年の手帳が欲しくなる。来年ははどんな手帳にしようかと
考え、迷うのが楽しい。薬局は、毎年製薬メーカーさんからいろんな手帳をもらうので
その中から、いいものを選んで決めている。ここ十数年は同じ手帳を使ってきた。
 手帳と言えば、最近は電子手帳を使っている人が多くなってきたが、私は紙の手帳が
いい。それも、1冊で公私ともに記入ができ、後から見て日記がわりになるものがいい。
 手帳を見れば、その人の人間性が全てわかってしまう程、個性が出るものだ。
字の大きさ、色の使い方、時間割等・・・。
 ある製薬メーカーのMRさんで、手帳の最後にしっかり連絡先を書き、もし失くして
拾ってくれた人に「金1万円」差し上げますと書いている人がいた。それほど
手帳をいうものは大事なものなのである。
さて、2011年あなたはどんな手帳を使いますか?

2010年12月20日月曜日

気になる言葉

 大分前から、気になっているのが「全然大丈夫」という言葉。この言葉は若くない人は気になるのではないかと思う。全然は、下に否定語くることになっている。「全然、解らない・・、全然・・ない」となる。敢えて理解するなら「全然、(問題ないから)大丈夫」という言葉の(問題ないから)を省いた言葉なのだと。こう理解すれば、今流行の短縮言葉の一つである。でも私は使いたくない言葉である。
 もう一つ気になる事がある。最近電車に乗ると車掌が「何番ホームにお廻りください↑」と「さい」をあげて言うのだ。気になってしょうがない。
 言葉とか文章はその人の「人間性」を曝け出す。その使い方、話し方でその「人となり」がわかってしまう。怖いが、やはり時代が反映するものである。

2010年12月14日火曜日

表と裏

 毎日新聞のコラムに斉藤環氏の「時代の風」がある。その中には「政治の裏」というタイトルで面白い話が散りばめられている。以下その一部を紹介する。
「民主党内閣には裏と表を使い分ける意図がないし、能力が欠けている。」「国際的内部告発サイトであるウィキリークスはアメリカ軍の戦闘記録約49万件を公開して、全世界に波紋を投げかけているが、アメリカ外交は情報漏洩の謝罪対応に終われている」「これはまだ兆候に過ぎないが、政治や外交から簡単には裏が消えるわけではない」「いずれにせよ、私達に必要なのは単に「裏」を切り捨てることではない。その醜悪さにひるむことなく<裏>の果たしてきた機能を十分に検証しておくことではなかろうか」
 どんなものにも表があるから裏があるのだ。これを切り離すことはできない。重要なのは表と裏を使い分けることではないだろうか

2010年12月7日火曜日

日野原重明と加藤周一

 今年数えで100歳になるという聖路加病院理事長の日野原重明さんは、5年前から毎年国内外の約50の小学校をまわり「いのちの授業」を続けていると言う。授業で伝えていることは「命は君が持っている時間」「何のために時間を使うかはめいめいの課題。大きくなったら人のために大切に時間を使って欲しい」と訴えていると言う。命という抽象的な言葉を極めてわかりやすく説いている。
 2年ほど前に亡くなった医師であり、評論家であった加藤周一さんは「読書術」という本の中で次のように言っている。「読書はひとりでできる愉しみである」「設備も要らず、誰でも望めば昼となく夜となく好きな本を読める」「こんな便利な娯楽はない」「読書の愉しみは無限である。時間を持て余してすることがないという心理はわかりにくい」「人生は短く面白そうな本は多し」
 夜の長い冬はどんな本でもいいから、じっくり読むことを薦めたい。

2010年11月30日火曜日

夜と霧

 強制収容所での体験を綴った記録文学作品であるフランクルの「夜と霧」に次のような言葉があった。

 「人生は歯医者の椅子に座っているようなものだ。さあこれからが本番だと思っているうちに終わってしまう」これは次のように言い換えられる。「強制収容所ではたいていの人が、今にみていろ、私の真価を発揮できるときがくると信じていた」けれども現実には、人間の真価は収容所でこそ発揮できたのだ。おびただしい被収容者のように無気力にその日をやり過ごしたか、あるいはごく少数の人々のように内面的な勝利を勝ち得たか、ということに。

 強制収容所にいる人間に、そこが強制収容所であってもなお、なんとか未来に、未来の目的にふたたび目をむけさせることに意をもちい、精神的に励ますことが有力な手だてとなる・・・。

 もっと、いい環境であったら・・もっとお金があったら・・もっと・・
 今を一番大事にして努力しないと何もなし得ないということである。

2010年11月17日水曜日

もういちど読む「山川世界史」

 最近、テレビや新聞などのマスメディアで「尖閣列島」問題や「北方領土」問題が毎日と言っていいほど報道されている。
「中国はなんという国だ」とか「ソ連もいいかげんにしろ」とか・・・。感情論としては簡単に言えるが、なんで中国、ソ連はそんなことを言うのかを理解するには、相手の国と日本がどんな歴史の過去があるのかを知らないと理解に苦しむことが多くある。
 学生時代の「世界史」の授業はなんとつまらないものだったろうか。ただ、人物、事件の名前を覚えたり、年号を暗記するだけ。まったく面白くなかった。
 最近本屋さんへ行ったら、「もういちど読む山川世界史」(山川出版社)を見つけた。内容、構成は高校の世界史の本に似ているが、一般の読者も対象にしていて、面白い読み物にもなっている。
あらためて読んでみたくなり、購入した。
日本の外交も相手の国を知らないと大変な事になる。日本の代表する人はしっかり世界の歴史を勉強して欲しいものだ。

2010年11月13日土曜日

百人一首の思い出

  毎年年末に近くなると、なぜか百人一首を思い出す。百人一首と言えば、中世の大歌人「藤原定家」が古来の歌人から一人一首を選んで集めた和歌集である。
 そこで思い出すのが、高校一年の時の古典の担任の高田先生である。年まで覚えている。確か32歳で独身であった。
 先生はその百人一首を全て暗記させたのであった。古典の時間の最初に、テストをする。先生が上の句を言って、生徒に下の句を言わせる。できなかったら立たせる。
 私は古典が苦手で、立たされるのが多かった。ただ意味もわからず暗記させられたのである。
 秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ(天智天皇)
 いまだに口ずさんで出てくるのである。若い時は意味もわからないまま覚えた事が、大人になってなるほどこう言う意味だったのかとわかるのだ。
 この年になってはとても覚えることができないことが、若い時はできる。
 あの時は憎憎しい先生と思っていただけだが、今は感謝の気持ちでいっぱいだ。
 鉄は熱いうちに打て!

2010年11月10日水曜日

夏目漱石と戦争

 私の読書歴の中で一番気になる作家と言えば、「夏目漱石」である。私は生意気にも中学生のうちに彼の全集を読んだ。その当時はただ面白いという感想しか残っていない。特に「坊ちゃん」「我輩は猫である」は面白かった。他の著書は中学生には少々背伸びして読んでいた気がする。その後「夏目漱石」に関する評論本が出ると必ず購入して読んできた。
 最近、「夏目漱石と戦争」という本が「平凡社新書」から出された。
夏目漱石がこんなにも戦争というものに関心も持ちながら、作家活動をしてきたのかと驚くばかりである。漱石は1888年第一高等中学の時に英作文で軍事教練について次のように書いている。「諸君、軍事教練は私にとって辛すぎる訓練であります。それは、教練が私の意志に反して強制的に訓練を課すという理由によるものであります。私は軍事教練という名前を聞いただけで虫唾が走ります。軍事教練において、われわれは、形こそ人間でも、鈍感な動物か、機械的な道具のごとく遇されるのであります。われわれは、奴隷か犬のように扱われるのであります。しかしながら、いったい誰が、犬のように卑屈に尻尾を振り、手を舐めるでありましょうか。」と書いています。
 明治の兵役義務がある時代に、しかも15、6歳の若者が書いているのである。そんな背景を知って漱石の本を読むと、又違った読後感になるのではなかろうか。