2011年9月30日金曜日

普天間基地問題

 普天間基地問題について、元外務省主任分析官で作家の佐藤優氏は毎日新聞で以下のような分析をしています。
23(日本時間24)、訪米中の野田佳彦首相が内外記者会見を行った。<首相は普天間移設を巡り、日米首脳会談でオバマ大統領に「昨年の日米合意にのっとって推進する」と日本側の考えを伝えたことを説明。抑止力維持と沖縄の基地負担軽減に取り組む姿勢を示し、「沖縄に県外移転を望む声があることもよく承知しているが、丁寧に説明しながら(県内移設に)ご理解をいただくということ」と述べた。> このことに対して、以下のように述べている。

野田首相は、沖縄が米海兵隊普天間飛行場の辺野古(秤縄県名護市)への受け入れに理解を示す可能性が皆無であるという現実を直視すべきだ。率直に言おう。政権交代以前ならば、辺野古移設の可能性はあった。しかし、鳩山由紀夫政権が沖縄県外への移設を口にしながら、最終的に辺野古移設に回帰した過程で、普天間問題の位相が変化してしまった。野田首相を含む東京の政治エリート(国会議員、官僚)は普天間問題を安全保障の枠組みで考えている。これに対して、沖縄は普天間問題を東京の政治エリートによる沖縄への差別問題と捉えている。この認識の差異を正確に理解しない限り、野田首相がいくら誠実に努力しても、空回りするだけだ。
日本の地上面概の0.6%を占めるにすぎない沖縄に在日米軍墓地の74%が所在しているという現状は、明らかに不平等だ。しかし、沖縄はその不平等な現実に耐えてきた。
その背景には、以下の琉球語(沖縄方言)の俚諺に象徴される沖縄の精神的伝統がある。「チエニクルサッティンニンダリーシガ、チュクルチエニンダラーン(他人に痛めつけられても眠ることができるが、他人を痛めつけては眠ることができない)
当時の鳩山首相が沖縄県外への移設を模索すると宣言したとき、沖縄は「ついにわれわれの痛みを理解し、その解消に努力してくれる首相が現れた」と心から喜んだ。しかし、外務官僚、防衛官僚の包囲網によって鳩山首相は身動きが取れなくなり、辺野古案に回帰してしまった。
この過程で見えたのが差別の論理だ。沖縄県以外の都道府県が海兵隊飛行場を受け入れないのは地元の民意が反対しているからだ。民意に反する政策を強行しないというのが民主主義原則だ。沖縄の民意も海兵隊飛行場の受け入れに反対しているにもかかわらず移設を強要されるのは、沖縄には民主主義原則が適用されないということに他ならない。これは明白な差別だ。しかもこの差別は、人間にたとえるならば生活習慣病のように構造化しているので、東京の政治エリートにはどこに問題があるか見えないのである。野田首相が構造的差別という観点から普天間問題を見つめれば、新たな展望が開かれる。

佐藤優氏は結構過激な発言をすることで有名であるが、この説は当たっていると思う。彼の説で行くと解決策は二つ。一つは国外移設。もう一つは県外移設で平等に負担する。果たして佐藤氏はどちらを期待しているのであろうか。又、どちらが可能であろうか。

2011年9月26日月曜日

小さな親切大きなお世話

東洋経済の北川達夫氏の「対話力入門」を何度も紹介している。何故かと言えば、今の政治の問題を解決する上で、各政党間の討論会があるが、聞いていると、自分の言いたいことだけを言いっぱなしという事が非常に多い。大人の討論ではないのだ。以下の北川氏の文章の一部を紹介したい。

「小さな親切、大きなお世話」という、何とも身もふたもない言葉がある。ちょっとした善意が社会の潤滑油になる。それは否定しない。だが、自分では親切のつもりでも、相手にとっては迷惑の場合もあるのではないか。それも否定できまい。
もう一つ。道徳の黄金律とは「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」。これは『マタイ伝』の言葉である。これが東洋の『論語』においては、「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」となる。要するに、自分を規準にして、他者に何をすべきか、あるいは何をすべきではないかを考えるということだ。
これに対して、皮肉屋の劇作家バーナード・ショウは戯曲『人と超人』において「何事も人々からしてほしいと望むことは、人々にはそのとおりにしてはならない。好みは同じではないだろうから」と揶揄した。確かに、そのとおりではある。
そんなことを言っていたら、何もできないではないか!そう、バーナード・ショウのような考え方を突き詰めていくと、相手に対して何もできなくなってしまう。何も言えなくなってしまう。
「お節介」という言葉がある。一般に、度が過ぎた親切のことを、お節介という。では、親切とお節介の境界はどこにあるのか?その線引きは意外に難しい。
古典的な対話論では、困っている人、苦しんでいる人、悩んでいる人を目にしたときこそ、対話的に考えて行動すべきだと教えている。他者の苦しみを見たことに苦しめ。
自分なりの善意や正義感で、それが相手に迷惑と受け止められようとも、行動することが必要だということである。当然、行動すれば衝突する可能性もある。だが、衝突するからこそ、対話の必要性も生じるのだ。
対話とは、個々の「違い」を隔離して、平穏無事に共存する方法ではない。「違い」を衝突させ、混沌とした状況に苦しみながら、共存の道を模索する方法なのである。
傷つきたくないから、何も言わない人や、自分の意見ばかり言って、人の意見を聞かない人が多くなった。
いつの間に日本という国はこんなに幼稚化してしまったのだろうか。メディアの責任は大きいと思う。

2011年9月20日火曜日

9.11から10年

野坂昭如氏の「七転び八起き」の連載が、毎日新聞に開始されて2年以上が経つ。彼は脳卒中で倒れ、しばらく病気療養していた。リハビリにより、かなり回復している。奥さんの口述筆記により、毎週冴えた文章を読者に提供している。「今回は9・11から10年」というタイトルで書かれている。
以下、かなり短くまとめてみた。
アメリカ同時多発テロから10年経った。あの時、ぼくはテレビを観ていた。ワールドトレードセンターに飛行機が突っ込み、やがて炎、煙とともにビルが崩壊。衝撃を受けながら、一部始終観ていた。これを機にアメリカはイラク戦争にのめり込んでいく。10年。3652日。一体あれからアメリカは変わったのか。あのテロは世界を変えたと言われる。確かにこれまでの戦争とは違った。これまでの戦争は国対国というカタチだった。ブッシュ大統領は、911直後、「これは戦争だ」と宣告。しかし戦争というにしては敵としての国家は無かった。テロは突きつめていえば、個人の問題に属する。国家対国家の場合は、会話が成立する。両国にとって最悪の事態を避けるべく努力も可能だろう。しかしテロの場合それは出来ない。アメリカは911以後、悲しみに暮れた。そして国を挙げて一丸となって報復に向かう。打倒フセイン、ウサマ・ビンラディン。テロ組織アルカイダに立ち向かうべく、アメリカの大義が整った。アメリカの言う大義という名目の陰に、石油という利権が透けて見える。つまりアメリカは自国の利益で動く。これを欧米は冷静に見極めつつ、我が身にふりかかる火の粉だけふり払い、冷ややかに眺める。
アメリカは世界の警察国家を自任し、しかしそれは叶わぬまま、それでも世界を牛耳ろうとあちこち手や口を出す。これまでもアメリカの手段については、目に余ると言われてきた。自国の民主主義を旗印に軍事力を強化。経済力を背景に超大国アメリカの価値観を押し付け、それぞれの特徴をおしひしいできた。
この時、小泉純一郎はわが国の憲法を曲げて解釈、自衛隊をイラクに派兵する論拠とした。こうして日本は、アメリカの報復戦争に追随、というより、はっきり加担した。過去のことではない。あの暴挙は、今後の日本を大きく変える危険がある。
日本は戦後他国と戦火を交えることのないよう慎重に歩んできた。しかし徐々に歯止めが失われつつある。先日ワシントンで前原誠司・民主党政調会長は自衛隊の海外派遣の際の武器使用基準を綬和すべきだと述べた。さらに武器輸出三原則の見直しにも触れた。戦後日本が守ってきた大原則を党内はおろか世間の論議もないまま、民意を無視した形でキナ臭い方向へ向かわせようとしている。これは具体的に危ない兆候。もう少し世間は敏感になるべきだ。面倒臭がらず、何にしたって考えること。同時多発テロを含め、軍事力では何も解決出来ないことは立証されている。
何事も面倒くされないことが大事である。簡単にズバ、ズバ結論を出すことはその場面では気持ちがいいが、決していい解決法ではない。特に、国と国との関係ではなおさらだ。

2011年9月13日火曜日

安全性の哲学

 大学時代の恩師にあたる「河合聰」先生(岐阜薬科大学)から、「放射線とはなにか」という本が送られてきた。大学を卒業して36年も経つのに、まだ気を使っていただいていることは本当にありがたいことである。放射線と正しく向き合うために緊急に出された本である。
 その中で、少し長いが印象に残る文章を以下に記す。

 安全性の哲学
宇宙や大地から来る自然放射線、私たちの身体の中にある放射性同位元素から日常的に浴びている少ない量の放射線からは逃れようはありません。また、それを怖がる人もいません。飛行機で旅行すれば地上の数倍の宇宙放射線にさらされることになりますが、そのために旅行を取りやめることはしません。
一方、多量(高線量)の放射線は身体に害を及ぼすことは事実です。その被害の大きさや性質は放射線の種類と量、受ける身体の部位、放射線の受け方、全身か部分か、一度に大量に受けるか長期間に少しずつ受けるか、によって異なります。高線量とはいえない程度の被ばくではどうなのか。

問題はこの点です。
実は、少ない線量(低線量)の放射線が身体にどういう影響を及ぼすのか、及ぼす場合はどういう影響を及ぼすのかは科学的に十分解明されているとはいえないのです。低線量放射線の生物への影響は今でも重要な研究課題なのです。現時点では誰にもわからないというしかありません。先に触れましたように、放射線に「しきい値」というものがあるのか、なお結論は出ていません。

こういう状況の中で私たちはどう対応すればいいのでしょうか。これが「安全性の哲学」です。
武谷三男(1911-2000、物理学者)は、著書『安全性の考え方』の中で「安全に絶対はない。危険を避けることが最高の安全対策だ」と述べています。この原則はきわめて明快であり重要だと思います。武谷は、専門家の意見が大事にされることが日本の安全問題の最大の欠点だと指摘しています。そして、「安全性の判断に利潤や損得が介入してはならない。」と述べ、「施設の安全性について設計者は問題があると考えるはずはない。問題があると思えば直すからだ。しかし、専門技術者の判定に意味がないのは、車検を通った車は故障が起こるはずがないというのと同じくらいナンセンスだ」と断言しています。
また、原発については次のように警告しています。「利潤や採算ほど勝手なものはない。国民の楽しい健全な生活を犠牲に供し、尻拭いは国民の税金で行うのだから。こうして危険を警告する者を一笑に付したり悪者扱いにして、あとは知らぬ顔である。」 
何という鋭い指摘でしょう。先般の福島第一原発事故にそのまま当てはまるではありませんか。
専門家とは何者か。自然科学の分野において、研究成果に関する知識と専門家は決してイコールではありません。研究成果は事実ですが、専門家がその事実をどう判断するかという過程において、専門家といえども人間ですから主観が入り込むのを避けることはできません。さらに、専門分野についても何もかも理解できているわけではありません。専門家たちの意見は大いに参考にすべきでしょうが彼らに判断を委ねてはなりません。大切なことはみんなで議論することだと思います。そして物事を最終的に決めるのは、たとえその結論が結果的に妥当性を欠く場合があるとしても、市民であって専門家ではありません。この意味はきわめて重いとみるべきです。市民が自ら考える生き方を社会全体で育てていくことが重要ではないでしょうか。

さらに続けて警告します。「もちろん、何事にも事故は起きます。しかし、あくまで事故をゼロにする努力をしてこそ事故は防げるのです。事故が避けられる選択を探すことです。」
東日本大震災においても、「放射能は何重にも閉じ込められている」という専門家による原発の「安全神話」はあっけなく崩れました。専門家の判断を参考にして行政が指定した避難場所の多くが津波の被害に見舞われました。福島第一原発の事故も「想定外」だったというのです。「誰もこんな大地震が起こるなんて思ってもみなかった」と。
しかし歴史を紐解くと、東北地方では幾度も大きな地震に見舞われています。
先般の地震は、決して「想定外」ではなかったのです。それなのに「地震が起きれば大災害にもつながりかねない」という原発の危険性を督告する声に耳を貸そうとせず、原発政策をひたすら推進してきた電力会社、専門家、政府に対して、責任を追求する声が湧き上がるのは当然です。「想定外」とはどういう意味でしょうか。現代の科学的知識では誰にも予測できなかったという現象は当然起こり得ることです。今回の原発事故の原因は地震であり津波でしたが、隕石の落下とまでいわなくても、飛行機やヘリコプターが墜落することだってあり得るでしょう。戦争や内紛は今でも起きていますし、テロの標的にされることだってあり得るでしょう。そもそも「原発は事故が起これば大災害につながる」ということ自体が「想定内」というべきです。
野依(ノーベル賞受賞)は最近の発言の中で福島第一原発事故について「科学者の『想定外』は言い逃れ」だと厳しく言及しています。「確率は低くても、起こり得ることは起こる。危機管理が甘かったと反省し、率直に非を認めなければなりません。」
科学技術者の倫理が問われているように思われてなりません。被ばく線量についても武谷は「許容量というのは、その量までは危険がない量、という考え方は間違っている。その量まででも、実は危険があるかもしれない。しかし、そのものを使うことによって、社会的な利益があるならば、マイナスとプラスとを天秤にかけて、ある量までのマイナスは我慢してもいいのではないかという量が許容量である。許容量とは社会的概念である。」と述べています。

実に教訓的な文章だ。許容量の考え方もまさにこの通りである。

2011年9月8日木曜日

世界記憶遺産

 「世界記憶遺産」に今年5月に登録された山本作兵衛の画文集「炭鉱に生きる」という本を購入した。絵も文章も丁寧に書かれていてびっくりした。「世界記憶遺産」という言葉も山本作兵衛さんの画文集が登録されたニュースで初めて知った次第である。
 購入した理由は、私の父の父、祖父が長崎の炭鉱で、いわゆる「親分」をしていたと父から聞いていたからだ。その祖父は、父が12歳の時に「やくざに刺されて死んだ」ので、12歳の父は2人の弟、妹、母親を養うべく奉公に出されたのであった。その後いろんな仕事をしながら、7年間戦争に行き、岐阜の地にたどり着いて、私の母と結婚し子供4人を設けた。
その上から3番目(次男)が私である。
 そんな事から、炭鉱と聞くと他人事と思われないのだ。
以下の作者の紹介と作者の本のあとがきである。

山本作兵衛(やまもときくべえ)
明治25(1892)年福岡県嘉穂郡生まれ。七歳のころから坑内に入り、以来50余年、働くヤマが閉じられるまでひとすじに筑豊のヤマに生き抜いてきた。これだけでもすでに偉大な記録だが、真価はむしろそれ以後、昭和33年に「ヤマの姿を記録して孫たちに残しておこう」と絵筆をにぎり、明治・大正・昭和3代のヤマの姿を丹念にうつしはじめてから発揮される。とうに60はすぎていたが、その記憶力は抜群で、独学ながら精練丹念な仕事ぶりは1日も休むことなくつづけられ、9年間で数百枚の絵と六冊の大学ノートびっしりと食重な記録がのこされた。昭和59年(1984)、老衰により、惜しまれつつ逝去。しかし、その偉業は世界から賞賛され、平成23(2011)年5月には589点の絵画や108点の日記・ノートなどがユネスコの認定する「世界記憶遺産」に日本国内から初めて登録された。


いまさらめいてはきますが、エネルギー革命によって、筑豊だけでなく全国のヤマがつぎからつぎに姿を消しており、跡に残るのはボタ山と鉱害と失業者だけという、みじめな世相となりました。
それでも消えていくヤマについては、たくさんの報告が書かれ、多くの写真がうつしとられました。しかし明治・大正・昭和の初期までのヤマの姿を伝えるものはほんとうに少なく、いまから百年の後だれが知っていて、あとに伝えるでしょう。そこで私は昔のヤマの姿を記録して孫たちに残しておこうと思い立ちました。というのも村の目明かしをしていたという祖父のことを思い出しても、当時の生活や世相について何も書き残していないので知る術もないからです。私の孫が成長した頃、昔のヤマを知るために手がかりとなるものがなければ、祖父である私のことについて疑問が起こっても知らせようがないと考えたからです。はじめ私は文章で綴ろうと思ったが、無学の私にはどうも思うようにいかないので少年時代から好きだった絵で措いてみることにしました。といっても、少年の頃には弟を二人も背負って家事の手伝いをしていたので、机に向かう暇はないし、十四歳のとき坑内夫になってから約七年間、毎日昇坑後全くの我流で措いたことがあるだけです。じつに五十数年ぶり六十代も半ばちかくになって絵筆をとってみました。
その頃まだ私は炭鉱事務所の夜警をしていましたので、毎晩勤めの暇に描きためていったものです。描き上げたらひそかに孫にやろうと思っていたのに、炭鉱の所長である長尾達生氏の目にとまり、福岡市の木曾重義氏に紹介され、そこで思いもかけず本にしていただきました。昭和三十八年、絵を描き出して五年目のことです。それから程なく交通事故に遭い、記憶も失ってそのままあの世に昇天するかと思われたこともありました。手術の結果幸い記憶もよみがえったところで、地元の田川郷土研究会や田川市立図書館から、炭鉱の資料として残したいのでもう一度描いてもらいたいという申し出があったので、はじめの決心からすると傍道にそれてしまいましたが、孫だけでなくみんなに見てもらえるならと思って承知し、今日までずっと描いて、でき上がったものは当市立図書館へ寄贈しています。前の本は非売品でしたが、今度は日本全国へ頒布されるそうで、そのことがいちばんうれしくおもいます。

山本さんの性格がよく出ている文章ですね。私も、父が生きているうちに、父がどのようにして生きてきたか聞いておけばよかったなと反省している。

2011年9月5日月曜日

人として

またまた東洋経済「対話力入門」から、紹介したい。以下、概略である。

相手のちょっとした言動がきっかけで、急に不信感が芽生えることがある。わかりあえていたつもりが、いきなりわかりあえなくなったように感じるのだ。
以前に「相手のそばの食べ方が気に入らない」と言って婚約を解消した有名人がいた。もちろん真相は知らないが、決別のきっかけとしては理解できる話である。おそらく「そばの食べ方」に象徴される「何か」があったのだろう。
個人の倫理観にかかわる言動となると、不信感はさらに募る。たとえば、「わたし」は被災地に義援金を送ったのに、「あなた」は送る必要はないと言う。なんて冷たい人だろう。人として許せない
「人として」という差別的な言葉が出てくると、「わたし」と「あなた」の距離は絶望的に広がってしまう。ついに「あなた」は「あなた」ではなくなる。わかりあえない、いや、わかりあいたくもない「やつら」の一員になってしまうのだ。
ヨーロッパの小国、仮にA国としておこう。そこに長く住んでいた友人の話である。友人は日本に帰国するに当たり、現地で飼っていた猫も連れて帰ることにした。そのことを、軽い気持ちでA国人の同僚に話したところ、同僚は口を極めて友人を非難したという。
そう、過酷な苦しみを与えるくらいなら、早々に「楽にさせる」のが飼い主の義務だというのだ。
人として許せない! 友人は心底から憤った。友人はA国に10年以上も住んでいた。A国人の同僚とも、長年にわたって一緒に仕事をしており、気心の知れた仲のつもりだった。同僚は犬を飼っていて、ペット談義をきっかけとしたプライベートな付き合いもあった。それなのに、「殺せ」とは!やはり外国人とはわかりあえないのか・・・。
友人は同僚と絶交するつもりで、言い放った。「あなたが何と言おうと、猫を日本に連れて帰る」と。
ところが、この言葉に対する同僚の反応もまた、予想外のものであった。「飼い主が決めたのだから仕方がない」ということで、今度は猫をできるだけ快適にA国から日本に移動させるべく、献身的に働き始めたというのである。
やや長いエピソードの紹介となったが、これは対話による協働の事例として興味深い。
驚くべきは、A国人の同僚の対話的態度である。本人にとっての最善の解決策(猫を安楽死させる)が不可能とわかれば、次善の解決策(猫を快適に移動させる)を目指して協働する。しかも、「人として許せない部分」について、友人とは最後までわかりあえないまま、粛々と協働作業を進めているのだ。
相手の「わかりあえない部分」は仕方のないものとして留保し、残った「わかりあえる部分で最低限の人間関係を維持できるかどうか。これが対話的態度の基盤となるのだ。
友人に対してそうとうに腹を立てていたらしいから、内心では「やつら」と思いながらも、最低限の人間関係を対話的に維持したのかもしれない。
同僚の対話的態度のかいあってか、友人と同僚との人間関係は、今でも海を越えて続いているという。
対話とは、理解不能な「やつら」が相手であっても、そこに共通の言葉を見出し、わかりあえる範囲内で理解と納得を成立させるコミユニケ-ションである。そうすることで、理解不能な「やつら」とも、限定的ではあるが「わたし」と「あなた」の関係が構築できるのだ。
特定の個人や社会集団を「やつら」としてとらえるかぎり、そこから創造的なものは何も生まれない。そこにあるのは無視、例笑、憤怒、あるいは排撃。対話は決して成立しないのである。最近、世界中で世相に不安が蔓延しているためか、特定の社会集団を「やつら」として排撃する事例が目立っている。ノルウェーのテロ事件や英国の暴動の背景には、「やつら」の問題があるのだ。
「絶対に許せない」と思うのは大いにけっこうである。肝心なのは、絶対に許せない相手でも、「やつら」として排撃せず、「あなた」として向き合えるかどうかなのだ。

夫婦間でも、友人間でも「人として許せない」という言葉を安易に使うべきではないと思う。あなたはこう思う、私はこう思う、どうしてこんなに考え方が違うのかというところから対話することが重要であると感じた。人は決して自分だけが「聖人君子」ではありえないのだから。