2011年9月5日月曜日

人として

またまた東洋経済「対話力入門」から、紹介したい。以下、概略である。

相手のちょっとした言動がきっかけで、急に不信感が芽生えることがある。わかりあえていたつもりが、いきなりわかりあえなくなったように感じるのだ。
以前に「相手のそばの食べ方が気に入らない」と言って婚約を解消した有名人がいた。もちろん真相は知らないが、決別のきっかけとしては理解できる話である。おそらく「そばの食べ方」に象徴される「何か」があったのだろう。
個人の倫理観にかかわる言動となると、不信感はさらに募る。たとえば、「わたし」は被災地に義援金を送ったのに、「あなた」は送る必要はないと言う。なんて冷たい人だろう。人として許せない
「人として」という差別的な言葉が出てくると、「わたし」と「あなた」の距離は絶望的に広がってしまう。ついに「あなた」は「あなた」ではなくなる。わかりあえない、いや、わかりあいたくもない「やつら」の一員になってしまうのだ。
ヨーロッパの小国、仮にA国としておこう。そこに長く住んでいた友人の話である。友人は日本に帰国するに当たり、現地で飼っていた猫も連れて帰ることにした。そのことを、軽い気持ちでA国人の同僚に話したところ、同僚は口を極めて友人を非難したという。
そう、過酷な苦しみを与えるくらいなら、早々に「楽にさせる」のが飼い主の義務だというのだ。
人として許せない! 友人は心底から憤った。友人はA国に10年以上も住んでいた。A国人の同僚とも、長年にわたって一緒に仕事をしており、気心の知れた仲のつもりだった。同僚は犬を飼っていて、ペット談義をきっかけとしたプライベートな付き合いもあった。それなのに、「殺せ」とは!やはり外国人とはわかりあえないのか・・・。
友人は同僚と絶交するつもりで、言い放った。「あなたが何と言おうと、猫を日本に連れて帰る」と。
ところが、この言葉に対する同僚の反応もまた、予想外のものであった。「飼い主が決めたのだから仕方がない」ということで、今度は猫をできるだけ快適にA国から日本に移動させるべく、献身的に働き始めたというのである。
やや長いエピソードの紹介となったが、これは対話による協働の事例として興味深い。
驚くべきは、A国人の同僚の対話的態度である。本人にとっての最善の解決策(猫を安楽死させる)が不可能とわかれば、次善の解決策(猫を快適に移動させる)を目指して協働する。しかも、「人として許せない部分」について、友人とは最後までわかりあえないまま、粛々と協働作業を進めているのだ。
相手の「わかりあえない部分」は仕方のないものとして留保し、残った「わかりあえる部分で最低限の人間関係を維持できるかどうか。これが対話的態度の基盤となるのだ。
友人に対してそうとうに腹を立てていたらしいから、内心では「やつら」と思いながらも、最低限の人間関係を対話的に維持したのかもしれない。
同僚の対話的態度のかいあってか、友人と同僚との人間関係は、今でも海を越えて続いているという。
対話とは、理解不能な「やつら」が相手であっても、そこに共通の言葉を見出し、わかりあえる範囲内で理解と納得を成立させるコミユニケ-ションである。そうすることで、理解不能な「やつら」とも、限定的ではあるが「わたし」と「あなた」の関係が構築できるのだ。
特定の個人や社会集団を「やつら」としてとらえるかぎり、そこから創造的なものは何も生まれない。そこにあるのは無視、例笑、憤怒、あるいは排撃。対話は決して成立しないのである。最近、世界中で世相に不安が蔓延しているためか、特定の社会集団を「やつら」として排撃する事例が目立っている。ノルウェーのテロ事件や英国の暴動の背景には、「やつら」の問題があるのだ。
「絶対に許せない」と思うのは大いにけっこうである。肝心なのは、絶対に許せない相手でも、「やつら」として排撃せず、「あなた」として向き合えるかどうかなのだ。

夫婦間でも、友人間でも「人として許せない」という言葉を安易に使うべきではないと思う。あなたはこう思う、私はこう思う、どうしてこんなに考え方が違うのかというところから対話することが重要であると感じた。人は決して自分だけが「聖人君子」ではありえないのだから。

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