2011年8月31日水曜日

放射能とケガレ

精神科医の斉藤環氏は「時代の風」というコラムで「放射能とケガレ」というタイトルで以下のことを言っている。以下概要を記す。

岩手県陸前高田市の高田松原と言えば、かつては「日本百景」にも選ばれた美しい海岸だ。私も子供時代に、何度か遊んだことがある。その見事な松並木が、東日本大震災の津波でなぎ倒された。この松を巡って繰り広げられた一連のドタバタは、いまだ記憶に新しい。岩手出身の私にとっては、あの美しい松たちがこうむった悲哀を、とても人ごとに思えなかった。
経緯をかいつまんで振り返ってみよう。
今年6月、大分市の美術家の発案で、高田松原の松で作った薪に犠牲者の名前などを書き、京都市の「五山送り火」で燃やすという計画が立てられた。しかし市民から被ばくを恐れる声が相次いだため、計画は中止となった。集められた薪から放射性物質は検出されなかったにもかかわらず、である。
ところが今度は京都市などに「風評被害を助長する」などの2000件以上もの抗議が殺到した。そこで、もう一度新たに薪を取り寄せたところ、今度は薪の表皮から放射性セシウムが検出されてしまった。
これで計画は再度中止となり、門川大作・京都市長は記者会見で謝罪した。陸前高田の戸羽太市長は、「もっと慎重にやっていただきたかった」と京都市に対して苦言を呈している。事件はさまざまな反響を呼んだ。もっとも多かったのは京都市の対応に対する批判だ。ただし、この一事をもって京都市民を排他的であるとか差別的であるとか断ずることは、同じ過ちを繰り返すことになる。
ただ、被災地の側に立つ者として、中止の判断を下した人々には一言言っておきたい。被災地の「こころ」にかかわるものには、善意を発揮した「責任」が生ずる。覚悟と根気なしに「こころ」にかかわるべきではない。後腐れのない善意を発揮したい人たち向けには、「義援金」という方法がある。すでに指摘されているように、この一連の経緯からは、いまや「放射能」が一種の「ケガレ」として受けとめられていることがよくわかる。放射能が測定されていないにもかかわらず、不安を訴える人々がいたこと。送り火をおこなう僧侶たち以上に、一般市民が過敏な反応を示したこと。これらの点にも、「ケガレ」の問題がみてとれる。日本神話起源の「ケガレ」感覚は、仏教以上に、われわれ日常生活に深く根を下ろしているからだ。
もっとも震災直後からその兆候はあった。フクシマ″差別である。タクシーの乗車拒否、ホテルでの宿泊拒否、福島からの転校生へのいじめ、等々の問題である。放射能が「ケガレ」と思われているもうひとつの根拠として、どうやら「キヨメ」が有効とみなされているらしい、ということもある。
放射能を「ケガレ」ととらえてはいけない。なぜか。差別を助長するから?それだけではない。物理量が測定できる放射性物質まで、実体なき空虚と扱ってしまいかねないからだ。不可視で不吉な放射能を「ケガレ」に読み替えたくなる気持ちはわかる。しかしその姿勢は、放射能までも、あたかも勝手に発生した自然現象であるかのような理解をうながしてしまう。本来「ケガレ」とはそうしたものなのだから。人間の罪や責任を、まるで自然現象のようにとらえる感性は、つらい経験を受け流すうえでは役にたつ。しかし「原発」は決して「ケガレ」ではない。その「罪」と「怒り」とは、キヨメではなく「補償」と「対策」によって癒されるほかはないのだ。
考えさせられる文章である。私自身、こんなに深く福島問題を考えたことはないが、彼が言っている「後腐れのない善意には義捐金という方法がある」と言っていることに同感である。義捐金以外の方法で、善意を示すには、どんな方法であろうとも行違い、すれ違いがあると覚悟しておいた方がいい。

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