2011年8月15日月曜日

人間と国家

 坂本義和氏の「人間と国家」(ある政治学徒の回想)上下(岩波新書)を購入した。なぜ読む気になったかと言えば、本の帯に「なぜ国家への不信感を抱き続けてきたのか?」と書いてあったからだ。坂本義和氏をよく知っていたわけではない。本というものは、こんなちょっとしたきっかけで読むことが多い。それで、いい本にめぐり会うことができれば儲けものだ。これは儲けものの本であった。中の前書きの一部を紹介しよう。

個人が人を殺せば、重い罪となります。しかし、国家の戦争で、できるだけ多数の敵を殺せば、愛国者として賞勲を受けられる。これが国家の歴史とともに、古くから当然のこととして繰り返されてきた事実なのです。
今日では、二〇世紀に行われた戦争、たとえば、第一次・第二次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、ソ連のアフガニスタン侵攻といった、国家と国家の間の戦争の時代は終わったとよく言われます。しかし、国家の名のもとに、ひとを殺すことが正当化されることは、過去のものとなったわけではありません。二〇〇一年の九・一一事件以降の対テロ戦争という「新しい戦争」において、当時のブッシュ大統領は、その演説で「やつらを捕まえるか、殺すかだ」と何度も述べています。
私は、この言葉を耳にして、強い衝撃を受けました。「ひとを殺すなかれ」は、モーゼの十戒以来、西洋の、そしておそらくは世界の多くの社会で、最も基本的な規範となってきたはずです。しかし、二一世紀のアメリカの大統領が、公然と「殺してしまえ」とテレビ演説で言っても、アメリカのメディアや国民の多くは、慄然とするそぶりさえ見せなかった。それどころか、「プッシュの戦争」に距離を置いたオバマ大統領が、丸腰のオサマビンラディンの殺害を公表した時、ホワイトハウスの前では、群集が熱狂的な歓声をあげたのでした。オバマ大統領は、ビンラディン「容疑者」を国際裁判にもかけずに殺したことを「正義が執行された」と誇ったのです。こうした公然たる殺人の誇示と支持、それが私にとって衝撃だったのです。
これは、戦争だけの問題ではありません。最近の日本では、なぜ殺人にまで至ったのか、「説明不能」の事件がふえています。この現実に関連して、「なぜ、ひとを殺してはならないのか」という問いが、メディアで論じられたことがありました。しかし、結局、説得力のある論証は、不十分に終わったように思われます。こうした後味の悪い結果になったのは何故でしょうか。
それは、問題の立て方自体に問題があるからだと、私は考えます。「なぜ、ひとを殺してはならないか」とい問いは、論理的な証明で答えられる、また答えるべき問題ではありません。それは、「人間は誰もが同じく生命をもった人間だという感覚」、「他者の生命に対する畏敬の感覚」という、論理や論証よりも根源的な感性にかかわることなのです。それは「人の死」が自然災害の結果である場合も同じです。いわんや、人間が「ひとを殺す」とき、人は、その行為で、自分自身のなかで、何か、かけがえのないものを殺しているのではないでしょうか。それは、戦場から帰った人が、心のどこかで知っているに違いないことだと思います。
戦争を互いに「正義」の名のもとに正当化するのをやめたヨーロッパ共同体の国々は、死刑を廃止しています。死刑を廃止している国は他にも多数ありますが、中でも注目すべき点は、二〇世紀に二度も「世界大戦」を惹き起こして世界を戦争に巻き込み、おびただしい人命を犠牲にしたヨーロッパの国家が死刑を否認しているということです。それは、国家が「正義」の名のもとに、戦争で人を殺すことと、国家が「正義」の名のもとに、人を死刑に処することとには、相通じるものがあるということなのです。
他方、日本は「先進国の中で、死刑賛成者が突出して多いのは何故でしょうか。日本国民は、それほど国家の「正義」を信じているのでしょうか。確かに国家の基本的な役割は、人間の社会の秩序やルールを維持することにあります。しかし、社会の秩序やルールは、国家だけによって維持されているのではありません。道徳、宗教、慣習、人情、共感など、広く人間の共生にかかわる社会の文化によってつくられ、守られています。言い換えれば、国家は人間の社会の一部であり、社会が国家の一部ではありません。
ところが、国家が社会全体に喰いこみ、国家が社会を併呑しょうとすることがあります。
私は、幼い時から、こうした「国家」になじめず、国家への不信感を消すことができずに今日に至っています。アジア太平洋戦争中、「祖国」とか「故国」とかいう言葉が日常的に使われ、欧米でも「ファーザーランド、マザーランド」といった情緒的な用例が少なくないのですが、私には、そうした「祖国」はありません。なぜそうなのか。それを自分なりに振り返ったのが本書です。
このなかの「なぜ人を殺していけないのか」の部分は以前紹介した宗教家の言葉と一致している。又、彼がどうして、こうした考えも持つに至ったのかを考えると、彼の生い立ち、子供の頃、上海で何年か過ごしていたことが関係していると感じた。
幅広い考えを持つために、一定期間外国で過ごすことはいいことである。

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