2011年8月5日金曜日

なぜ人を殺してはいけないのか?

 五木寛之氏の随想を読んで、急に彼の本を読みたくなった。若い頃は、「青春の門」等、かなりの本を読んだ。最近は、「百寺巡礼」という本がよく読まれている。その中で海外版「百寺巡礼」で朝鮮半島編(韓国)を読んだ。韓国と言えば、儒教の国と思いがちだが、意外に信者が多いのが、「キリスト教」最近は「仏教」が多くなってきている。以下は韓国で有名な僧、「法頂師」(ポプチョン)との話である。

法頂師にどうしても尋ねてみたいことがあった。それは、私がもう何年も前から考えつづけている、自殺にかかわる問題である。
日本ではここ数年、年間三万人を超える自殺者がでている。二〇〇六年は、いじめによる子供の自殺や学校長の自殺が報じられ、毎朝、新聞をひらくのも憂鬱になった。いじめは大きな問題だが、その解決策として「自殺」という手段を選んでしまうというところに、暗澹たる気持ちで胸がふさがれる。そして、いのちがこれほどまでに軽くなってしまったことを嘆かずにはいられない。
何度も言ってきていることだが、自分のいのちが軽くなるということは、他人のいのちも軽くなるということである。自分のいのちの尊さに実感がないということは、他人のいのちも同じような重さでしかないのだ。
だから、自殺と他殺は紙一重どころか、背中合わせの関係にあると私は考えている。最近、目を覆うような殺人事件が何件も立てつづけに起き、それらの事件で新聞の社会面が埋めつくされた。それは自殺の増加と無関係ではない。むしろイコールの関係だといわざるをえないのだ。そう考えたときに思い出すのが、数年前の出来事である。
ある小学生が無邪気に「どうして人を殺してはいけないの?」と先生に尋ねたという。聞かれた先生は立ち往生して、返答に窮し、大きな社会問題となった。そこで学校や教育委員会などから、そういう質問に対するガイドラインのようなものがほしいという声があったという。つまり、このように答えなさい、という統一的見解を出してほしいと要求したのである。
この話を聞いたとき私は、それは仏教者、あるいは宗教界の人こそが、いちばんに答えなければならない問題だろうと思った。
私の質問に対して法頂師は、よどみなくこう答えた。「生命の原理というのはひとつです。人を殺すということは、自分自身を殺すこと。つまり私たち人間は、根っこの部分ではひとつにつながっているのです。すべての生命の根はひとつです。生きているものはすべてひとつのいのちなのです」
法頂師によれば、生命というのは人間の生命だけを指しているのではない。自然もふくめた宇宙全体がひとつの生命なのだという。宇宙の大生命体と私たち自身がひとつであるという事実に目覚めることこそ、望ましい生きかたなのだというのである。
法頂師の言葉から、私のなかに華厳の教えのひとつ「一即多・多即一」が思い起こされた。すべてはつながっている、というあの教えである。
自分のいのちがこの宇宙全体とつながっていると体の底から感じることができたならば、自分のいのちを、そして他人のいのちを、簡単に奪うことなど到底できないだろう。そうした一体感をどう取り戻すかが、韓国でも、そして日本でも、問われているのである。

五木氏は、福岡で生まれ、すぐに両親と共に、朝鮮へ渡っている。(両親は教師)十年くらい住んで戦後、引き上げてきた経歴がある。その後日本でも住所を何回も変えながら、現在は横浜に住んでいる。彼のは一箇所に長く住まなかったが、このことが、客観的にものを見ること、大きな視点で考えることに、影響しているように思う。

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