2011年8月22日月曜日

カズオ・イシグロ

カズオ・イシグロの経歴を簡単に記すと以下である。彼の本を4冊ほど読んだ。最初は極めて読みにくい。英語を翻訳したものである。訳者の問題かとおもったが、これは作家の書き方の問題と、イギリス人の思考回路の問題であると感じた。しかし、我慢して読んでいると、だんだんとスピードがあがってきて、すらすらと読めるようになる。そして、イギリス人の思考回路もなんとなくわかるようになるのだ。

長崎県長崎市で生まれる。1960年、5歳の時に海洋学者の父親が北海で油田調査をすることになり、一家でサリー州ギルドフォードに移住、現地の小学校・グラマースクールに通う。
1978ケント大学英文学科、1980にはイースト・アングリア大学大学院創作学科を卒業する。当初はミュージシャンを目指すも、文学者に進路を転じた。
1982年、イギリスに帰化する。1986年にイギリス人ローナ・アン・マクドゥーガルと結婚する。
両親とも日本人で、本人も成人するまで日本国籍であったが、幼年期に渡英しており、日本語はほとんど話すことができないという。1990年のインタビューでは「もし偽名で作品を書いて、表紙に別人の写真を載せれば『日本の作家を思わせる』などという読者は誰もいないだろう」と述べている

代表作「日の名残り」の概略は以下である。
物語は1956の「現在」と1920年代から1930年代にかけての回想シーンを往復しつつ進められる。
第二次世界大戦が終わって数年が経った「現在」、執事スティーブンスは新しい主人ファラディ氏の勧めでイギリス西岸のクリーヴトンへと小旅行に出かける。前の主人ダーリントン卿の死後、親族の誰も彼の屋敷ダーリントンホールを受け継ごうとしなかったのをアメリカ人の富豪ファラディ氏が買い取ったのだが、ダーリントンホールでは深刻なスタッフ不足を抱えていた。ダーリントン卿亡き後、屋敷がファラディ氏に売り渡される際に熟練のスタッフたちが辞めていったためだった。人手不足に悩むスティーブンスのもとに、かつてダーリントンホールでともに働いていたベン夫人から手紙が届く。ベン夫人からの手紙には現在の悩みとともに、昔を懐かしむ言葉が書かれていた。ベン夫人に職場復帰してもらうことができれば、人手不足が解決すると考えたスティーブンスは、彼女に会うために、ファラディ氏の勧めに従い、旅に出ることを思い立つ。しかしながら彼にはもうひとつ解決せねばならぬ問題があった。彼のもうひとつの問題、それは彼女がベン夫人ではなく旧姓のケントンと呼ばれていた時代からのものだった。旅の道すがら、スティーブンスはダーリントン卿がまだ健在で、ミス・ケントンとともに屋敷を切り盛りしていた時代を思い出していた。
今は過去となってしまった時代、スティーブンスが心から敬愛する主人・ダーリントン卿は、ヨーロッパが再び第一次世界大戦のような惨禍を見ることがないように、戦後ヴェルサイユ条約の過酷な条件で経済的に混乱したドイツを救おうと、ドイツ政府とフランス政府・イギリス政府を宥和させるべく奔走していた。やがて、ダーリントンホールでは秘密裡に国際的な会合が繰り返されるようになるが、次第にダーリントン卿はナチス・ドイツによる対イギリス工作に巻き込まれていく。
再び1956年。ベン夫人と再会を済ませたスティーブンスは、不遇のうちに世を去ったかつての主人や失われつつある伝統に思いを馳せ、涙を流すが、やがて前向きに現在の主人に仕えるべく決意を新たにする。屋敷へ戻ったら手始めに、アメリカ人であるファラディ氏を笑わせるようなジョークを練習しよう、と。
「人生が思い通りに行かないからと言って、後ろばかり向き、自分を責めてみても,それは詮無いことです。私どものような卑小な人間にとりまして、最終的には運命をご主人様の手に委ねる以外、あまり選択の余地があるとは思われません。それが冷厳なる現実というものではありませんか。」
 最後の執事の言葉は味わいのあることばである。
 どんな難解な本でも、最後まで読み通すと、何かが得られる。ある国を理解しようとする一つの手段として、その国の好きな作家の本をすべて読んでみることは意外と効果的である。

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