2011年9月26日月曜日

小さな親切大きなお世話

東洋経済の北川達夫氏の「対話力入門」を何度も紹介している。何故かと言えば、今の政治の問題を解決する上で、各政党間の討論会があるが、聞いていると、自分の言いたいことだけを言いっぱなしという事が非常に多い。大人の討論ではないのだ。以下の北川氏の文章の一部を紹介したい。

「小さな親切、大きなお世話」という、何とも身もふたもない言葉がある。ちょっとした善意が社会の潤滑油になる。それは否定しない。だが、自分では親切のつもりでも、相手にとっては迷惑の場合もあるのではないか。それも否定できまい。
もう一つ。道徳の黄金律とは「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」。これは『マタイ伝』の言葉である。これが東洋の『論語』においては、「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」となる。要するに、自分を規準にして、他者に何をすべきか、あるいは何をすべきではないかを考えるということだ。
これに対して、皮肉屋の劇作家バーナード・ショウは戯曲『人と超人』において「何事も人々からしてほしいと望むことは、人々にはそのとおりにしてはならない。好みは同じではないだろうから」と揶揄した。確かに、そのとおりではある。
そんなことを言っていたら、何もできないではないか!そう、バーナード・ショウのような考え方を突き詰めていくと、相手に対して何もできなくなってしまう。何も言えなくなってしまう。
「お節介」という言葉がある。一般に、度が過ぎた親切のことを、お節介という。では、親切とお節介の境界はどこにあるのか?その線引きは意外に難しい。
古典的な対話論では、困っている人、苦しんでいる人、悩んでいる人を目にしたときこそ、対話的に考えて行動すべきだと教えている。他者の苦しみを見たことに苦しめ。
自分なりの善意や正義感で、それが相手に迷惑と受け止められようとも、行動することが必要だということである。当然、行動すれば衝突する可能性もある。だが、衝突するからこそ、対話の必要性も生じるのだ。
対話とは、個々の「違い」を隔離して、平穏無事に共存する方法ではない。「違い」を衝突させ、混沌とした状況に苦しみながら、共存の道を模索する方法なのである。
傷つきたくないから、何も言わない人や、自分の意見ばかり言って、人の意見を聞かない人が多くなった。
いつの間に日本という国はこんなに幼稚化してしまったのだろうか。メディアの責任は大きいと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿