2011年9月13日火曜日

安全性の哲学

 大学時代の恩師にあたる「河合聰」先生(岐阜薬科大学)から、「放射線とはなにか」という本が送られてきた。大学を卒業して36年も経つのに、まだ気を使っていただいていることは本当にありがたいことである。放射線と正しく向き合うために緊急に出された本である。
 その中で、少し長いが印象に残る文章を以下に記す。

 安全性の哲学
宇宙や大地から来る自然放射線、私たちの身体の中にある放射性同位元素から日常的に浴びている少ない量の放射線からは逃れようはありません。また、それを怖がる人もいません。飛行機で旅行すれば地上の数倍の宇宙放射線にさらされることになりますが、そのために旅行を取りやめることはしません。
一方、多量(高線量)の放射線は身体に害を及ぼすことは事実です。その被害の大きさや性質は放射線の種類と量、受ける身体の部位、放射線の受け方、全身か部分か、一度に大量に受けるか長期間に少しずつ受けるか、によって異なります。高線量とはいえない程度の被ばくではどうなのか。

問題はこの点です。
実は、少ない線量(低線量)の放射線が身体にどういう影響を及ぼすのか、及ぼす場合はどういう影響を及ぼすのかは科学的に十分解明されているとはいえないのです。低線量放射線の生物への影響は今でも重要な研究課題なのです。現時点では誰にもわからないというしかありません。先に触れましたように、放射線に「しきい値」というものがあるのか、なお結論は出ていません。

こういう状況の中で私たちはどう対応すればいいのでしょうか。これが「安全性の哲学」です。
武谷三男(1911-2000、物理学者)は、著書『安全性の考え方』の中で「安全に絶対はない。危険を避けることが最高の安全対策だ」と述べています。この原則はきわめて明快であり重要だと思います。武谷は、専門家の意見が大事にされることが日本の安全問題の最大の欠点だと指摘しています。そして、「安全性の判断に利潤や損得が介入してはならない。」と述べ、「施設の安全性について設計者は問題があると考えるはずはない。問題があると思えば直すからだ。しかし、専門技術者の判定に意味がないのは、車検を通った車は故障が起こるはずがないというのと同じくらいナンセンスだ」と断言しています。
また、原発については次のように警告しています。「利潤や採算ほど勝手なものはない。国民の楽しい健全な生活を犠牲に供し、尻拭いは国民の税金で行うのだから。こうして危険を警告する者を一笑に付したり悪者扱いにして、あとは知らぬ顔である。」 
何という鋭い指摘でしょう。先般の福島第一原発事故にそのまま当てはまるではありませんか。
専門家とは何者か。自然科学の分野において、研究成果に関する知識と専門家は決してイコールではありません。研究成果は事実ですが、専門家がその事実をどう判断するかという過程において、専門家といえども人間ですから主観が入り込むのを避けることはできません。さらに、専門分野についても何もかも理解できているわけではありません。専門家たちの意見は大いに参考にすべきでしょうが彼らに判断を委ねてはなりません。大切なことはみんなで議論することだと思います。そして物事を最終的に決めるのは、たとえその結論が結果的に妥当性を欠く場合があるとしても、市民であって専門家ではありません。この意味はきわめて重いとみるべきです。市民が自ら考える生き方を社会全体で育てていくことが重要ではないでしょうか。

さらに続けて警告します。「もちろん、何事にも事故は起きます。しかし、あくまで事故をゼロにする努力をしてこそ事故は防げるのです。事故が避けられる選択を探すことです。」
東日本大震災においても、「放射能は何重にも閉じ込められている」という専門家による原発の「安全神話」はあっけなく崩れました。専門家の判断を参考にして行政が指定した避難場所の多くが津波の被害に見舞われました。福島第一原発の事故も「想定外」だったというのです。「誰もこんな大地震が起こるなんて思ってもみなかった」と。
しかし歴史を紐解くと、東北地方では幾度も大きな地震に見舞われています。
先般の地震は、決して「想定外」ではなかったのです。それなのに「地震が起きれば大災害にもつながりかねない」という原発の危険性を督告する声に耳を貸そうとせず、原発政策をひたすら推進してきた電力会社、専門家、政府に対して、責任を追求する声が湧き上がるのは当然です。「想定外」とはどういう意味でしょうか。現代の科学的知識では誰にも予測できなかったという現象は当然起こり得ることです。今回の原発事故の原因は地震であり津波でしたが、隕石の落下とまでいわなくても、飛行機やヘリコプターが墜落することだってあり得るでしょう。戦争や内紛は今でも起きていますし、テロの標的にされることだってあり得るでしょう。そもそも「原発は事故が起これば大災害につながる」ということ自体が「想定内」というべきです。
野依(ノーベル賞受賞)は最近の発言の中で福島第一原発事故について「科学者の『想定外』は言い逃れ」だと厳しく言及しています。「確率は低くても、起こり得ることは起こる。危機管理が甘かったと反省し、率直に非を認めなければなりません。」
科学技術者の倫理が問われているように思われてなりません。被ばく線量についても武谷は「許容量というのは、その量までは危険がない量、という考え方は間違っている。その量まででも、実は危険があるかもしれない。しかし、そのものを使うことによって、社会的な利益があるならば、マイナスとプラスとを天秤にかけて、ある量までのマイナスは我慢してもいいのではないかという量が許容量である。許容量とは社会的概念である。」と述べています。

実に教訓的な文章だ。許容量の考え方もまさにこの通りである。

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