2011年9月8日木曜日

世界記憶遺産

 「世界記憶遺産」に今年5月に登録された山本作兵衛の画文集「炭鉱に生きる」という本を購入した。絵も文章も丁寧に書かれていてびっくりした。「世界記憶遺産」という言葉も山本作兵衛さんの画文集が登録されたニュースで初めて知った次第である。
 購入した理由は、私の父の父、祖父が長崎の炭鉱で、いわゆる「親分」をしていたと父から聞いていたからだ。その祖父は、父が12歳の時に「やくざに刺されて死んだ」ので、12歳の父は2人の弟、妹、母親を養うべく奉公に出されたのであった。その後いろんな仕事をしながら、7年間戦争に行き、岐阜の地にたどり着いて、私の母と結婚し子供4人を設けた。
その上から3番目(次男)が私である。
 そんな事から、炭鉱と聞くと他人事と思われないのだ。
以下の作者の紹介と作者の本のあとがきである。

山本作兵衛(やまもときくべえ)
明治25(1892)年福岡県嘉穂郡生まれ。七歳のころから坑内に入り、以来50余年、働くヤマが閉じられるまでひとすじに筑豊のヤマに生き抜いてきた。これだけでもすでに偉大な記録だが、真価はむしろそれ以後、昭和33年に「ヤマの姿を記録して孫たちに残しておこう」と絵筆をにぎり、明治・大正・昭和3代のヤマの姿を丹念にうつしはじめてから発揮される。とうに60はすぎていたが、その記憶力は抜群で、独学ながら精練丹念な仕事ぶりは1日も休むことなくつづけられ、9年間で数百枚の絵と六冊の大学ノートびっしりと食重な記録がのこされた。昭和59年(1984)、老衰により、惜しまれつつ逝去。しかし、その偉業は世界から賞賛され、平成23(2011)年5月には589点の絵画や108点の日記・ノートなどがユネスコの認定する「世界記憶遺産」に日本国内から初めて登録された。


いまさらめいてはきますが、エネルギー革命によって、筑豊だけでなく全国のヤマがつぎからつぎに姿を消しており、跡に残るのはボタ山と鉱害と失業者だけという、みじめな世相となりました。
それでも消えていくヤマについては、たくさんの報告が書かれ、多くの写真がうつしとられました。しかし明治・大正・昭和の初期までのヤマの姿を伝えるものはほんとうに少なく、いまから百年の後だれが知っていて、あとに伝えるでしょう。そこで私は昔のヤマの姿を記録して孫たちに残しておこうと思い立ちました。というのも村の目明かしをしていたという祖父のことを思い出しても、当時の生活や世相について何も書き残していないので知る術もないからです。私の孫が成長した頃、昔のヤマを知るために手がかりとなるものがなければ、祖父である私のことについて疑問が起こっても知らせようがないと考えたからです。はじめ私は文章で綴ろうと思ったが、無学の私にはどうも思うようにいかないので少年時代から好きだった絵で措いてみることにしました。といっても、少年の頃には弟を二人も背負って家事の手伝いをしていたので、机に向かう暇はないし、十四歳のとき坑内夫になってから約七年間、毎日昇坑後全くの我流で措いたことがあるだけです。じつに五十数年ぶり六十代も半ばちかくになって絵筆をとってみました。
その頃まだ私は炭鉱事務所の夜警をしていましたので、毎晩勤めの暇に描きためていったものです。描き上げたらひそかに孫にやろうと思っていたのに、炭鉱の所長である長尾達生氏の目にとまり、福岡市の木曾重義氏に紹介され、そこで思いもかけず本にしていただきました。昭和三十八年、絵を描き出して五年目のことです。それから程なく交通事故に遭い、記憶も失ってそのままあの世に昇天するかと思われたこともありました。手術の結果幸い記憶もよみがえったところで、地元の田川郷土研究会や田川市立図書館から、炭鉱の資料として残したいのでもう一度描いてもらいたいという申し出があったので、はじめの決心からすると傍道にそれてしまいましたが、孫だけでなくみんなに見てもらえるならと思って承知し、今日までずっと描いて、でき上がったものは当市立図書館へ寄贈しています。前の本は非売品でしたが、今度は日本全国へ頒布されるそうで、そのことがいちばんうれしくおもいます。

山本さんの性格がよく出ている文章ですね。私も、父が生きているうちに、父がどのようにして生きてきたか聞いておけばよかったなと反省している。

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