2012年1月10日火曜日

忘れてはならない

 毎年、お正月に実家に帰った時は、岐阜の伊奈波神社にお参りをする。ほとんど、何もお願いはしないのだが、今年は何故か、家族の幸せを心の中で、呟いた。
 この変化はやはり、昨年の東日本大震災からきているのであろう。決して忘れてはいけない。以前にも紹介した、吉村昭氏の記事が日経に載っていたので、概略を紹介しよう。
 
 東日本大震災後に吉村さんの『三陸海岸大津波』(1970)や『関東大震災』(73)が脚光を浴びたのも徹底した取材や検証で、証言や記録を発掘し、史実に迫った吉村文学への信頼からだった。三陸海岸を初めて訪れたのは60年代半ば。芥川賞候補に4回なったが、いずれも落選していた。田野畑村(岩手県下閉伊郡)出身の友人に「小説の舞台にふさわしい土地がある」と聞いたからだ。たどり着いた村は、典型的なリアス式海岸。切り立った絶壁の恐ろしさに背筋が凍りついた。この地を舞台に少年少女の集団自殺を描いた『星への旅』で太宰治賞を受賞し、文壇への足がかりをつかんだ。
 その後毎年のように訪れるうち、村が明治29(1896)と昭和8(1933)に大津波に襲われたことを知り、三陸海岸を回って書いたのが『三陸海岸大津波』だった。大津波で壊滅したことで、村には巨大な防潮提があった。しかし、吉村さんはこの防潮堤に敬意を払いながらも、古老の証言から明治29年の大津波では海水が50㍍もはい上がったことを聞き出し、「大津波が押し寄せれば、海水は高さ10㍍ほどの防潮堤を越すことは間違いない」と警告した。
 1999年には村で講演し「津波というものは、地球上にある限り、必ずやってくるものです」と強調していた。吉村さんの警告通り、昨年の大震災では津波は防潮堤を乗り越え、村に死者行方不明者40人の甚大な被害をもたらした。
 東京の下町、日暮里生まれで少年時代から歌舞伎、芝居、映画、落語、講談、相撲に親しんできた。実家は製綿工場を経営し、汗を流す職人の背中を見て育った。自身も職人肌で「書斎で机に向かっている時が1番休まる。取材で月に23回は旅に出ますが、すぐに帰りたくなる。2泊が限度でそれ以上いられない」と話していた。
 同じ昭和2年生まれの城山三郎や藤沢周平と親しかった。物心ついてから戦争一色だった。ろくまく肋膜炎や肺結核という大病を患い、姉、母、父は病死し、兄は戦死し、隅田川に浮かぶ大量の死体を見てきた。死を意識しながら青春を過ごした。戦争、避災、津波、脱獄、漂流、逃亡、テロなどの事件を題材に、過酷な運命に翻弄される人間のドラマを描いてきた背景にはこうした半生が投影されていた。妻で小説家の津村節子さんによると、がんと闘って入退院を繰り返した吉村さんは自宅で療養中に首の静脈に埋め込まれたカテーテルポートの針をむしり取って亡くなったという。吉村さんらしい毅然とした最期だった。

 私は、職人は好きだが、謙虚な職人が好きである。よく威張った職人を見かけるが、いただけない。

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