2012年11月28日水曜日

ヒマラヤの風にのって


「ヒマラヤの風にのって」(吉村達也)著を読んだ。進行がん、余命3週間の作家が伝えたかったこと、というタイトルである。達也という名前の人は、辰年の人が割りと多い。果たして、吉村氏も私と同じ1952年生まれの辰年であった。
3週間、書きながらなくなった作家である。2012514日没。
その中で、すごいところを紹介する。

禁止三箇条“泣くこと、悔やむこと、思い出話をすること”
泣くこと、悔やむこと、思い出話をすることは、時間の無駄である。これはぼく自身が自分に言い聞かせているだけでなく、家族に対しても言っていることだ。 
自分自身がもしガンを体験しないまま、ガンのドラマを書いていたら、この三つは必ず出てくると思う。
「ああ、こんなことなら、もっと早く病院へ行けばよかった」
「健康診断受けていればよかった」
「ほんとうに、みんなとお別れだね」と泣く。
「家族でいろんなとこ行ったね」と思い出にひたりはじめる。
ぼくと家族は、こういうことは一切していない。ぼくはオシッコをするために温泉を思い出しているけど、これは勝手にひとりで、イメージの旅をするために思い出しているだけのことだ。
余命何カ月と言われたら、 11日が大切であるにもかかわらず、多くの人はこういうことをしている。なぜだろうかー。
おそらく、人生は有限である、限りがある、ということをふだんから意識していないからだろう。あたかも、人生は無限であるかのごとく生きている。だから、いきなり人生が有限であることを知らされて、パニックになるのだ。
たとえば、ほくが交通事故で死んだとしたら、どうだろう。あっと思った瞬間に死んでいるわけだから、こんな時間は持てないわけだ。
そういうのに比べれば、何日というのはわからないが、少なくとも近いうちに死ぬということを知らされたことは、非常に貴重な体験である。ありがたいことだと思う。人よりもいい人生を生きているという感じがする。
それなのに、泣いたり、悔やんだり、思い出にひたったりするのは、その時点で生きることをやめているに等しい。ほんとうに生きるのだったら、そんなことはしない。こういうことをしなければいけない、という固定観念にとらわれすぎているように思う。残された貴重な時間である。それをどう使うか、元気なときに考えてもいいことのひとつだ。
「ガン」という言葉をタブーにしない自分の痛みを説明するにも、ぼくは必ず「ガンの痛み」と言っている。なぜなら、ガンの痛みでない痛みもあるからだ。何度も言うが、ぼくには三種類の痛みがある。床ずれ系の痛みへ手術の痛み、そしてガンの痛み。
だから、この三つを明確にして、いま自分は何が痛いのか、ということを医者に伝える必要がある。ただ痛いと言うのではなく、それが何の痛みからきているのかを伝えなければ意味がない。背中が痛いんです、腰が痛いんです、と言うだけでは、大人の患者とは言えないだろう。
たとえば、ぼくの腰の痛みに二種類ある。ひとつは、動いてないから痛いというのがある。もうひとつの痛みをどういうふうに認識しているか、ということを考えると、ガン性疼痛というのを認めざるをえない。
タブーを作らないことで、家族の関係はよく緊密になった。何でも話せているし、娘の成長ぶりには驚きさえ覚えたし、感動したほどだ。

私は、吉村氏のようなことはできそうにない。できることは、人生が有限であることを意識していくことである。

2012年11月22日木曜日

力は知?


佐藤優氏の「読書の技法」を読んでいる。その“はじめに”のなかに日本の現状を書いている部分がある。的を得ているので紹介する。

日本は現在、危機に直面している特に2011311日の東日本大震災以後、危機が可視化された。
震災から1年以上経ったのに、被災地からの瓦礫の撤去ができていない。東京電力福島第一原発事故の処理も遅々としており、国民が安心を回復するような状況からはかけ離れている。また、政治家は、当事者にとっては深刻なのであろうが、日本国民にも日本国家にも関係のない政争に明け暮れている。国民の政治不信がかつてなく高まっている。同時に「強い腕」による決断で、われわれが直面している問題を一挙に解決してほしいという願望も無意識のレベルで強まっている。それが橋下徹大阪市長に対する国民の過剰な期待となって現れているのであろう。
国際社会に目を転じると、グローバリゼーションとともに帝国主義的傾向が強まっている。
グローバリゼーションは、ビジネスパーソンの日常にも及んでいる。終身雇用制度は過去の話になった。職場における評価も、目に見える具体的数字が重視されるようになった。また、どの企業でもリンガフランカ(国際語)である英語の必要性が強調され、これまで外国語と緑がなかったビジネスパーソンの不安をかきたてている。
ニュースでは、中国の急速な台頭と自己主張の強化が伝えられる。帝国主義国は、相手国の立場を考えずに、自国の権益を最大限に主張する。相手国が怯み、国際社会が沈黙していると、帝国主義国はそれに付け込んで、自国の権益を拡大する。中国やロシアだけでなく、米国も、帝国主義的な外交を展開している。「食うか、食われるか」の弱肉強食の国際社会で、今後、日本が生き残っていくことに誰もが不安を抱き始めている。
最近の教養ブームの背景には、「知力を強化しなくては生き残っていけないのではないか」という日本人の集合的無意識が反映していると筆者は見ている。確かに「知は力」であり「力は知」である。知力をつけるために、不可欠なのが読書だ。筆者の読書術について、全力を投球して書いたのが本書である。読書の技法というタイトルになっているが、物の見方・考え方、表現の仕方まで視野に入れているので、知の技法についての入門書と考えていただきたい。

「知は力」はわかるが、その反対の「力は知」かな?

2012年11月20日火曜日

私達を侮辱するな


東京新聞は毎週日曜日に「週のはじめに考える」と言う社説を載せている。今回は「私達を侮辱するな」というタイトルである。以下、前文を紹介する。
 私たちを侮辱するな

 見出しの「侮辱」とは極めて強い言葉です。ひどい扱いを受けた者の発する言葉です。政治にせよ、原発にせよ、私たち国民は、侮辱されてはいないか。
 手元に一通の手紙があります。学校で国語を担当されていた元先生からです。この夏、東京であった脱原発の市民集会に出かけた時のことが記されていました。
 こんな内容です。
 何人もの演説の中、一番心に響いたのは作家の大江健三郎さんが述べた「私たちは侮辱の中に生きている」という言葉でした。
大江さんのスピーチ
 その言葉は、大江さんも紹介していたそうですが、福井生まれの昭和の作家、中野重治の短編小説にある文句です。中野はプロレタリア文学で知られ、大戦前の思想統制では自身も激しい国家弾圧に遭っています。
 その短編小説は、昭和三(一九二八)年、全日本無産者芸術連盟(略称ナップ)の機関誌に掲載された「春さきの風」。検挙された同志家族をモデルにしています。
 思想をとがめられた検束で父とともに母と赤ん坊も警察署に連行される。その赤ちゃんの具合が悪くなる。ろくな手当ても受けられずに亡くなってしまう。母親はもちろん医師を頼みましたが、無視された。理由のない平手打ちを受けるばかり。
 小説はそれらの動きを、きびきびとした文体で描き、最後は母親が留置場の夫に手紙を書く場面で締めくくられます。
 母親は砂を巻く春風の音の中、死んだ赤ん坊はケシ粒のように小さいと思う。そしてこう書く。
 「わたしらは侮辱のなかに生きています。」(「中野重治全集第一巻」筑摩書房より)
 中野重治が実体験として記した侮辱という言葉、また大江さんが原発に反対する集会で引いた侮辱という言葉、その意味は、もうお分かりでしょう。
デモクラシーの軽視
 権力が民衆を、国家が国民を、ほとんど人間扱いしていないのではないかという表現にちがいありません。
 つまり倫理違反なのです。
 先日、東京電力は、原発事故時のテレビ会議記録を新たに公開した。二回目の公開です。
 その中に自家用車のバッテリーを集めるというやりとりがありました。原子炉の圧力が上昇し、蒸気逃がし弁を動かすためバッテリーをつないで電源を確保しようというのです。しかも足りなくて買うお金にも困る。
 備えも何もなかったわけですから、社員らの苦労も分かります。しかし、これを知った福島の被災者らはどう思ったでしょう。
 東電も国も、その程度の取り組みと真剣さしかなかったのか。住民の守り方とはそのぐらいのものだったのか。言い換えれば、それは侮辱に等しいでしょう。
 侮辱は継続しています。しかもデモクラシー、民主主義の軽視という形で。
 原発で言えば、大飯の再稼働はろくな検証もなく、電気が足りなくなりそうだという理由だけで決まりました。国民の安全がかかわる問題なのに、これほど非民主的な決定は前例がないでしょう。
 沖縄へのオスプレイ配備も、米兵事件に対するその場しのぎの対応も侮辱にほかなりません。国家が人間を軽視しているのです。
 原発から離れれば、一票の格差を放置してきた国会とは、デモクラシーの不在も同然です。立法府だけではなく、最高裁が「違憲状態」と判示しつつ、違憲であると踏み込めなかったことは、憲法の番人としての責務を果たしえたか。疑問は残ります。
 今の政治には、ほとほとあきれたと多くの人が口にします。それはおそらくはデモクラシーの軽視に起因していることで、国民は自分の権利の蹂躙(じゅうりん)を痛々しく感じているのです。政治に侮辱されていると言ってもいいでしょう。
 その状況を変えるには、何より変えようという意思を各人がもつことです。デモや集会はその表れの一つであり、選挙こそはその重要な手段です。
戦うべき相手はだれ
 冒頭の国語の先生の手紙は今、自分の抱える恐ろしさをこんなふうに表していました。
 (中野重治の)戦前と違って現代は戦うべき相手の姿が明確に浮かび上がらない分、かえって恐ろしさを感じます
 戦うべき相手は広範で、しかも悪賢く、しっぽすらつかませないかもしれません。政財官などにまたがる、もやもやとした霧のようなものかもしれない。
 しかし、こう思ってその相手を見つけようではありませんか。一体だれが私を侮辱しているのか、と。私たち自身の中にそれは忍び込んでいないか、と。投票の前に見つけようではありませんか。
 侮辱する相手には、今回の選挙で鉄槌を食らわそうではないか。

2012年11月14日水曜日

悪への怒り


 何度も書くが、「本当のこと」を言えない日本の新聞の「おわりに」の部分を紹介して、この本の紹介を今回で最後にしたい。
本書のなかで、私は日本の新聞について厳しい指摘をいくつもした。
誤解してほしくないのだが、日本のメディア批判をしたかったわけでも、日本よりアメリカのメディアが優れていると言いたかったわけでもない。健全なジャーナリズムを機能させるにはどうしたらいいのか。日本でその議論を起こすために、記者クラブメディアが抱える問題点を具体的に提示したつもりだ。
記者クラブメディアの本当の被害者は、私たち海外メディアの記者ではない。日本の雑誌・ネットメディア、フリーランスの記者たちは自由な取材を阻害されている。大手メディァの若い記者は、ジャーナリズムへの志があってもやりたい取材ができない。だが、一番の被害者は、日本の民主主義そのものだ。「権力の監視」という本来の役割を果たしていない記者クラブメディアは、権力への正しい批判ができていない。
福島第一原発事故の教訓が活かされぬまま、再稼働が決定された福井県の大飯原発がいい例だ。抜本的な対策が取られていないのに、「電力の安定供給」という錦の御旗のもと、野田総理は再稼働を推し進めた。もし再び大地震や津波に襲われたとき、福島と同じような事故が起きないと言えるのか。なぜ日本の大手メディアはもっと怒りの声を上げないのだろう。報道を見ていると、批判はしていてもどこか他人事だ。メディアが権力を批判し、社会に議論を起こさなければ、健全な民主主義は絶対に生まれない。
日本は、私にとってもはや「他人の国」ではない。長く住み続けるなかで、日本への強い愛着が生まれた。私は日本人が好きだし、日本人の友だちも数えきれないほどいる。第二の故郷・日本で、私はこれからも「a sense of moral outrage」(悪への怒り)を忘れずに仕事をしていきたい。1人の良きジャーナリストであり続けたい。そして近い将来、「a sense of moral outrage」を胸に記者クラブを飛び出した日本人記者たちとしのぎを削りながら、この社会を少しでも良くする記事を書いていきたいと願っている。
私達に出来ることは、いい記事を読んだら、感想なりを、色んなメディアで紹介することだと考える。たとえば、「ツイッター」「ブログ」「フェエイスブック」等で発信することではなかろうか。その事が、記者や、ジャーナリストを励まし、又いい記事を書いてくれることに繋がる。

2012年11月12日月曜日

筆記体


以前にも紹介したが、「脳を創る読書」の中で著者は(電子化の波にただ流されないために)として以下のように言っている。
明らかな退行現象をこのまま進めてよいか
子どもの頃から携帯電話やコンピュータで活字を打てるようにするのもいいが、それは書字を覚える前にすべきことではない。初等教育において、文字を書くことはすべてに優先する基本なのだ。特に仮名や漢字の書字はタイピングと全く異なる運動機能であり、タイピングができても字が書けるようにはならないのである。筆順も大切であり、他人が読めないような文字しか書けず、書くスピードも遅ければ、ちょっとしたメモもとれないだろう。文字を書くことを面倒くさがるようでは、書字の先に積み上げられていくであろう知的作業のすべてが雑になってしまう恐れがある。
携帯メールでおなじみの「入力予測変換」では、最初の数文字を入力しただけで言葉の候補がどんどん出てくる。履歴や確率的な判断で出てくる言葉の候補から文脈や全体の意味を考えずに受動的に選んでいけば、一応文章らしきものは打てるだろう。しかし、それはもはや人間の言語とは言えないものなのである。日本語入力には必須の「かな漢字変換」もまた、思考とは直接関係ないプロセスだから、思考の中断を生み、集中力を減退させるという負の効果もある。文字を書くほうがはるかに自然な表現方法なのだ。
文字を書くとか、筆跡を大事にするとか、絵を描くといった一つ一つの基礎的で創造的な作業は、他の安易な方法に置き換えることはできないのだ。子どものうちにやらなければ、取り返しのつかないことになるだろう。今の中学校では、アルファベット(ローマ字)の筆記体を教えなくなってしまった。これはあまり目立たないかもしれないが、明らかな退行現象なのだ。日本語の筆記では、速く書くと自然と楷書体から行書体や草書体へと移行して続け書きとなる。これはアルファベットでも全く同じであり、筆記体で書くことは自然な筆記能力なのである。それに、チョークを黒板に打ち付けながらブロック体で書く音は耳障りでもある。小学校で英語をやるなら、筆記体を教えるところから始めてほしいものである。
私の中学時代の英語の時間は、筆記体を書く練習をしたものだ。筆記体をうまく書くために、万年筆は「パーカー」を購入した。筆記体を書くにはペン先が引っかからない万年筆が書きやすい。パーカーは英語には向いていたが、日本語には向いていなかった。日本語には「セーラー万年筆」を使った。日本にはもう1社「パイロット」がある。

2012年11月9日金曜日

男と女


毎日新聞で月1回の連載をしている、僧侶の川村妙慶(かわむらみょうけい)氏(女性)の随筆「泥の中で咲(わら)う」は肩の凝らない面白い。以下、紹介。
法話の時には、必ずホワイトボードにお経の言葉を書くことにしています。文字が持つ温かみを、視覚から伝えるのが狙いです。
漢字には「男と女」にかかわるものもありますね。数は半々でよさそうですが、実際はそうなっていません。圧倒的に多いのは「女」が部首についた字。男という字を使う漢字で思い浮かぶのが、「勇」や「虜」くらいなのに対し、女偏で辞書を引くと、「嫁」「姑」「好」「妄」など平均300字ほどもありました。
仏教用語でも「妙」「一如」「嫉妬」「機嫌」「娑婆」などがあります。「嫉妬」は2字とも女偏ですから失礼な話ですね(笑い)
これらの漢字を考えたのは、長く社会の中心となってきた男性です。ということは、男性から見た女性像が漢字として表現されたのでしょう。例えば「好」という字。相手への親しみを表すために「女の子」と書く。これはまさに男性の目線です。
そして「婚」。結婚は女性だけの問題ではありません。そもそも「婚」という字は女の昏(たそがれ)と書きます。昔の結婚式はたそがれ時、つまり夕暮れに行われていたそうです。沈む夕日の中にたたずむ、花嫁の美しい姿に感激した男性の気持ちが「婚」という字になったのですね。
「女」の部首を使う漢字には、女性を見たときに男性に起こる感情や、社会における女性の役割を示すような意味合いが多いことがわかります。
さて、国際通貨基金(IMF)専務理事のラガルドさん(女性)が先日、日本で開かれたセミナーで「女性が日本を救う」と話し、女性が労働に参加する重要性を訴えました。
これは、女性が男性の中に割りこんで対抗するのではなく、男女ともにこの社会を支えていけたらということではないでしょうか。
どちらか一方が頑張るものでも、張り合うことでもありません。「お互いの存在を尊敬しあえる関係」が世の中を良くしていけるのではないでしょうか。
私の法名は妙慶。妙は「女が少ない」と書きますが、右から読めば「少女」。いつも新鮮な気持ちで生きていきたいものです。
男と女の、社会の中での関係が、漢字の部首にまで反映しているとは面白い。

2012年11月5日月曜日

アクセス・ジャーナリズム



「本当のことを伝えない日本の新聞」の中で、9・11へのことが書いてある部分を紹介する。
9・11で大きな過ちを犯したニューヨーク・タイムズ
本書を通じて、私は日本のメディアについて一貫して厳しい意見を述べてきた。そんな私も、アメリカのジャーナリズムがすべて正しいと強弁するつもりはまったくない。アメリカのジャーナリズムが重大な過ちを犯したのは、つい最近のことだ。
2001911日、あの恐るべき同時多発テロがアメリカを襲った。ニューヨークでは世界貿易センタービルのツインタワーが根こそぎ破壊され、ペンタゴン(アメリカ国防総省)までテロ攻撃に遭ってしまった。この国家存亡の危機を乗り越えるため、911後のアメリカのジャーナリズムはブッシュ政権をあからさまに批判しなくなった。
911同時多発テロを受けて、アメリカは2003320日にイラク戦争を開戦している。その根拠となったのが、「イラクが大量破壊兵器を隠し持っている」という情報だった。アメリカは圧倒的な軍事力をもってイラクへ攻めこみ、同年52日にブッシュ大統領は早々に「終結宣言」を出している。正体をくらませていたフセイン大統領も追跡の末、200312月に見つけ出し、身柄を確保した(20061230日にイラク政府に引き渡され、死刑が執行されている)
イラク戦争開戦において、アメリカの主要メディアはブッシュ政権の決断を後押しした。それがのちに大きな誤りだったことに気づくのだが、国家的危機を前にして国民のみならず、権力の監視を託されているはずのメディアも冷静さを失ってしまった。
200298日、ニューヨーク・タイムズのジュディス・ミラー記者がフセイン大統領の核開発疑惑を報じる。チエイニー副大統領をはじめとするアメリカ政府は、この報道を開戦の理屈づけに利用したと言える。「イラクは大量破壊兵器(核兵器)を保有している」というのが、アメリカがイラクに攻撃を仕掛ける有力な根拠のひとつとされたのだ。
だが、大勢が決したのちにさまざまな調査がなされたものの、イラクで大量破壊兵器が見つかることはついぞなかった。20106月に出されたアメリカ調査団による調査最終報告でも、「生物・化学兵器の備蓄は一切なく、核兵器開発も91年以降は頓挫していた」と結論づけられている。
では、ジュディス・ミラー記者が報じた核開発疑惑とは何だったのか。実はミラー記者の情報源とは、ほかならぬチエイニー副大統領のスタッフだった。「イラクに大量破壊兵器が存在する」という捏造情報をニューヨーク・タイムズにリークして記事を書かせ、その報道を利用して戦争を起こす。政府が仕掛けたマッチポンプのような情報戦に、ニューヨーク・タイムズはまんまと引っかかってしまったのだ。
イラク戦争終結後の20045月、ニューヨーク・タイムズはミラー記者の記事に重大な誤りがあったことを認め、一面トップを使って詳しい検証記事を掲載している。イラク戦争開戦に反対するどころか、ニセモノの特ダネをつかまされた失態を認め、編集幹部はクビになった。
アメリカを代表する新聞であるはずのニューヨーク・タイムズもまた、結果として翼賛体制に協力し、当局との距離感を完全に見失ってしまったのだ。
ジャーナリストとは、基本的に権力寄りであってはならない。権力の内側に仲間として加わるのではなく、権力と市民の間にたちながら当局を監視し、不正を糺していく。ジュディス・ミラー記者のように権力に近づきすぎたジャーナリズムのことを、アメリカでは批判的に「アクセス・ジャーナリズム」と呼ぶ。
チェイニー副大統領サイドのやったことは、戦前の日本が中国でやったことと全く同じである。全く違うところは、ジャーナリズムであろう。日本のメディアが「イラク戦争」でアメリカに加担したことで、新聞社の幹部が責任をとったであろうか。他人ごとのように、「イラクには核はなかった」と報道しているだけだった。そこには、真剣な反省もない。
今、すぐにできることは、記者は記事を書いた場合、全て署名入り記事にして欲しい。そこから反省が生まれてくるのではないか。