2014年2月26日水曜日

自分に都合のよい物語

 
 毎日新聞の「白川道の人生相談」を紹介しよう。 70代男性からの以下の相談に答えている。 
傍若無人な若者
(相談)スマホしながら前を見ていない、歩道は猛スピードの自転車、電車では席を譲らないどころか、席に荷物を置いて座らせない・・・。昔が良かったとは言いませんが、いまの若者の傍若無人ぶりが許せません。一度注意したらキレられました。刺し違えてみたいと思う毎日です。
(答え)小生は担当者の迷惑も顧みず、未だに万年筆を使って原稿を書いています。スマホも持っていません。さすがに携帯電話は所持していますが、それとても、モシモシ、との通話をするだけで、他の機能は一切利用しません。
アナログ人間でメカ音痴ということもありますが、一番の理由は、あの人間味のない電子文字というやつが大嫌いなせいです。たしかに、パソコンやらスマホなどの普及は、人間社会に「効率」という二文字を与えはしましたが、その代償として、人間にとって最も大切な何か、を失わせたようにもおもっています。
今の若者の傍若無人ぶりーー。今に限らずむかしもそういう若者はいたはずですが、明らかに多くなっているのは疑いようがない。しかし今の若者はーーとひとくくりにするのは、そうではない若者も大勢いるので控えたい。
問題はどこにあるのでしょう。道徳観がなくなったからですか? 道徳というのは、国や時代によって変容しますから、そのせいばかりではない。教育の在り方にしても、同じようなものでしょう。では子供を躾ける親の責任ですか?
すこし小難しい話になるのですが、最近、政治や社会を論じる評論家や作家の先生方が、「反知性主義」という言葉をよく使うようです。「非」知性でも「無」知でもなく、「反」知性だと言うのですね。詳しい説明は避けますが、つまり、「自分が理解したいように世界を理解する態度」、あるいは、「自分に都合のよい物語」のなかに閉じこもる姿勢、のことを言うようです。こう言うと、いかにもジジイ臭くて嫌なのですが、小生の周囲の若者たちのなかには、この解釈に当てはまる人間を多く見かけます。
小生の小さかったころは、分からないことがあれば、先生や親、あるいは周囲に聞いたものです。本も読んだり、辞書も引いた。つまり、人間的な触れ合いのなかで知識を得たり、学習をしたのです。そこには、疑問から答えに到るまでの時間があったのです。時間があるから、考えることができた。
しかし今では、スマホやパソコンのボタン操作ひとつで済む。答えは瞬時にして得られる。考える時間もなくなったし、人間的な触れ合いもなくなってしまった。だからそこで得た等えは「自分に都合のよい物語」なのですね。
別の角度で言えば、今の若者たちも不幸なのです。でも、この流れは止まりますまい。小生も含めた年輩者たちにできることは、怒ることではなく、その都度、若者たちに温かい手を差し伸べることしかないでしょう。
「自分に都合のよい物語」だけでは、生きていけない。「自分に都合のよくない物語」にどう対応して行くかが問われているのである。そして、これは若者だけの問題ではない。

2014年2月24日月曜日

学者語

  二木立氏の「私の好きな名言・警句」より紹介する
内田義彦(経済学者。1913-1989)「できるだけ、日常語を使って理解してみる。そして、日常語でどうしても理解できないことでも、なるほどこういう専門語を使えば分かるな、という経験を何度かつんだ時、はじめて専門語が専門語として、生きて来ると思います。/日常語で用が達せるかぎり、何も専門語を使う必要は全然ないのです。日常語だけではあいまいになって来るから、そこで(止むをえず)専門語を使う。/学者は、えてして必要でないところまで、いかめしい『学術語』を並べ立てるくせがありますが、あれは『学者語』であって『学術語』ではありません。学術語は必要だが、学者語はいらない』」(『内田義彦セレクション1 生きること 学ぶこと』藤原書店,2000,43-44,「生きるための学問」(初出は1985)。作家の大野更紗氏が、「読売新聞」2013121日朝刊の「本よみうり堂 託し伝える言葉」で、ゴチック部分を引用)。二木コメント-私は、院生や学生に対して、「読みやすく分かりやすい」レポート・論文を書くよう指導しているので、大いに共感しました。
 
 
 私も「学者語」は嫌いです。

2014年2月14日金曜日

引用句


福永武彦の「幼年」という本を読んだ。おそらく福永武彦という名前を知っている人は少ないと思う。彼の息子が池澤夏樹という小説家である。池澤氏の「叡智の断片」という本を読む。いろんな分野からの「引用句」を紹介している。面白い話をひとつ。
政治家たちよ!
先日、政治家のウィットのお手本のような例に出会って感心したーー
「ミッテランには百人の愛人がいる。その中の一人がエイズなのだが、それがどの女か彼は知らない。ブッシュには百人のボディガードが付いている。その一人は実はテロリストだが、それが誰か彼にはわからない。そして私には百人の経済顧問が付いていて、その一人は優秀なはずだが、それが誰だかが私にはわからないんだ」
こう言ったのはゴルバチョフ。
うまいなと思ったのには理由がある。まず三つの国の大統領を並べて、それぞれの国民の性格を伝えていること。フランス人は色恋に目がないし、アメリカは暴力的な国だし、ソ連の経済は深刻な事態にあった。それを「百人の・・・・」でくくって、しかも結局のところこれはエレガントな詠嘆なのだ。
あまりよくできているので誰かの創作かと思ったが、間違いなくゴルバチョフの発言。一九八八年二月二十五日に『ニューヨーク・タイムズ』に載ったものだった。もしかしたら彼には百人のスピーチ・ライターが付いていて、百人とも優秀だったのかもしれない。 
ぼくがこの名言に出会ったのはある「引用句辞典」の中でのこと。この種の書物が手元に数点あって、読み始めるとやめられない。発言者の人名とテーマの両方から引けるようになっているのが普通で、ゴルバチョフの言葉は「知識(ないし知ること)」というテーマに入っていた。
日本人は著名人の発言や小話の類を引用しない。なぜかと考えてみた。引用というのは自分の意見を飾るために叡智の断片を借りることだから、意見を言わない国では使い道がない。日本人は好みは言っても意見は言わない。異を唱えると角が立つから、議論は避ける。なるべくなめらかに、他人と正面からぶつからないようにして生きる。
選挙の立候補者というのは最も意見言わなければいけない立場なのに、ひたすら「お願いします」しか言わない。政策ではなく人格を売り込んでいるみたい。
今の日本には、覚えていて引用するに値する発言が少ない。最近、政治家が言ったことで感心したことがあっただろうか? 失言はしても発言はしないのが日本の政治家。小話にもならない。
フランスを例に取れば、こういう発言があるーー「フランス人は危機が迫らないかぎり団結しない。二百四十六種類のチーズがある国がそんなに簡単にまとまるはずがない」
こう言った人はシャルル・ド・ゴール。つまり普段はそれほどてんでんバラバラ、みんなが勝手なことを言っていりということだ。ぼくは今フランスに住んでいるから、これはなかなか実感がある。
まったく同じことを、ある韓国の人が別の言い回しで言っているーー「例えばわれわれが『団結は生、分裂は死』と言えば、フランス人はただちに『団緒は死、分裂こそ生』と応酬するだろう」
ここでわれわれというのは韓国人のこと。これは洪世和の『セーヌは左右を分かち、漢江は南北を隔てる』という本の中にあった。彼は政治亡命をしてずっとパリこうこつかんでタクシーの運転手をしながら祖国批判をしてきた硬骨漢で、今は韓国に帰っている。
難しい文章で説明をするより、「引用句」で説明するほうが、納得できることが多い。気の利いた引用をするためにも、古今東西の本からの知識がないとだめだ。日本の政治家に引用句がないのは、おそらく、ほとんど本を読んでいないからであろう。

2014年2月12日水曜日

診断のインフレ


「正常を救え」という本から、興味ある部分を紹介する。過剰診断が如何に薬の過剰投与につながっているか・・・
診断のインフレの悪い結果
一九八年代はじめ、生涯のうちに精神疾患の診断条件を満たすアメリカ人は三分の一ほどだった。現在ではおよそ半数に達する。ヨーロッパも急速に追いつきつつあり、四〇パーセントを超える。これは実際より低い数字だと考える人もいるーー もっと入念な予測調査をおこなうと、たしかに生涯有病率は倍増する。
こういう結果を信じるのなら、ほぼ全人口に精神疾患が行きわたっていることになる。ある研究によれば、三二歳までに全人口の五〇パーセントが不安性障害の条件を満たし、四〇パーセント超が気分障害の条件を満たし、三〇パーセント超が薬物依存の条件を満たす。別の研究では、病気がほぼあまねく蔓延しているという主張になおさら近い結果が出ているーー わずか二十一歳になるまでに、未成年の八〇パーセントが精神疾患の条件を満たすという。膨れあがった有病率は声高に喧伝され、診断も治療も少なすぎるという製薬企業の主張を勢いづかせているーー こうして悪循環がつづく。
診断のインフレを示す証拠は至るところにある。精神疾患の爆発的流行は過去一五年間に四度あった。小児の双極性障害は、信じがたいことに四〇倍に増えた。自閉症はなんと二〇倍に増えた。
注意欠陥・多動性障害は三倍になった。成人の双極性障害は倍増した。有病率が急上昇するとき、そこにはそれまで見落とされていた本物の患者がいくらかは含まれているーー 診断とそれに基づく治療を切実に必要としている人たちだ。しかし、これほど多くの人々、とりわけ子どもが、なぜ突然病気と見なされるのかは、診断が正確になったというだけでは説明できない。
その答えは、薬の過剰供給、すなわち製薬メーカーの薬漬け戦略に他ならない。

2014年2月8日土曜日

ソーシャルメディア

 
こんな会社で働きたい!社員がよろこぶ会社のルール・規定集という本を読む。いろんな面白い規定が紹介されているが、以下に紹介する規定は参考になる。
規定の趣旨
ツイッターやFacebookなどのソーシャルメディアは、今や私たちの生活において欠かすことのできない重要な情報手段となりつつあります。これらソーシャルメディアを有効に活用することで、社会へ効果的に情報を伝えることができ、今後ますますお客様との相互関係の構築に重要な手段となることが見込まれます。その一方で、ソーシャルメディアには、匿名性や一方的な記述が可能であるといった特性もあり、不正確な情報や不用意な記述が意図しない問題を引き起こし、社会に多大な影響を及ぼした例などもあることから、リスク対策をしっかり行わなければなりません。そのためにも、社員が留意すべき事項を明らかにすることが必要です。
既定のポイント
1・.対象者は全社員
ソーシャルメディアによるトラブルを調べてみると、パートやアルバイトが引き起こしていることが少なくありません。せっかく規定を作るのであれば、全社員を対象者とすべきです。
2・留意すべき点を具体的に書く
ソーシャルメディアによる思いもつかないようなトラブルが起こっています。総務省の調査結果によって、ソーシャルメディアに対する世代間のギャップが存在していることが明らかになっています。常識的にこんなことはしないだろうということが通用しなくなってきています。会社をリスクから守ろうとするのであれば、してはいけないことを具体的に書いておく必要があります。
3・規定をもとに教育をする
いくら規定を作っても、伝わらなければ、意味がありません。前述のように、「当たり前」の基準が違ってきているので、文字を読んだだけでは正しく伝わりません。実際に起こったソーシャルメディアの事件をもとに、事件を起こした社員が解雇されたり、会社から損害賠償請求をされることがあることを伝えながら、軽はずみな行動が、大きな問題になるということを理解させることが必要になっています。特に、雇用期間が短く、教育が不十分になりがちなパートやアルバイトにも、教育に力を入れるべきです。
ソーシャルメディア利用規定なるものをつくらなければならない時代になってしまったのである。ソーシャルメディアのない時代には戻れない。対策が急がれる。

 

2014年2月3日月曜日

表現する人びと

 
我が家の書庫で、今まで読んだ本をあらためて眺めていたら、「表現する人びと」(小森陽一著)という本があった。どんな本か忘れていたので、あらためて読んでみた。表紙の裏に、山田龍矢様 2005年9月11日 小森陽一というサインが書いてあった。6人のあまり著名ではないが、表現している人との対談が載っている。その中で小森氏が言っている。私達はメディアの言っていることを確かめる術を基本的に持っていない。メディアは疑ってかかれと言っている。
劇場での営みが問うもの
いったい私たちは、どこへ戻ったらいいのでしょうか。それを考えるとき、人間であるということは、言葉を操る生きものであるという原点に立ち返る必要があるだろうと思います。私たちは、どんなマニュアルも与えられていないにもかかわらず、自分が生まれた世界の中におけるさまざまな大人たちとのかかわりの中で、自然に最初の言語(母語)を獲得することができる、そういう能力を遺伝子に組み込まれています。すでに第一章でみたように、表現する者としての人間は、現実的な身体を持ったさまざまな他の人間との、その生身の身体を通したかかわりの中からしか生まれてこないのです。 
それだけに、現在私たちが、言葉を獲得する過程そのものの中に、具体的な身体を持った人間と人間の関係を遮断する、テレビやコンピューターのモニターが侵入し続けていることは異様だといわねばなりません。まだ言葉がしゃべれない赤ん坊が、テレビの映像を子守り代わりに与えられていることを考えれば、私たちが生きている時代の危機と狂気の様相が見えてくると思います。けれども、ほとんどの子どもたちが小さい頃からテレビを見て育つようになり、その子たちが成長した一九八〇年代以降、あらためて演劇というジャンルが多くの若者にとって魅力的なものとして受け止められ、さまざまな新しい才能が現れてきたことを、私は共感を持って思い起こします。
スイッチを入れればほぼ無料に近い状態で、さまざまな娯楽を入手できるテレビ的環境をずっと当たり前のこととして生きてきた若者たちが、あえてお金を払い、狭い劇場空間に入り、生身の人間の身体を通して演じられるパフォーマンスに自分の身体を呼応させ、役者の身体から出てくる声に耳を澄まし、その場で笑い、涙を流す、そういう一瞬においてしか共有できない、その場で消えていってしまう人間の身体の営みに、全身全霊で打ち込んでいったのはなぜでしょうか。
私は、人間が何者であるのかということへの根本的な問いかけと、それをあらためて再獲得したいという強い欲求があったからだと思うのです。そのような劇場に足を運んだ若者たちが、自ら、たとえつたなくても、さまざまな演劇的な空間を生み出し演じ始める、そうした生身の身体から身体へのさまざまな感動の連鎖には、そのことが見てとれます。もちろん演劇だけに限りません。映像とともにコンサートと同様な質の音声を再現するメディアが開発されたにもかかわらず、やはり生身のミュージシャンとオーディエンスが身体的に反応しあうコンサート会場に、お金を払って足を運ぶ人々が絶えないということの中にも、同じことがいえるのではないでしょうか。
情報は、新聞、本などの文字から得ることが大事だ。テレビからの情報はあてにならないから見ない習慣をつけたいと思っているこの頃である。残りすくない人生の貴重な時間をテレビに取られたくはない。