2014年2月3日月曜日

表現する人びと

 
我が家の書庫で、今まで読んだ本をあらためて眺めていたら、「表現する人びと」(小森陽一著)という本があった。どんな本か忘れていたので、あらためて読んでみた。表紙の裏に、山田龍矢様 2005年9月11日 小森陽一というサインが書いてあった。6人のあまり著名ではないが、表現している人との対談が載っている。その中で小森氏が言っている。私達はメディアの言っていることを確かめる術を基本的に持っていない。メディアは疑ってかかれと言っている。
劇場での営みが問うもの
いったい私たちは、どこへ戻ったらいいのでしょうか。それを考えるとき、人間であるということは、言葉を操る生きものであるという原点に立ち返る必要があるだろうと思います。私たちは、どんなマニュアルも与えられていないにもかかわらず、自分が生まれた世界の中におけるさまざまな大人たちとのかかわりの中で、自然に最初の言語(母語)を獲得することができる、そういう能力を遺伝子に組み込まれています。すでに第一章でみたように、表現する者としての人間は、現実的な身体を持ったさまざまな他の人間との、その生身の身体を通したかかわりの中からしか生まれてこないのです。 
それだけに、現在私たちが、言葉を獲得する過程そのものの中に、具体的な身体を持った人間と人間の関係を遮断する、テレビやコンピューターのモニターが侵入し続けていることは異様だといわねばなりません。まだ言葉がしゃべれない赤ん坊が、テレビの映像を子守り代わりに与えられていることを考えれば、私たちが生きている時代の危機と狂気の様相が見えてくると思います。けれども、ほとんどの子どもたちが小さい頃からテレビを見て育つようになり、その子たちが成長した一九八〇年代以降、あらためて演劇というジャンルが多くの若者にとって魅力的なものとして受け止められ、さまざまな新しい才能が現れてきたことを、私は共感を持って思い起こします。
スイッチを入れればほぼ無料に近い状態で、さまざまな娯楽を入手できるテレビ的環境をずっと当たり前のこととして生きてきた若者たちが、あえてお金を払い、狭い劇場空間に入り、生身の人間の身体を通して演じられるパフォーマンスに自分の身体を呼応させ、役者の身体から出てくる声に耳を澄まし、その場で笑い、涙を流す、そういう一瞬においてしか共有できない、その場で消えていってしまう人間の身体の営みに、全身全霊で打ち込んでいったのはなぜでしょうか。
私は、人間が何者であるのかということへの根本的な問いかけと、それをあらためて再獲得したいという強い欲求があったからだと思うのです。そのような劇場に足を運んだ若者たちが、自ら、たとえつたなくても、さまざまな演劇的な空間を生み出し演じ始める、そうした生身の身体から身体へのさまざまな感動の連鎖には、そのことが見てとれます。もちろん演劇だけに限りません。映像とともにコンサートと同様な質の音声を再現するメディアが開発されたにもかかわらず、やはり生身のミュージシャンとオーディエンスが身体的に反応しあうコンサート会場に、お金を払って足を運ぶ人々が絶えないということの中にも、同じことがいえるのではないでしょうか。
情報は、新聞、本などの文字から得ることが大事だ。テレビからの情報はあてにならないから見ない習慣をつけたいと思っているこの頃である。残りすくない人生の貴重な時間をテレビに取られたくはない。

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