2014年4月28日月曜日

砂川事件


現憲法で集団的自衛権を合法化するために「砂川事件」を持ちだしてきている。そもそも「砂川事件」とは何なのか、「赤旗」の記事より紹介する。
砂川事件
19577月に米軍立川基地拡張に反対する労働組合員や学生らが、境界柵を壊し敷地内に数㍍立ち入ったとして日米安保条約に基づく刑事特別法に基づいて起訴された事件。
東京地裁は593月、米軍駐留は違憲であるとして無罪判決を出しました(伊達判決)。日本政府は最高裁へ跳躍上告。同12月、最高裁は、憲法は「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置」は禁止していないことなどを理由に、一審判決を破棄しました。
やぶから“大蛇”
土屋民らを共同代表とする「伊達判決を生かす会」は、最高裁は「公平な裁判所」(憲法37)とはいえない「汚染された裁判所」だったとして、再審・免訴を求める準備を進めています。
砂川事件が再び注目されたことについて、土屋氏は「最高裁判決はインチキだと証明してくれと言われているようだ」と語ります。元被告の武藤軍一郎氏も「(安倍内閣は)やぶをつついて大蛇を出したようなものです。私はジッとしていられない。ゆがめられた最高裁判決を語っていかないといけない」と意気軒高です。
松本元裁判官は「伊達判決という『死んだ子』がよみがえってきた感じがしています」と語ります。「本当によみがえるかどうかはこれからの問題でしょう。伊達判決は私の誇りですし、やるべきことはやりました。この判決を若い世代がどう受け取ってくれるかです。結局、集団的自衛権の問題は、若い人たちが矢面に立たされ、未来がどうなるかという問題ですから、これを機会にいろいろと考えてくれるといいなと思います」
なぜこの判決が、集団的自衛権を認めたことになるのか、よく理解できないのは私だけではあるまい。

2014年4月23日水曜日

日本共産党の深層


「日本共産党の深層」(イースト新書)という本を読んだ。214日発行で、310日現在第3冊となっている。著者はルポ作家として有名な木下英治氏である。はじめにの一部を紹介する。
はじめに
結党九一年、日本共産党は、治安警察法下の大正一一年七月、東京・渋谷で非合法政党として産声をあげた。国内最古参の政党として、戦前・戦後から、時の権力に抗して主権在民と反戦の旗を掲げてきた歴史を持つ日本共産党は現在、「反原発、ブラック企業告発、九条堅持」の砦として活気に満ちている。
平成二五年夏の参議院選挙で、共産党は、なんと、比例代表選挙での「五議席絶対確保」の目標を達成し、三つの選挙区で勝利して、改選前の三議席から八議席へ大躍進を果たした。これで、参議院では、非改選と合わせて十一議席となり、議案提案権を得ることができた。
比例代表選挙の得票では五十五万四〇〇〇票(九・六八%)を獲得し、前回参院選の三五六万票を一五九万票、一昨年の衆議院総選挙の三六九万票を一四六万票、それぞれ上回った。
久々に共産党が勢いづいている。
東京選挙区での三〇歳の吉良よし子の選挙戦は、特に眼を見張るものがあった。吉良の姓キラを取り、「キラキラサポーターズ」なる勝手連が、まるで芸能人の追っかけか、と思わせるほど神出鬼没の大活躍をした。
フェイスブックで、「勝手連キラキラサポーターズを始めます」というページが立ち上がり、注目を集めるようになる。キラキラサポーターズという名前も、有志がつけた。
脱原発運動への行動を中心にまとめた写真集『KIRAryDiary 政治家吉良よし子春夏秋冬』まで発売した。
キラキラサポーターズは、「どうせやるんだったら、盛り上げよう!」ということで急遽その場で、総理官邸前行動でおこなうコールが考えられた。
「原発なくそう 吉良よし子 憲法守ろう 吉良よし子 増税反対 吉良よし子」
サポーターたちは、吉良の遊説日程ブログをチェックしては現地に足を運び、 コールを実践した。これが、大変盛り上がる。サポーターたちは、ツイッターやフェイスブック、アメーバブログを通して情報を共有し、相談しては応援日を決め、どんどん集合した。  
吉良がしゃべっている演説中には、もちろんキラキラコールをすることはできない。そのかわり、合いの手のように楽器を鳴らすのだ。「ブラック企業は、許しません!」。ドコドン。「原発反対!」ドコドン。
このように底抜けに明るい選挙運動を見ていて、共産党がかつて「アカ」と呼ばれ、凄まじい弾圧にも屈しないで主張を貫いてきたことを知る人は少なくなってきているのではないか、と思った。
他にも、さまざまな共産党の議員が紹介されている。このような本が出ることに対して、時代の変化を感じている。一気に読める本である。

2014年4月18日金曜日

STAP細胞


毎日新聞のコラム「発信箱」は小さな記事であるが、面白い。だいたい記事というものは、大きいものはどの新聞でも読める。小さな記事程、新聞社の特徴が現れる。今回は「STAP細胞」に関するコラムを紹介する。
女を増やせば
TAP細胞をめぐる騒動は、残念ながらジェンダー問題抜きには語れないのかもしれない。小保方晴子さんが例えば中年の男性研究者だったら。きっと、最初の成果発表のような広報の仕方はなかっただろう。「未熟で」「自己流で」という涙の記者会見にも、さらに厳しい目が注がれたかもしれない。
もちろん、だからといって、「日本の科学界は女に甘い」などと言っているのではない。総務省が今週発表した統計によると、日本で研究者全体(文系も含む)に占める女性の割合は15%に満たない。主要国をみると、英国で4割弱、米国やイタリアで3割強、独仏で4分の1以上。日本はまだ後進国だ。
特に、指導的立場にある女性研究者の数は少ない。女性教授の割合は国立大で約8%。自然科学に限るとさらに低下するはず。小保方さんが所属する理化学研究所の研究センターでも35の研究室のうち女性が代表を務めるのは六つにとどまる。
「シニアの女性研究者がSTAPチームに一人でもいたら、こんなことにならなかったのでは?」。知人の研究者の言葉に思わずうなずいた。これほど重要な研究なのだから、相手が女でも男でも、ハーバード大など他の研究室が関係していようといまいと、研究経験が浅いと思えば「生データは?」「実験ノートは?」と、ためらわずチェックを入れたはず。私の知るツワモノ女性研究者たちの顔を思い浮かべると、そう思える。だからこそ、この騒動から教訓をくむとすれば「研究者の採用は慎重に」ではない。「女性研究者をもっと増やし、指導的立場にもどんどん採用する」が正しいのだ。
STAP細胞関連へのメディアの対応の仕方は、我々にはピンと来ない。どうしてなのだろうと考えていた時にこのコラムに出会った。こういう見方もあるんだなと感心した。

2014年4月15日火曜日

製薬企業を服従させる14の方法


 以前にも紹介した「正常を救え」から、今の薬業界のノバルティス問題に関係するところを紹介する。
マーケティング・マシンの解体
精神科の合法薬を売る製薬業界は、偽りの情報を盛んに広めることによって繁栄している。巨大製薬企業は、ほぼ無尽の財源、政治力、マーケティング能力、新たな市場やより大きな利益を追求する強欲を有している。しかし、政治家に意欲があれば、すべてをただちに覆せる。つぎにあげる政策変更はいずれも実行がむずかしくない。ほとんどが他国ですでにおこなわれており、処方薬の過剰使用を完全になくすとはいかないまでも、その抑制に効果をあげている。
製薬企業を服従させる14の方法
・テレビや雑誌やインターネットを通じた消費者への直接宣伝の禁止
・製薬企業が医師や医学生に対し、視察旅行、晩餐会、販促品、生涯教育などを提供することの禁止
・医療専門家団体への財政支援の禁止
・病院の待合室にたむろする美男美女の営業員の一掃
・無料サンプルの禁止
・適応外処方のマーケティングの禁止
・オピニオンリーダーの囲いこみの禁止
・製薬企業によるアメリカ食品医薬品局(FDA)への資金揖供の禁止
・企業のみならず役員も対象とした、違法行為の罰金額引きあげと刑事罰の強化
・法律に違反した企業に対する特許権の保護期間の短縮
・消費者保護団体への資金援助の禁止
・疾病啓発キャンペーンの禁止
・政治家への無制限かつ非公開の献金の禁止
・製薬業界に対する規制の制定や監督に携わった政治家、政治団体職員、官僚は、製薬企業の役員や従業員になるのを三年間禁ずる
製薬企業に自発的な改革は期待できない。利益が流れこんで株主が満足しているかぎり、変わろうとする動機などあるはずがない。できるだけ多くの金を稼ぐことが製薬企業の使命だ。どう反論しょうとも、公共の福利への貢献が優先順位の低いところにあるのはまちがいない。
まさに製薬企業の本質を見抜いた提起である。

2014年4月9日水曜日

”トカ”


 東洋経済に童門冬二氏の「生涯現役の人生学」と言うエッセイがある。今回は若者言葉について述べている。以下、紹介する。
“のようなもの”と“トカ” 言葉
落語に「居酒屋」という演目がある。昔は、三代目三遊亭金馬という落語家が得意とする話だった。意地の悪い客と若い店員(小僧)とのやりとりがおかしい。特に、客が酒のつまみの注文をなかなか決めないくだりが何とも言えない。
「何ができるんだい?」「できますものは・・」と、応じうる品名を挙げる。「・・アンコウのようなもの、ブリにおイモに酢ダコでございます」。それを聞いた客はうなずき、「わかった。じゃあその“ようなもの”をくれ」と言う。
店員はまゆを寄せて「何でしょう?」と聞き返す。客は「だから、その“ようなもの”をくれて(という)ンだよ」と澄まし込む。店員は「そんなものはありませんし、できません」と食い下がる。客は、「だって今、おめえはそう言ったじゃねえか」と絡む。そしてもう一度、品名を繰り返させる。店員は「・・アンコウのようなもの、ブリにおイモに酢ダコでございます」と暗記している品名を挙げる。客は「ほら、今、自分で言っているじゃねえか」とニンマリ。店員は狼狽する。このような話だ。
これは、単なる揚げ足取りではない。言葉のあいまいさを責める江戸っ子の気性を示している。私にもそれがある。今もその一言を聞いただけで虫ずが走り、背筋がぞっとする言葉がある。“トカ”だ。
「昨日はカレとデートして、映画トカ見て、帰りにギョーザトカ食べちゃってサ」などと“トカ”を連発する若者がいる。どんな美人でも、一発この“トカ”が出たら、私はその美人の知性を疑う。“トカ”というのは、言っていることをあいまいにする助詞であり、同時に責任逃れのニュアンスを底に潜めている。
関西の言葉で、「のと違いまっ()か」というのと同じだ。これも断定ではなく、逃げ場を用意した“あいまい語”だ。
「記憶にございません」というのは、かつて疑獄事件に問われた容疑者が創造した名ぜりふで、当時私は「まったくうめえ(うまい)ことを言うなあ」とうなったものだが、根っから江戸っ子である私は、どうもこういうあいまい語にはなじめない。
“トカ”も同じだ。澄んだ江戸の言葉の湖に、ブラックバスが急増している気がする。ワカサギやシラウオが、みんな食われてしまうような気分になるのだ。つまり、“トカ”は、落語の“のようなもの”なのだ。大して意味のない会話に、どうしていちいちそんな逃げ場を用意しなければならないんだと悲しくなる。そこまで緊張させてしまうのは、やはりメール社会のせいなのか。どんなことにもシツポをつかまれまい、言葉尻をとられまいとする風潮が“トカ”に凝縮したのだろうか。
無邪気に“トカ”を連発して会話する若者たちに言わせれば、「そんな緊張感なんかないよ。おジイさん、考えすぎだよ」ということになるのかもしれない。しかし、ジジイの小言幸兵衛(何にでもイチヤモンをつける落語の主人公)的に言えば、「その危機感がないこと自体、実は危機的状況なのだよ」ということになる。つまり、自分では気がつかなくても、すでにブラックバスに食われたワカサギなのだ。
そう思うと、街のあちこちで“トカ”を連発する若者たちの姿が、この世ならぬものに見えてくる。スティーヴン・キングが初期の作品に書いた、吸血鬼の街に迷い込んだ気がしてくる。街行く人がみな、吸血鬼に血を吸われて自分も吸血鬼になっていることに気づいていないのだ。怖い。
  氏は、江戸っ子だから余計に言葉に対して敏感である。私も、江戸っ子ではないが、「・・とか、・・みたいな・・、なんちゃって・・」という言葉を聞くと虫ずが走る方である。結構の年配がこの様な言葉を使うと、なお気持が悪い。これも年をとった証拠かもしれない。

2014年4月7日月曜日

ノーサイド

 
 ビッグ・イシューより、雨宮処凛氏のエッセイを紹介する。
自分自身への「ノーサイド」
雨宮処凛 
撮近、ふと泣きそうになることがあった。それは友人からの一本のメール。ただの近況報告だったのに、友人は私のちょっとした迷いや疲れを読み取り、ものすごく心配してくれたのだ。
そんなふうに、「どうしてこの人は、こんなに私のことがわかるのだろう」という人がたまにいる。その逆に、「どうしてこの人は、これほどに人を傷つける言葉しか口にしないのだろう」という人もいる。言葉は人を生かすこともあれば、殺すこともある。この号が出る頃にはもうわかっているかもしれないが、今年2月の東京都知事選をめぐっては、多くの人が傷ついた。
脱原発候補が2人の立候補の「どちらにつくか」という問題で、この3年間、脱原発運動をしてきた人たちの間に、ぎくしゃくとした空気が生まれてしまったのだ。
その中で、私自身も人格を否定されるようなひどい言葉を投げつけられた。もう「政治」とか「選挙」とかが心の底から嫌になってしまうような日々だった。だいたい、「戦」も「競争」も苦手なのだ。だからこそ「戦争に勝ち抜けない負は生きるも死ぬも自己責任」という社会のあり方に疑問を呈し、「競争に勝ち続けられなくてもすべての人に生きる価値がある」というスタンスで反貧困運動などに取り組んでいるのに、選挙となるとどうしたって「勝ち負け」になってしまう。
本当は、どちらの支持者も「脱原発」「環境や平和を重視した政策」など方向性では合致点がたくさんある。なのに都知事というひとつの椅子を前にすると、冷静でいられなくなる人も少なくない。
都知事選挙開票日の夜、香山リカさん、池田香代子さんと「トーキョ-・ノーサイド!宣言」というサイトを立ち上げた。いろいろあったけど、また前を向いて、みんなでやっていこう、ノーサイドにしよう、という呼びかけだ。お互いの健闘を讃えあい、一緒に脱原発を進めようという宣言。だけど、私白身、どこかで自分に投げつけられたひどい言葉を忘れられずにいる。「ノーサイド」。その言葉を、私は今も内分自身に言い聞かせているのだ。
脱原発のみで、都知事選挙の候補を一本にすること自体が間違っているのだ。たとえ○川候補に統一したとしても、脱原発はおぼつかない。そのことより、○○神候補の61万票が怖い。