2014年4月7日月曜日

ノーサイド

 
 ビッグ・イシューより、雨宮処凛氏のエッセイを紹介する。
自分自身への「ノーサイド」
雨宮処凛 
撮近、ふと泣きそうになることがあった。それは友人からの一本のメール。ただの近況報告だったのに、友人は私のちょっとした迷いや疲れを読み取り、ものすごく心配してくれたのだ。
そんなふうに、「どうしてこの人は、こんなに私のことがわかるのだろう」という人がたまにいる。その逆に、「どうしてこの人は、これほどに人を傷つける言葉しか口にしないのだろう」という人もいる。言葉は人を生かすこともあれば、殺すこともある。この号が出る頃にはもうわかっているかもしれないが、今年2月の東京都知事選をめぐっては、多くの人が傷ついた。
脱原発候補が2人の立候補の「どちらにつくか」という問題で、この3年間、脱原発運動をしてきた人たちの間に、ぎくしゃくとした空気が生まれてしまったのだ。
その中で、私自身も人格を否定されるようなひどい言葉を投げつけられた。もう「政治」とか「選挙」とかが心の底から嫌になってしまうような日々だった。だいたい、「戦」も「競争」も苦手なのだ。だからこそ「戦争に勝ち抜けない負は生きるも死ぬも自己責任」という社会のあり方に疑問を呈し、「競争に勝ち続けられなくてもすべての人に生きる価値がある」というスタンスで反貧困運動などに取り組んでいるのに、選挙となるとどうしたって「勝ち負け」になってしまう。
本当は、どちらの支持者も「脱原発」「環境や平和を重視した政策」など方向性では合致点がたくさんある。なのに都知事というひとつの椅子を前にすると、冷静でいられなくなる人も少なくない。
都知事選挙開票日の夜、香山リカさん、池田香代子さんと「トーキョ-・ノーサイド!宣言」というサイトを立ち上げた。いろいろあったけど、また前を向いて、みんなでやっていこう、ノーサイドにしよう、という呼びかけだ。お互いの健闘を讃えあい、一緒に脱原発を進めようという宣言。だけど、私白身、どこかで自分に投げつけられたひどい言葉を忘れられずにいる。「ノーサイド」。その言葉を、私は今も内分自身に言い聞かせているのだ。
脱原発のみで、都知事選挙の候補を一本にすること自体が間違っているのだ。たとえ○川候補に統一したとしても、脱原発はおぼつかない。そのことより、○○神候補の61万票が怖い。

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