2014年4月9日水曜日

”トカ”


 東洋経済に童門冬二氏の「生涯現役の人生学」と言うエッセイがある。今回は若者言葉について述べている。以下、紹介する。
“のようなもの”と“トカ” 言葉
落語に「居酒屋」という演目がある。昔は、三代目三遊亭金馬という落語家が得意とする話だった。意地の悪い客と若い店員(小僧)とのやりとりがおかしい。特に、客が酒のつまみの注文をなかなか決めないくだりが何とも言えない。
「何ができるんだい?」「できますものは・・」と、応じうる品名を挙げる。「・・アンコウのようなもの、ブリにおイモに酢ダコでございます」。それを聞いた客はうなずき、「わかった。じゃあその“ようなもの”をくれ」と言う。
店員はまゆを寄せて「何でしょう?」と聞き返す。客は「だから、その“ようなもの”をくれて(という)ンだよ」と澄まし込む。店員は「そんなものはありませんし、できません」と食い下がる。客は、「だって今、おめえはそう言ったじゃねえか」と絡む。そしてもう一度、品名を繰り返させる。店員は「・・アンコウのようなもの、ブリにおイモに酢ダコでございます」と暗記している品名を挙げる。客は「ほら、今、自分で言っているじゃねえか」とニンマリ。店員は狼狽する。このような話だ。
これは、単なる揚げ足取りではない。言葉のあいまいさを責める江戸っ子の気性を示している。私にもそれがある。今もその一言を聞いただけで虫ずが走り、背筋がぞっとする言葉がある。“トカ”だ。
「昨日はカレとデートして、映画トカ見て、帰りにギョーザトカ食べちゃってサ」などと“トカ”を連発する若者がいる。どんな美人でも、一発この“トカ”が出たら、私はその美人の知性を疑う。“トカ”というのは、言っていることをあいまいにする助詞であり、同時に責任逃れのニュアンスを底に潜めている。
関西の言葉で、「のと違いまっ()か」というのと同じだ。これも断定ではなく、逃げ場を用意した“あいまい語”だ。
「記憶にございません」というのは、かつて疑獄事件に問われた容疑者が創造した名ぜりふで、当時私は「まったくうめえ(うまい)ことを言うなあ」とうなったものだが、根っから江戸っ子である私は、どうもこういうあいまい語にはなじめない。
“トカ”も同じだ。澄んだ江戸の言葉の湖に、ブラックバスが急増している気がする。ワカサギやシラウオが、みんな食われてしまうような気分になるのだ。つまり、“トカ”は、落語の“のようなもの”なのだ。大して意味のない会話に、どうしていちいちそんな逃げ場を用意しなければならないんだと悲しくなる。そこまで緊張させてしまうのは、やはりメール社会のせいなのか。どんなことにもシツポをつかまれまい、言葉尻をとられまいとする風潮が“トカ”に凝縮したのだろうか。
無邪気に“トカ”を連発して会話する若者たちに言わせれば、「そんな緊張感なんかないよ。おジイさん、考えすぎだよ」ということになるのかもしれない。しかし、ジジイの小言幸兵衛(何にでもイチヤモンをつける落語の主人公)的に言えば、「その危機感がないこと自体、実は危機的状況なのだよ」ということになる。つまり、自分では気がつかなくても、すでにブラックバスに食われたワカサギなのだ。
そう思うと、街のあちこちで“トカ”を連発する若者たちの姿が、この世ならぬものに見えてくる。スティーヴン・キングが初期の作品に書いた、吸血鬼の街に迷い込んだ気がしてくる。街行く人がみな、吸血鬼に血を吸われて自分も吸血鬼になっていることに気づいていないのだ。怖い。
  氏は、江戸っ子だから余計に言葉に対して敏感である。私も、江戸っ子ではないが、「・・とか、・・みたいな・・、なんちゃって・・」という言葉を聞くと虫ずが走る方である。結構の年配がこの様な言葉を使うと、なお気持が悪い。これも年をとった証拠かもしれない。

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