2014年12月24日水曜日

21世紀の資本


 日経に「21世紀の資本」がベストセラーになっている、パリ経済学校教授のトマ・ピケティー氏へのインタビュー記事が載っていた。一部興味ある部分を紹介する。
所得格差拡大に批判的ですが、経済成長には一定の格差は避けられない面もあります。
「確かに成長の持続にはインセンティブが必要で格差も生まれる。過去200年の成長と富の歴史を見ると、資本の収益は一国の成長率を上回る。労働収入より資産からの収入が伸びる状況だ。数年なら許容できるが、数十年続くと格差の拡大が社会基盤を揺るがす」
「日本に顕著だが(成長力の落ちた先進国では)若者の賃金の伸びが低い。第2次大戦後のベビーブーム世代と比べ資産を蓄積するのが非常に難しい。こうした歴史的状況において、中間層の労働収入への課税を少し減らし、高所得者に対する資産課税を拡大するのは合理的な考えだと思う。左発か右翼かという問題ではなく、歴史の進展に対応した税制のあり方の問題だ」
グローバル化と格差の関係をどう見ていますか。
「グローバル化そのものはいいことだ。経済が開放され、一段の成長をもたらした。格差拡大を放置する最大のリスクは、多くの人々がグローバル化が自身のためにならないと感じ、極端な国家主義(ナショナリズム)に向かってしまうことだ。欧州では極右勢力などが支持を伸ばしている。外国人労働者を排斥しようとし欧州連合(EU)執行部やドイツなどを非難する」
資産への課税強化で国際協調すべきだと提案していますが、非現実的との指摘もあります。
5年前にスイスの銀行の秘密主義が崩れると考えた人はどれほどいただろうか。しかし米政府がスイスの銀行に迫った結果、従来の慣習は打破され透明性が高まった。これは第一歩だ」
「たとえば、自由貿易協定を進めると同時に、国境を越えたお金のやりとりに関する情報も自動的に交換するような仕組みがつくれるのではないか。タックスヘイブン(租税回避地)に対しても対応がいる。国際協調が難しいことを何もしない言い訳にすべきではないと思う」
「新興国にとっても2つの意味かある。新興国は(金融の流れが不透明な現状のまま)資本流出が起きれば失うものの方が大きい。中国はロシアのような一部の特権階級にだけ富が集中するような国にならないよう細心の注意が必要だ。中国国内で得た(不正な)利益でロンドンやパリの不動産を買う動きもお金の流れが透明になれば防げる。グローバル化の拡大は歓迎するが透明性を高めるべきだ」
先進国内で格差拡大を嘆く声が出る一万、新興国が成長力を高め世界全体では富が増え格差も縮小しているのでは。
「アジアやアフリカでは高成長は当面続くだろうが永続しない。歴史的に高成長は他の国に追いつこうとしているときか、日本や欧州のように戦後の再建時にしか起きない。1700年以降、世界の成長率は年平均1.8%で、人口は0.8%だ。成長率が低く見えるかもしれないが、生活水準を向上させるには十分だった」
過去200年以上の資料をもとに分析したものであるので、説得力がある。読んでみたいが少々高い。税込5940円。

2014年12月18日木曜日

粛々と


 月一回赤旗に連載されている大田直子氏の「気になる日本語」。今回は「ブレずに粛々と」である。本来ならばいい言葉なのであるが、使う人が良くないので悪い言葉のように思ってしまう。
好きだった言葉が、世間で急に多用され始めて嫌いになる、ということがけっこうあります。「癒やし」もそうですし、近年では「言葉を紡ぐ」が憎らしくなりかけています。
そんな小姑的字幕屋のムカつきアンテナに最近ひっかかるのが「粛々と」。国語辞典を引くと「静かに行動するさま、おごそかな様子」などとあって、たいへんに慎ましやかです。大声で憎悪を叫んだり、匿名で人をののしることも多い世の中、こうした熊度は好ましくさえ感じます。ところが、この言葉をよく用いるのは政治家や役人、大会社の大幹部。こうなるとニュアンスが変わってきます。
例えば先日、米軍基地の県内移転反対を訴える人が選挙で選ばれたとき、防衛省は「移転は粛々と進めていくだけです」というコメントを出しました。これを聞いて「ずるい!」と叫んだ字幕屋。「移転は進めます」だけだと傲慢な印象ですが、「粛々と」という言葉を差し挟むことでその印象が薄められます。他者(世論)を無視するためのブロック効果でしょうか。「うちらはまじめにルールに則って仕事してます。雑音()には耳を貸しません」という気持ちが見て取れます。
選挙で敗退した現職氏は、退任のわずか数日前に基地移転に関わる申請を承認しました。氏も心の中で「粛々と」とつぶやいていたのかもしれません。あるいは、「私はプレない人間なのだ」と?
周囲の声を雑音扱いして耳を貸さないという点では、まずい兆候が見えているのに「この道しかない!」と突き進むのをかっこいいと思っている人も、どこか勘違いしているのではないでしょうか。
人生でも、いろんな人の声に耳を傾けて、そのたびに揺れ動き、「どうしたらいいのだ!」と悩むのは、めんどくさいことかもしれませんが、絶対的な正解がない以上、引き返す勇気も必要です。
「政治やビジネスは複雑なんだよ。これだから素人は困る」と言われそうですが、素人の声を無視する者こそプロの皮を被ったド素人。私も「こんな字幕はダメ」という指摘にキレそうになるのをぐっとこらえて真摯に悩もうと思います(たまにキレてますが)(おおた・なおこ映画字幕翻訳者)
私達は使ってはいけない言葉、いや使う機会がない言葉ではある。

2014年12月16日火曜日

相補性


 福岡伸一 芸術と科学のあいだ
 なくしたピースの請求法に感心
 私の学生時代の知人にジグソーパズルの愛好者がいた。大判のパズルをーそれはたぶん数百とか数千ものピースからなっていたと思われるがー飽きもせず長い時間をかけて完成させる。彼の言い分がふるっていた。「あと一個、というところまで作っておいて、最後のピースは彼女に入れさせてあげるんだ」。当時の彼に、彼女がほんとうにいたとしても、彼女はそのプレゼントをどれほど喜んだことだろう。今となってはよくわからない。
 ところで、こんなジグソーパズルのフアンにとって困ったことが起こりうる。一生懸命作り上げたパズル、いよいよ完成という段になって、ピースがひとつ足りない。そもそもピースは小さい。どんな隙間にでも入り込みうる。部屋中を必死に探しまわってもどうしても見つからない・・・このような悪夢のような事態は実際、しばしば発生することのようだ。
その証拠に、ジーグソーパズルメーカー、やのまん(東京・台東)のホームペー
ジにこんなサービスの告知を見つけた。
「弊社では無料で紛失したピースを提供させて頂いております」
でも、いったいどのようにして無くなってしまったものを相手に知らせることができるのか。次の一文がふるっている。「請求ピースのまわりを囲む8つのピースをはずして、崩れないようラップ等でくるむ」(ラップ等で、というところがまたいい)私はこれを読んで心底感心した。生物学の根幹を統べる原理がここにあますところなく表現されている。生命を構成る要素は単独で存在しているのではない。それを取り囲む要素との関係性の中で初めて存在しうる。状況が存在を規定する。自分の中に自分はいない。自分の外で自分が決まる。相補性である。ラップに包まれた8つのピースの中央におさまった真新しいピースがそっと返送されてきたら・・このときこそ彼女はほんとうの至福を感じるだろう。
 
  私の娘も、小さい時、「ジグソーパズル」が好きで根気よく仕上げていた。今も居間に何個か飾ってある。よく、こんなものを仕上げる事ができるなと感心したものだ。ある時、作成途中の物を足で引っ掛けてばらばらにしてしまった。その時は、泣いて抗議をされた。
 
 
 
 

2014年12月11日木曜日

三た雨乞い論法


「二木立氏の医療経済・政策学関連ニューズレター」より、一部紹介する。
服部茂幸(福井県立大学経済学部教授、理論経済学)
『雨乞いは雨を必ず降らすことができる』というジョークがある。『なぜならば、雨が降るまで続けるからだ』。これを異次元緩和に置き換えると、『異次元緩和は必ず日本経済を復活させることができる。なぜならば、日本経済が復活するまで続けるからだ』となる」(『アベノミクスの終焉』岩波新書,2014,vi)二木コメント-これを読んで、次の「三た雨乞い論法」を思い出しました。 
浜六郎(医師。長年にわたり医薬品の安全で適正な使用のための研究と情報活動に取り組んでいる)
『三た雨乞い論法』というのは、それまであった『三た論法』という表現と、『雨乞い論法』という表現を、日本での臨床薬理学の草分け的な存在の一人である佐久間昭氏が合成して使用した独特の表現である。『三た論法』というのは、薬を『つかった』ら、患者が『治った』、だからこの薬は『効いた』のだ、というものである。『つかった』『治った』『効いた』と3回『た』が出てくるから『三た』である。
『雨乞い論法』というのは、『患者が自然の経過や標準的な治療法で治ったのを試験薬が効いた』とする論法をさす。ちょうど、自然現象で降った雨を、『雨乞い』が『効いた』からといいくるめる論法と同じである。雨が降らないで人が困っているときは、すでに相当長期間雨が降らない状態にあるときだ。そこで『雨乞い』をし続けると、ある程度の期間が経てばかならず雨が降ってくる。人は『ああ、ありがたい、ありがたい』と思う。
(中略)雨乞いは絶対に効くのだ。なぜなら、雨が降り続けるまで『雨乞い』は続けられるからだ(『薬害はなぜなくならないか』日本評論社,1996,27-28)
確かに、安倍首相は「アベノミクス」が成功するまでやるつもりであろう。

2014年12月8日月曜日

子どもに貧困を押しつける国・日本


「子どもに貧困を押しつける国・日本」(光文社新書)山野良一著を読む。その中で、家族の誰かの犠牲で成り立っている子供の教育、教育費用をどうしたらいいのか。ポイント部分を紹介する。
貧困問題と社会連帯意識
お気づきのとおり、こうした「カゾクチュー」な親たちを促進してきたのが、ここまで述べてきた家族依存的な日本の教育・子育て制度や、資源配分のあり方だったと私は考えています。「家制度」という歴史的特質を引きずりながら、高い教育費の親負担が当然視されることなどを経て、気がつかないうちに私たちの思考に「カゾクチユー」な考え方が埋め込まれてしまったのではないでしょうか。
さらに言えば、80年代以降に進行してきた貧困や格差の拡大が、社会全体の共同体意識や連帯意識を失わせてきていることも世界的によく指摘されている点です。「白熱教室」で人気を博した政治哲学者のマイケル・サンデルは、あらゆるものが売買されるような市場至上主義がその流れを促進し、結果として「民主的な市民生活のよりどころである連帯とコミュニティ意識を育てるのが難しくなる」としています(サンデル2010)。日本で「無縁社会」という言葉が注目されたのも、そのことと関連があるでしょう。貧困や不平等の拡大によって、社会全体のつながりが失われていくのです。
しかし、これ以上「カゾクチュー」な考え方も、社会的な連帯感やつながり意識の破壊も進行させてはならないと私は考えます。貧困問題を考える時、単に所得や金銭的な欠乏が深刻化してきたという側面だけではなく、こうした社会全体のあり方が蝕まれている面を見過ごしてはならないのです。
もちろん、そのためには本書で述べてきたような、家族依存的な資源配分のあり方を再検討しなければならないだろうと思います。資源論を無視して、理念を変化させるということはできないでしょう。
しかし、それは経済的に困窮している家族だけを特別扱いし優遇すればいいというものではありません。簡単に言えば、できるだけ教育や育児にお金がかからない社会を作るということだと思います。それは、経済的に困窮している家族や子どもだけでなく、中流以上の家族やこどもにとっても、優しいユニバーサルな社会です。そうしたユニバーサルこそが、社会に対する不信感を緩め、子育てという営みが本来持つ「頼り頼られる」連帯意識につながるのではないでしょうか。そうした連帯意識のもとでは、親たちも自分の子どもが得た能力や技術を、社会に還元させるべきだと思えるのではないでしょうか。
子どもは社会全体の宝物という考えでいかなければ、解決策は見つからないということだ。

2014年12月5日金曜日

消費税


共済会だよりに連載されている「アメリカは日本の消費税を許さない」(大阪経済大学客員教授 岩本沙弓)の最終回は「社会的共通資本を蝕む消費税は廃止すべき」といタイトルである。興味ある部分を紹介する。
また、以下のような指摘も米公文書にありました。非常に示唆的な内容なので一部の訳をそのまま抽出します。
「法人税の一部(あるいは全部)の代替として付加価値税・消費税が資力の有効利用になるとする主張は、法人をより優先するだけでなく、農業や小売業のような自営業者を少数派に追いやることを暗にほのめかしている。(中略)米国の場合、こうした(大企業優先、その他を劣勢にする)移行を税制度の変更によって加速させる必要などあるのか、と疑問が投げ掛けられるのは当然である。利幅は薄くても農業や他の自営業は、企業で働くという環境に馴染まない(その理由はいくらでもある)人たちの重要な受け皿を提供しているのだ。」
社会全体の安定、経済の安定を考えれば大企業優位の政策ではなく、社会の受け皿として機能している中小零細企業、自営業、農業の役割について、たとえそれらの利幅が大企業に比べて薄かったとしても、重視すべきだというのです。だからこそ、特定大企業優位となる消費税・付加価値税は採用しない、というのが米国の結論でもあるわけです。
先日、日本を代表する経済学者であり、一人ひとりの人間が幸せになる経済とは何かをひたすら追求してきた字沢弘文東京大学名誉教授が他界されました。自然環境、社会的インフラ、医療・教育・農業などは社会的共通資本であって、市場競争に晒されるべきではない、という主張をされてきました。
日本の企業数の99.7%、従業員数7割を占める中小零細企業もまた社会的共通資本に近しいというのが米国の指摘ではないでしょうか。日本の社会的共通資本を蝕む消費税は廃止すべき、そうしたことを今こそ考える必要があるはずです。
資本主義の権化のようなアメリカの公文書に書かれている「消費税」に対する見方はしっかりしていると感じた。

2014年12月2日火曜日

論語


「論語」とは、今から約2500年も前の、中国の思想書である。孔子とその弟子たちの語録である。今回「全訳 論語」山田史生著を読む。その中の一遍を紹介する。
孔子日く、君子に侍するに三愆有り。言未だ之に及ばずして言う、之を操と謂う。言之に及びて言わざる、之を穏と謂う。末だ顔色を見ずして言う、之を瞽と謂う。
目上のひとに接するとき、やってはならない落ち度が三つある。語るべきじゃないのに語る。これは軽率。語るべきなのに語らない。これは陰険。相手の気持ちをおもんばからずに語る。これは無神経。
「語るべきじゃないのに語る」とは、相手がいまそれをしゃべろうとしているつてことを察していながら、ひょいと先回りしてしゃべってしまうこと。しゃべりたいという自分の都合で軽はずみにしゃべると、相手がしゃべろうとする出鼻をくじくことになる。こういう自己顕示欲の旺盛なタイプは嫌われる。
「語るべきなのに語らない」とは、訊かれてもムッツリとだまったまま自分からはしゃべろうとしないこと。口下手なのではない。しゃべったほうが相手のためによいと承知していながら、伏せておくほうが得策だとおもったら、腹黒くだまっているのである。こういうズル賢いタイプは、しばしば謙虚な人柄に見えたりするから、よけい腹が立つ。
「相手の気持ちをおもんばからすに語る」とは、相手の気持ちを掛酌せず、その場の雰囲気にも頓着せず、しゃべり放題にしゃべりまくること。まわりの状況が見えていないのである。オッチョコチョイではあるが、まだ罪は軽いとおもう(自分がそうだからだろうか)。語るべきじゃないのに語るのは、節義に反する。語るべきなのに語らないのは、信義に反する。そういう当為とおかまいなしに語りまくるのは、たんなるバカである。
紀元前の論語の中身はそのまま現代にも通じる。「相手の気持ちをおもんばからずに語る」とは、どこかの政治家のことではと思ってしまう。