2014年12月8日月曜日

子どもに貧困を押しつける国・日本


「子どもに貧困を押しつける国・日本」(光文社新書)山野良一著を読む。その中で、家族の誰かの犠牲で成り立っている子供の教育、教育費用をどうしたらいいのか。ポイント部分を紹介する。
貧困問題と社会連帯意識
お気づきのとおり、こうした「カゾクチュー」な親たちを促進してきたのが、ここまで述べてきた家族依存的な日本の教育・子育て制度や、資源配分のあり方だったと私は考えています。「家制度」という歴史的特質を引きずりながら、高い教育費の親負担が当然視されることなどを経て、気がつかないうちに私たちの思考に「カゾクチユー」な考え方が埋め込まれてしまったのではないでしょうか。
さらに言えば、80年代以降に進行してきた貧困や格差の拡大が、社会全体の共同体意識や連帯意識を失わせてきていることも世界的によく指摘されている点です。「白熱教室」で人気を博した政治哲学者のマイケル・サンデルは、あらゆるものが売買されるような市場至上主義がその流れを促進し、結果として「民主的な市民生活のよりどころである連帯とコミュニティ意識を育てるのが難しくなる」としています(サンデル2010)。日本で「無縁社会」という言葉が注目されたのも、そのことと関連があるでしょう。貧困や不平等の拡大によって、社会全体のつながりが失われていくのです。
しかし、これ以上「カゾクチュー」な考え方も、社会的な連帯感やつながり意識の破壊も進行させてはならないと私は考えます。貧困問題を考える時、単に所得や金銭的な欠乏が深刻化してきたという側面だけではなく、こうした社会全体のあり方が蝕まれている面を見過ごしてはならないのです。
もちろん、そのためには本書で述べてきたような、家族依存的な資源配分のあり方を再検討しなければならないだろうと思います。資源論を無視して、理念を変化させるということはできないでしょう。
しかし、それは経済的に困窮している家族だけを特別扱いし優遇すればいいというものではありません。簡単に言えば、できるだけ教育や育児にお金がかからない社会を作るということだと思います。それは、経済的に困窮している家族や子どもだけでなく、中流以上の家族やこどもにとっても、優しいユニバーサルな社会です。そうしたユニバーサルこそが、社会に対する不信感を緩め、子育てという営みが本来持つ「頼り頼られる」連帯意識につながるのではないでしょうか。そうした連帯意識のもとでは、親たちも自分の子どもが得た能力や技術を、社会に還元させるべきだと思えるのではないでしょうか。
子どもは社会全体の宝物という考えでいかなければ、解決策は見つからないということだ。

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