2015年3月27日金曜日

ビッグ・イシュー


先日、お茶の水で会議がったので、橋のたもとで「ビッグ・イシュー」を購入した。
浜矩子のストリートエコノミクス213を紹介する。
がんばる者しか報われなくていいのか
2015212日、安倍首相が国会で施政方針演説を行った。その調子は高ぶり、上ずっていた。のっけから「日本を取り戻す」のフレーズが登場した。取り戻したがり病が治癒に向かう兆候はみられない。
相変わらず、「人間」という言葉は、この演説の中にも登場していない。人間不在ぶりは変わっていない。「格差」もゼロ回登場だ。「貧困」は一回だけ登場している。
だが、この演説の中における「貧困」の使い方は、どうも、ピントがはずれている。そのくだりは次の通りだ。「子どもたちの未来が、家庭の経済事情によって左右されるようなことがあってはなりません。子どもの貧困は、がんばれば報われるという真っ当な社会の根幹にかかわる深刻な問題です」
ここで、まず引っかかるのが、子どもの貧困を「がんばれば報われるという真っ当な社会の根幹にかかわる深刻な問題」というふうに位置づけていることだ。がんばれば報われるのが、真っ当な社会なのか。むろん、がんばる人は報われるに値する。がんばる人が報われない社会は、確かに真っ当な社会だとはいえない。この点にケチをつけるつもりはない。
だが、がんばりたくても、がんばれない人々はどうするのか。がんばれていない人々は、社会から何ら報いを得る資格がないのか。がんばっていない者は、真っ当な社会の埒外に放逐されるしかないのか。貧困問題の根幹にあるのは、がんばることへの道を閉ざされた人々が存在するということではないのか。
家庭の経済事情が子ともたちの未来を左右してはならない。これも、それ自体としてはおっしゃる通りだ。だが、そもそも、子どもの未来を貧困の淵に追い込むような家庭の経済事情は、なぜ生じるのか。それは、その家庭の世帯主ががんばっていないからなのか。がんばっていなければ、共感に価しないのか。がんばる者だけしか報われない社会の包摂度は低い。未成熟社会だ。大人になりきれていない。
はま・のりこ1952年生まれ。一橋大学経済学部卒。エコノミスト。三菱総合研究所初代ロンドン駐在員事務所長として1990-98年英国在住。現在同志社大学大学院ビジネス研究科教授。
まさに、弱肉強食、富国強兵の世界観である。

2015年3月24日火曜日

七転び八起き


毎日新聞に連載の野坂昭如氏の「七転び八起き」が324日の第200回で終わった。最後の一部を紹介する。
14歳の夏、突然戦争が終わり、世の中が一転、何もかもすべてガラリと変わってしまった。もの心ついた頃は戦時下。お国のため命を捧げることがあたり前。成長盛りにロクな物を口にせず、授業も満足に受けられなかった。ぼくら昭和ヒトケタ世代はかなり特別な少年時代を過ごした。
やがてウロウロするうち経済大国、戦後はその繁栄の恩恵を十分に受けて、ギクシャクしながらも生きてきた。ぼくらの世代にも責任はある。70年前の今頃、大日本帝国は瀕死の状態だった。 310日の東京大空襲で10万以上の命が失われ、それでもまだお上の暴走は続く。4月、ひたすら本土防衛のための沖縄戦がはじまる。沖縄県民の命を盾として、いたずらに死者を増やすし、約20万の命が棄てられた。
この唯一の地上戦によって沖縄は本土の捨て石とされた。今なお、それは続く。52425日東京空襲、山の手が焦土と化した。65日神戸に空襲、これによってぼくの家族、家も焼失。人生が大きく変わった。70年前、昭和20年の今頃に生きていた大人達は何を考えていたのだろうか。子供だったぼくの目にうつる身近な大人は、上辺平静だったように思う。列島は空襲の嵐、戦争が迫っていた。お上の制度は猫の目の如く変転、変わりないのは強気な大本営発表だけ。
普通に考えれば日本の負け、と見当つくはずだが、大人達に焦燥の色も諦めた感じもうかがえなかった。今の日本がどんな状態なのか、ぼくにはよく判らない。ただぼくなりに冷え冷えと眺めている。この歳では眺めるしかない。あの命の危機を目前にしていた時代とはまるで違う。だが今日あるが如く明日もあるとみなして、具体的に破滅を回避する手段を講じない。今も昔も同じ。大人達は思考停止じゃないのか。
飢えに苦しんだ経験をあっさり忘れ、食い物は他国にまかせ、その食い物の大半を廃棄し続けている。危なっかしい原発、安心、安価、クリーンは嘘だった。ツケは子孫にまわす。年金、健康保険もそう長くないだろう。
日本には金があるという。債権国だといったところでドルという紙切れ。1000兆を超えた国公債の利子払いもある。これを免れるには極端なインフレしかない。モノ不足の再来は遠くないだろう。現状維持を最優先、後はすべて先送り。危機感を持たず、リスクを避けてきた日本。敗戦から何を学んだか。震災、原発事故から何を学ぶのか。
戦後70年、平和は奇跡的に続いた。安倍首相悲願の憲法改正は日本を破滅に追いやるだろう。戦争というものは気づいた時にははじまっている。今、戦後が圧殺されようとしている。
破滅に追いやらないために、今何をしなくてはいけないのかを考えたい。

2015年3月18日水曜日

援助への期待


毎日新聞連載の海原純子氏の「新・こころのサプリ」は時々紹介するが、今回は「悲しき男性目線」というタイトルで「支援」について書いている。一部紹介する。
ハーバード大学のカワチ教授の論文に、社会的むすびつきと心の状態には男女差があり、女性は男性よりも周囲の人々の悩みに共感したり、同じように悩むということが書かれていたのを思い出した。意識の中で、支援は形になった直接的なものととらえている男性も多いのかもしれない。
実際、講演会で「心の健康といっても、リストラや収入低下で悩んでいる場合、その状態が改善しなければ心の健康が保てるはずはない」という男性参加者がいるのも事実だ。そんな時「私は収入を改善することはできません。しかしストレスフルな状況の中で、いかに生きるかという視点でのサポートをします」と答えている。
支援にはさまざまな形がある。目にみえるお金やものは直接支援だが、その他情報支援、共感支援、援助への期待という支援がある。援助への期待という支援は、以前にも書いたが「あの人が何かしてくれるかもしれない」という信頼感と期待感をもてる人がいることであり、目にみえないが心理的に大きな力となる。 
直接的な支援しか支援としてとらえられないなら、ものがなくなった時は大変なストレスになるだろう。これは男性の心の健康にとって大問題。支援に対する認識について、みなおしてほしい。目にはみえないが心のつながりやあたたかい一言が心を救うことに気づいてほしいと思う。(日本医大特任教授)
私も最近、支援に仕方について考える事が多くなった。お金でできる範囲でなるべくやろうと思ってきた。しかし、「援助への期待」という支援もあるということを認識させられた。

2015年3月11日水曜日

自然に生きる


毎日新聞の「人生相談」の回答者の一人、白川道(しらかわとおる)氏の回答は味がある。ベストセラー「天国への階段」の作者である。以下、紹介する。
回答者 白川道(作家
数年前に病気で片方の聴力を失い、年数回、通院中です。周りはふつうに接してくれますが、やっぱり気になります。親は「結婚を」といいます。でも、そんなに長くは生きられないかもしれない。だからこそ、自由に生きたいのです。どうしたら吹っ切れますか。(30代・女性)
回答
年は取りましたが、健常者のはしくれである小生ですから、貴女の悩みを軽々しく受け取ることは難しいです。気になさらずに明るく、と言ったところで、言葉だけでの慰めにしか聞こえないでしょう。
貴女は、自由に生きたい、とおっしゃる。それは貴女に限ったことではなく、人間誰しもが願うことです。しかし現実は、健常者であっても皆が皆自由に生きているわけではありません。日々の生活へ苦しいことや我慢しなければならないことを抱えながら生きているのです。生きるということは大変なことなのだ、とこの年になってもつくづく感じています。
10年ほど前、小生が書いた「天国への階段」を読んでファンになったという若い女性に会いました。両親と4人で食事を、ということになったのです。彼女は幼いときに、両耳の聴覚を失い、会話は身ぶり手ぶり、相手の表情を見ながらというものでしたが、大変、心を動かされました。ふつうの人となんら変わらぬほどに明るく素直な女性だったからです。
その彼女は縁あって、近々結婚するのだという。相手の方は健常者のごくふつうの人でご両親も周囲の人たちも、同情からというのではなく、心から祝福されているのを知り、心温まるのがありました。彼女は自由に生きるというより、自然に生きているのですね。
自由というのはなんなのでしょう。それを求めるより、自然に生きる、ということのほうが大切なのではないでしょうか。
氏は、ギャンブルや株の世界で栄光と挫折を味わってから、作家になった。
「自由に生きるというより、自然に生きる」はいい言葉である。

2015年3月9日月曜日

返報性原理


毎日新聞の鹿島茂氏の「引用句辞典」から今回は、「強い返報性原理」の一部を紹介する。
人が暴力で死ぬ確率は、狩猟採取時代と現代を比較すると、戦争や内戦を勘定に入れても十分の一以下に低下している。つまり、人類が紛争解決で暴力に訴える率は長いスパンで見ると明らかに低くなっているのだ。
では、この「進化」はどのようにしてもたらされたのか? これまでの説明は、近い未来において再び会う可能性のある人には悪よりも善を施した方が得という「損得計算(打算)の原理」からなされてきたが、近年の認知科学の実験により、人間はこれとは異なる「強い返報性原理」に支配されているという説が有力になっている。
すなわち、親切をしてくれた人には親切で、不親切をされた人には不親切で報いるのが普通の「返報性原理」であるのに対し、「強い返報性原理」というのは、人から親切にされた人は赤の他人にも親切にするし、また人から不親切にされた人は赤の他人に対しても不親切にするというある意味「非合理的」な人間的心理のことを指す。
どうやら、人間というものは、損得を秤にかけて計算を働かせる「理性」よりも、親切・不親切によって引き起こされる「うれしい・むかつく」という「感情」に大きく支配された存在のようなのだ。
なるほど、この「強い返報性原理」を適用すると、ただ残虐で獣のようにしか見えないテロリストの心の中が少しだけ覗けるような気がする。そう、彼らはミリエル司教に出会えなかったジャン・ヴァルジャンのような不幸な人たち(レ・ミゼラブル)なのだ。
不正と不法と暴力を絶対に許さないリゴリズムはもちろん必要だが、「理由なく親切にする人」が出現しない限りテロリストの根絶も不可能だというのもまた真理なのである。
返報性原理と言う言葉自体知らなかった。「理由なく親切にする」ことがキーワードになりそうである。いわゆる「親切なおせっかい」が期待されていると思う。

2015年3月6日金曜日

サヨナラダケガ人生ダ


赤旗の日刊紙に3月より、坪内稔典氏の「文学のある日々」が月1回掲載される。楽しみである。氏は文学のつまみ食いが大好きと言っている。私もほとんど、つまみ食い状態。今回は唐の詩人の有名な言葉を紹介している。
先日、私は卒業するゼミの学生に次の詩句を贈った。
 
花発いて風雨多し 人生別離足る 
中国・唐代の詩人、宇武陵の「勧酒」という詩の後半だ。
前半は「君に勧む 金屈后/満酌辞もちするを須いず」だが、
次の井伏鱒二の訳(『厄除け詩集』)は原詩よりすてきかも。

コノサカヅキヲ受ケテクレ

ドウゾナミナミッガシテオクレ

ハナニアラシノタトへモアルゾ

「サヨナラ」ダケガ人生ダ

ほんとうは、「サヨナラ」ダケガ人生ダ、と書けばよかったのだが、「花発いてと書いて色紙を学生に渡したのは、つまみ食いにちょっと格好をつけたのだった。
3月は別れの時期である。「サヨナラダケガ人生ダ」

 

2015年3月3日火曜日

どもりとインタビュアー


ちくま文庫の「独特老人」後藤繁雄著を読む。この中で、後藤氏が鶴見俊輔氏をインタビューしている文章がある。なかなか興味深いインタビューになっている。その一部を紹介しよう。
鶴見―あなたは昔から人見知りしないんですか。
後藤― いやします。というよりはっきり言って人は好きじやないです。人はおっかないし。僕は今でこそこうやって喋っていますが、生まれつき「どもり」なんですよ。だから二十歳近くまで、電話で話したことがまるでありません。みんな信じてくれないけど()。体調が悪くなると、今でもすぐどもりがまたはじまる。それは恐いですよ。人に笑われてもいいやと思えるようになって、この仕事をしだして、セラピーみたいな気分でやってるうちにインタビューとかすることになった。
「どもり」だったんで、他人の微妙なしぐさや、兆候を読むようになったのかもしれないなと最近思いますね。
鶴見― 人に逢うのが苦じゃない人はインタビュアーにはなかなかなれません。そういう人は、人は自分と同じだっていう信念を持ってズカズカ入っちゃう。隙間がないから。
後藤― そうかもしれませんね。
鶴見― 「人間、みんな欲張り」だと思ったり、「一皮むけばみんな金と女」だとか、そういう信念をもってズカズカ入ってきちゃう人は、質問にならないでしょ。
後藤― 「どもり」というのは不思議ですよ。意識では喋れているのに、コトバにはなってくれない。体とコトバって一緒じゃないのがはっきりわかるし。普通はコトバってものが自分を他人に対してつくってくれるのに、僕の場合逆だった。だから、絵を描いたり、八ミリ映画を撮ってたんです。作品を見てくれれば、僕は何も喋らなくていいでしょ。だけどある時に、それじゃ、つまらないと思った。自分をおもちゃにするというか、恥ずかしい目に遭わせたり、珍道中に出かけさせたり、自分を使った実験ですよ。
知らないところに行き、知らない人に逢う。それって恐いけど。それを克服していけばリラックスできる。もうそれ以上やらなくていいんですから。それから,子どもの頃いつも不思議に思ってたのが、TVのトークショーがあると、「自分の意見」っていうのをみんな言いますね。でも、その人が「自分の意見」だと思ってることは、他人の本を読んだり、誰かの話を聞いて出来上がったものでしょう。それがどの段階で「自分の意見」ってものになるのか。みんな、よく喋れるなあと思ったんです。僕は「自分」ってものなんてないほうがリラックスできるのにって思ってましたから。
鶴見 ()。面白いね。非常に深い問題だ。
独特の個性を持つ老人の言葉と、インタビュアーの掛け合いが面白い。どもりとインタビュアーの記述は面白い。人と会うのが苦手な人でないとインタビュアーにはなれない。まさにその通りだと思う。物事を簡単に割り切ってしまってはいけない。