2015年3月3日火曜日

どもりとインタビュアー


ちくま文庫の「独特老人」後藤繁雄著を読む。この中で、後藤氏が鶴見俊輔氏をインタビューしている文章がある。なかなか興味深いインタビューになっている。その一部を紹介しよう。
鶴見―あなたは昔から人見知りしないんですか。
後藤― いやします。というよりはっきり言って人は好きじやないです。人はおっかないし。僕は今でこそこうやって喋っていますが、生まれつき「どもり」なんですよ。だから二十歳近くまで、電話で話したことがまるでありません。みんな信じてくれないけど()。体調が悪くなると、今でもすぐどもりがまたはじまる。それは恐いですよ。人に笑われてもいいやと思えるようになって、この仕事をしだして、セラピーみたいな気分でやってるうちにインタビューとかすることになった。
「どもり」だったんで、他人の微妙なしぐさや、兆候を読むようになったのかもしれないなと最近思いますね。
鶴見― 人に逢うのが苦じゃない人はインタビュアーにはなかなかなれません。そういう人は、人は自分と同じだっていう信念を持ってズカズカ入っちゃう。隙間がないから。
後藤― そうかもしれませんね。
鶴見― 「人間、みんな欲張り」だと思ったり、「一皮むけばみんな金と女」だとか、そういう信念をもってズカズカ入ってきちゃう人は、質問にならないでしょ。
後藤― 「どもり」というのは不思議ですよ。意識では喋れているのに、コトバにはなってくれない。体とコトバって一緒じゃないのがはっきりわかるし。普通はコトバってものが自分を他人に対してつくってくれるのに、僕の場合逆だった。だから、絵を描いたり、八ミリ映画を撮ってたんです。作品を見てくれれば、僕は何も喋らなくていいでしょ。だけどある時に、それじゃ、つまらないと思った。自分をおもちゃにするというか、恥ずかしい目に遭わせたり、珍道中に出かけさせたり、自分を使った実験ですよ。
知らないところに行き、知らない人に逢う。それって恐いけど。それを克服していけばリラックスできる。もうそれ以上やらなくていいんですから。それから,子どもの頃いつも不思議に思ってたのが、TVのトークショーがあると、「自分の意見」っていうのをみんな言いますね。でも、その人が「自分の意見」だと思ってることは、他人の本を読んだり、誰かの話を聞いて出来上がったものでしょう。それがどの段階で「自分の意見」ってものになるのか。みんな、よく喋れるなあと思ったんです。僕は「自分」ってものなんてないほうがリラックスできるのにって思ってましたから。
鶴見 ()。面白いね。非常に深い問題だ。
独特の個性を持つ老人の言葉と、インタビュアーの掛け合いが面白い。どもりとインタビュアーの記述は面白い。人と会うのが苦手な人でないとインタビュアーにはなれない。まさにその通りだと思う。物事を簡単に割り切ってしまってはいけない。

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