2015年5月30日土曜日

原発をなくさない理由


513日に載せた「フクシマ2013japanレポート」にジャーナリストの岩上安身氏の文章を紹介する。
日本のような地震国に原子力発電所をつくるのは、馬鹿げたことだし非常に危険である。「そのリスクは莫大です。安価な技術だと言いますが、とんでもない。福島が良い例です。小さい人口が密集した日本のような国に事故が起きた場合、はかりしれない被害が発生し莫大な損失になります。それがはっきりしているのに原発はなくなりません。なぜでしょうか。日本は核兵器を持ちたいのです。いざとなれば核兵器の保有が可能な技術とブルトニウムを蓄積しておく。それが原発を維持する理由であると思います」
これは公然の秘密だが「核の平和利用」のお蔭で、日本はいつでも核兵器を造れる状況にある。この事実も日本のメディアのタブーである。しかし反原発運動の最前線で活躍している、ノーベル文学賞受賞作家大江健三郎さんの記事でもそれは公言されている。そして当然、岩上さんはこのテーマを明確にし、報道する。「核の平和利用」の命令は、もちろんアメリカからきた、と彼は確信する。アメリカと切っても切れない仲の日本はそれを受け入れた。311以降、日本で脱原発が世論の過半数を占めても、日本の政治のトップは脱原発を実現できない。それは米国から、「日本は脱原発すべきではない」という、明確な指令を受けたためでもある、と彼は言う。
岩上さんは、アメリカの戦略国際問題研究所(CSIS)の興味深い報告のことを話してくれた。以前の国務副長官で、CSISの理事であるリチャード・アーミテージが、日米同盟の深化について述べ、最後に「原子力発電の注意深い導入は、日本にとって正しい、責任あるステップである」と記している。日本の進路を決定するのはアメリカである。そういう事情は、今も昔のままである。岩上さんは、原発を抱え込む社会の危険性から目をそらし、諦観してゆく気運が広がっていくことに対して危倶の念を訴える。
「カタストロフの直後は、日本中がショック状態でした。しかし時間がたつと、直接の被害者以外はまた平常に戻りました。政治も公的機関もメディアも、それを過去のことにして忘れるように仕向けています」
原発をなくさない真の理由は「核兵器の保有可能な技術のプルトミウムの蓄積」「日本の進路を決定するのはアメリカである」から来ているのである。

2015年5月28日木曜日

禁断のスカルペル


以前にも紹介した日経連載の「禁断のスカルペル」がそろそろ最終版を迎える。娘の腎臓を移植されて生きている内海という父親。娘純子は東日本大震災の津波で死んでしまう。その内海が、知人の娘、絵里香が親族からの腎臓移植に抵抗している。そのありかに対して内海が話しているところを紹介する。
内海はちょっと間をとって、見得を切るように続けた。「純子が亡くなって、私は気がついたのです。私は一人で生きているつもりになっていたし、何事にもまず自分というものがある、と思い込んでいた。
でもね、そうじゃなかった。今度の震災でよくわかったんです。私はね、私一人じゃなく、例えば死んだ娘や、家族や、知り合いや、仲間や、その他の者たちとの記憶を共有していて、その記憶がなかったら、私は私じゃないんだ。そういう時間を取り除いたら、私ってものが消えてしまう。
私が生きるというのは、そういう他の者との繋がりで生きているんであって、一人で生きているんじゃない。死んだ者についていえば、私は震災を生き残った者として、死んだ純子や他の多くの者たちの記憶を整理して、自分の心の中にあの者たちが住まう場所を作らなきゃいけない。そういう心の手続きをとらなきゃ、私は生きていけない。何というか、そういう意味で、私というのは彼らの記憶そのものなんですよ。
だから純子は私が思い出すかぎり、私と一緒にいるんです。あの子がくれた腎臓は、それを思い出すための縁(よすが)なのです。腎臓に娘の霊が宿っているとか、そんなことでもないし、あの子の腎臓があの子そのものである訳でもない。
いいですか? 偉そうなこと言うようだが、私たちの人生に意味があるかどうかなんて、実はわからないんだ。生命に意味があるかどうかも、わからない。じっさい、人間は生きて、死ぬのを繰り返すだけなのかも知れない。
だけど、絵里香ちゃん、ふと周りを見渡せば、私たちが死んだら、悲しむ者が確実にいるんです。私にとっては純子がそうだった。純子は私を死なせたくないばかりに、自分の身体の一部をくれた。そして今、その思いが私を生かしている。
純子が死んでよくわかったんです。なぜ娘の代わりに自分が死ななかったか。悲しくて悲しくて、自分も死にたいと思ったとき、よくわかった。
私の死を必死で食い止めようとする者たちを、悲しませないためにも、私は生きなきゃならない。罪だとか負債だとか言っていられない。私はあの者たちのお陰で生きる意味を知った。あの者たちのためにも生きなきゃならないんです」
1年の連載であったが、作者、久間十義の言いたいことが凝縮されていると感じた。

2015年5月26日火曜日

自分を耕せ


私の恩師の河合聡元岐阜薬科大学教授が「自分を耕せ」という本を西田書店から出された。先日お世話になった民医連薬剤師が9人先生の自宅を訪問した。その時に本を頂いた。その中の「メディアの分野」の一部を紹介する。
「マスコミに世論誘導の意図があることは事実です。その影響力には侮りがたいものがあります。とくに多くのメディアが足並みをそろえた時の効果は抜群です」と渡辺治は警告します。なぜそうなるのか。「その理由はマスコミの執行部論説委員らが保守支配層の『常識』を共有しているからだ」と彼は説明しています。その『常識』とは二つあって、1つには大企業の世界競争激化の下、企業の競争力強化のために構造改革は不可避だといぅ考えです。構造改革とは大企業の負担を軽減し、かつ国の財政肥大を抑えようというものです。当然消費税増税や社会保障の削減などによって国民に負担を強いることを意味します。
『常識』のもう一つは、日本の大企業が世界の自由市場で恩恵を受けるためには日米同盟を強化し世界の秩序維持のために貢献すべきだという考えです。
この二つを内容とする『常識』を共有するため、民主党が自らのマニフェストに反してまで消費税率値上げの政策を打ち出したとき、多くのメディアが足並みを揃えたように歓迎の論陣を展開したのはよい例だと渡辺治は言います。
消費税増税不可避論をあおり続けた大手紙の熱意は異様でした。「消費税増税なしに安心は買えぬ」「国家・国民のために消費税増税は必要だ」といった調子です。公権力の監視こそ新聞の役割なのに、権力の代弁者になり下がったのですから驚きです。
「民主党の消費税増税政策に失望した有権者は民主党政権を見限ったが、これまで一貫して反対してきた共産党や社民党に民主党離れの票がなぜ流れないのか」と渡辺は読者に問いかけます。
「たしかに消費税引き上げはいやだ。しかし、かといって共産党の言うように、軍事費を削って、安保体制が揺らいで日本の安全は守れるのか。今や経済はグローバル化の時代だ。日本の経済の国際競争力を低下させてはならない。大企業に負担を求めると企業の海外進出を促し国内産業の空洞化が起きないか心配だ」。こうした危倶から有権者は第三極と呼ばれる政党に流れる結果になるのだと渡辺は解析します。有権者の迷いを掻き立てるのにもメディアが大きな役割を果たしているのです。
こうしたメディアの姿勢について「メディアが打ち出したこうした報道姿勢に抵抗して現場報道記者たちは頑張っているわけですが、巨大メディアも巨大企業体としての性格を持っており、しばしば経営体の論理を優先させ、広告収入の減少に対応することを迫られることになります。併せて現場の報道記者たちも言論人である前に企業人となり自分の昇進のために指導部の報道方針に反しないように心がけるようになります」と渡辺は解説します。そして、「現代のマスメディアは戦時期より悪質だ」と言い切ります。
最近のメディアは、NHKを筆頭に、本当にひどいと思う。

2015年5月21日木曜日

フクシマ2013 Japanレポート3.11


フクシマ2013」Japanレポート3.11 を読む。著者は「ユディット・ブランドナー」オーストリア人である。原発事故災害に焦点を絞り、福島を訪れ、被災地に留まり、悲惨な現状を打開しようと人々に会い、インタビューをしている本である。訳者フランドル紀子氏のあとがきの一部を紹介する。
強制避難者も、統計には把握されていない「自由意思」で福島を去った多くの人々も、いまだに目的地のない旅を続けているーー 彼らは自国の中の避難民なのだーー
「人の営みの記憶は、すべてどこか特定の土地、場所と結びついている。その土地から離れて存在しているのではない。そうした、人生の思い出が刻み込まれた土地が汚されてしまった。そこにはもうもどれない・・・」(岩上安身)それがすべての悲しみの根源なのだ。
私の友人のオーストリア人たちは「フクシマはどうなっているのだ」と、頻繁に心配して聞いてくれます。また誰もが「汚染水」の現状をよく知っていて「日本のような最新のテクノロジーを持った国が、いつまでなんと酷い地球環境汚染を続けていくつもりだ」と怒ってもいます。また最近の「数年内に建屋を壊す」という方針は、福島に残っている子供達や、「除染」で帰還させられた人々へのリスクを、どこまで無視しろというのでしょうか。
ところが東京の知人の多くは、ほとんど福島の事を忘れたかのようです。福島のことを話すと「雰囲気が壊れる」という人さえいます。先日上野の駅前で「福島」を呼びかけているいましたが、誰一人として振り向く人はいませんでした。
なにごともなかったかのように、忘れてしまうのがいいというのでしょうか。現日本政府が希望するように、次の大災害が起こるまでは・・・。
七十年代に、日本が原子力発電を導入したときに、反対をしなかったから、間接的責任があると思っている人は、どうかその考えを捨てて下さい。あの当時の大衆は「未来のエネルギー原子力の平和利用」という言葉に、誰もがだまされていたのです。原子力の本当の恐ろしさを知った今こそ、本気で反対運動をしなければなりません。日本人の七十パーセントが、原発は要らないと思っているのですから、皆で力を合わせれば必ず全廃できます。世界中の、日本と日本人を愛する人達が応援してくれています。がんばりましょう。
もう、福島の避難者のことなど忘れたように暮らしている私達。事あるごとに思い出すことが大切である。

2015年5月13日水曜日

きけわだつみのこえ


日経のエッセイ「半歩遅れの読書術」に、今回は詩人の道浦母都子氏の「戦没学生の無念・処刑を前に明日をしのぶ」と言うエッセイが掲載されている。長いが全文を紹介する。
昔もなく 我より去りし ものなれど 書きて偲びぬ 明日という字を 木村久夫
忘れがたい一首といわれると、つい、この歌が浮かんでくる。
『きけわだつみのこえー日本戦没学生の手記』(現在は岩波文庫など)を手にしたのは、高校時代。図書館で見つけ、家に持ち帰り、一気に読んだ。当初、「日本戦没学生」という言葉の意味がよくわからなかったが、読み進むうちに、「学徒兵」と呼ばれる勉学途中で戦場に赴き、生命を失った人たちのことだと理解できた。
学生の立場なのに戦場にいかなければならなくなり、ついには死に至った人たち。その心情を細かく描いた一人が、先述の木村久夫氏である。
彼は大阪府出身、昭和十七年四月に京都大学経済学部に入学。その年の十月に入営。戦争終了後、シンガポール・チャンギー刑務所で、戦犯として刑死。二十八歳での死である。
先の一首は、処刑を前にしての思いを託しての歌であり、当時の彼の心境を如実に物語るものでもある。
木村氏の遺書は、死の数日前、偶然、手に入れた田辺元著『哲学通論』の余白に記されたもので、「日本は負けたのである。全世界の憤怒と非難との真只中に負けたのである」「私は死刑を宣告せられた。誰がこれを予測したであろう。」年齢三十に至らず、かつ、学半ばにしてこの世を去る運命を誰が予知し得たであろう」「私は何ら死に値する悪をした事はない。悪を為したのは他の人々である」
日本の敗戦、それに伴って、自らの身にふりかかった戦犯という格印。学問半ばで死んでいかねばならない悔しさ。自分は本当に死ななければならない罪を犯したのか。
揺れる心情が細かく記され、処刑前には、「私の命日は昭和二十一年五月二十三日なり」と記しているが、別のところでは命日は誕生の日にしてはしいとの記述も残されてある。  
生き続けたい。だが、死んでいかねばならない自分。それを見据え、「明日」という字を書いて偲ぶ作者。彼の来し万を重ねながら読むと、自然と熱いものが、こみあげてくる。
たまたま、彼の生家が、私の住む大阪・吹田市内であったことから、私は彼の墓を探しあて、墓詣もした。
近年、戦犯とされた彼の死を深く掘り下げた加古陽治編著『真実の「わだつみ」』(東京新聞)、木村氏の上官だった鷲見豊三郎氏による『或る傍観者の記録』()が刊行され、彼にあらたな光が投げかけられている。
「学徒兵」、学業半ばでの戦場への出兵。それを余儀なくされた当時の学生たち。今の若者は、そうした事実をどのように、受けとめるのだろう。(歌人)
わずか70年前の学生の姿である。あらためて「きけ わだつみのこえ」を読んでみたい。

2015年5月8日金曜日

帰還兵はなぜ自殺するのか


帰還兵はなぜ自殺をするのかを読む。アフガニスタン、イラクに派兵された200万人の兵士のうち、50万人がPTSDTBIに苦しんでいるという。その本の訳者のあとがきを紹介する
訳者あとがき
「ワシントン・ポスト」紙で二十三年間にわたって記者として働き、二〇〇六年にピュリリツアー貨を報道部門で受賞したデイヴィツド・フィンケルは、イラク戦争に従軍する兵
士たちを取材するために新聞社を辞めてバグダッドに赴いた。そして二〇〇九年に『TheGood Soldiers』を上梓した。これは、二〇〇七年四月から1年間にわたって、陸軍第十六歩兵連隊第二大隊の兵士たちと生活を共にし、緊張に満ちた日常と死と隣り合わせの戦闘を詳細にレポートしたものである。
それで終わるはずだった。「ジャーナリストとしてこの仕事をやり遂げた。それを私は誇りに思った」とフィンケルはQ&Aのインタビューで語っている。ところが、それで終わらなかった。バグダッドで知り合った兵士たちが、帰還後に電話やメールや手紙で不調を訴えてきたからである。
兵士たちが日常にすんなり戻れないことや精神的なダメージを抱えて苦悩していることを知ったフィンケルは、「私の仕事は半分しか終わっていない。戦争の後を取材しなければならない」と決心した。そして彼は兵士本人はもちろん妻子や身内にいたるまで時間をかけて取材し、ペンタゴンの上層部や医療関係者からも、丁寧に聞き取りをおこなった。
こうして書き上げられたのが本書である。アメリカでは二〇十三年に出版された。完成された十六の章から浮かび上がってくるのは、戦争の後の苦痛に満ちた人間の姿であり、
無力感にとらわれる家族の姿であり、焦燥感に苛まれる医療従事者や陸軍の上官たちの姿だった。
イラク戦争は、イラクが大量破壊兵器を隠しているという理由でアメリカがイラクに侵攻したことから始まった。二〇〇三年の三月のことである。その裏には、9ll以降のアメリカの不安と、石油問題や宗教問題があったと言われているが、国家の威信を守るために直接戦地で戦ったのは、大半が貧困家庭出身の若い志願兵だった。第十六歩兵連隊第二大隊の兵士の平均年齢は二十歳だった。
そして戦争が終わり、兵士は英雄となって帰ってきたように見えた。ところが、日に見える身体的な損傷はなくても、内部が崩壊した兵士たちが大勢いることがわかった。アフガニスタンとイラクに派兵された兵士はおよそ二百万人。そのうち五十万人が、PTSD(心的外傷後ストレス障害)TBI (外傷性脳損傷)に苦しんでいるという事実が明らかになった。そして残された問題は、精神的な傷を負った兵士たちをどのように治していくのか、果たして治せるのか、というものだった。
 日本の時の政府は、このような事実を知っているのか。イラク支援のために自衛隊員がのべ1万人派遣された。イラクから帰還後に28人が自殺したことが報道されたのは1年前の事である。