2015年5月28日木曜日

禁断のスカルペル


以前にも紹介した日経連載の「禁断のスカルペル」がそろそろ最終版を迎える。娘の腎臓を移植されて生きている内海という父親。娘純子は東日本大震災の津波で死んでしまう。その内海が、知人の娘、絵里香が親族からの腎臓移植に抵抗している。そのありかに対して内海が話しているところを紹介する。
内海はちょっと間をとって、見得を切るように続けた。「純子が亡くなって、私は気がついたのです。私は一人で生きているつもりになっていたし、何事にもまず自分というものがある、と思い込んでいた。
でもね、そうじゃなかった。今度の震災でよくわかったんです。私はね、私一人じゃなく、例えば死んだ娘や、家族や、知り合いや、仲間や、その他の者たちとの記憶を共有していて、その記憶がなかったら、私は私じゃないんだ。そういう時間を取り除いたら、私ってものが消えてしまう。
私が生きるというのは、そういう他の者との繋がりで生きているんであって、一人で生きているんじゃない。死んだ者についていえば、私は震災を生き残った者として、死んだ純子や他の多くの者たちの記憶を整理して、自分の心の中にあの者たちが住まう場所を作らなきゃいけない。そういう心の手続きをとらなきゃ、私は生きていけない。何というか、そういう意味で、私というのは彼らの記憶そのものなんですよ。
だから純子は私が思い出すかぎり、私と一緒にいるんです。あの子がくれた腎臓は、それを思い出すための縁(よすが)なのです。腎臓に娘の霊が宿っているとか、そんなことでもないし、あの子の腎臓があの子そのものである訳でもない。
いいですか? 偉そうなこと言うようだが、私たちの人生に意味があるかどうかなんて、実はわからないんだ。生命に意味があるかどうかも、わからない。じっさい、人間は生きて、死ぬのを繰り返すだけなのかも知れない。
だけど、絵里香ちゃん、ふと周りを見渡せば、私たちが死んだら、悲しむ者が確実にいるんです。私にとっては純子がそうだった。純子は私を死なせたくないばかりに、自分の身体の一部をくれた。そして今、その思いが私を生かしている。
純子が死んでよくわかったんです。なぜ娘の代わりに自分が死ななかったか。悲しくて悲しくて、自分も死にたいと思ったとき、よくわかった。
私の死を必死で食い止めようとする者たちを、悲しませないためにも、私は生きなきゃならない。罪だとか負債だとか言っていられない。私はあの者たちのお陰で生きる意味を知った。あの者たちのためにも生きなきゃならないんです」
1年の連載であったが、作者、久間十義の言いたいことが凝縮されていると感じた。

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