2011年6月29日水曜日

復興構想会議

626日、政府の「復興構想会議の提言」が出た。中身をみると、地元の人々の意見も聞かずに、よそ者が上から目線で考えたとしか言いようのない構想が多い。例えば、都市機能の中枢を高台に移転するとか、漁業への民間参入を促す「特区」の導入とか・・。東北の人々の人間の繋がりや、自然との関わりを考えた復興の設計図が今こそ必要である。内橋克人編「大震災の中で」(岩波新書)の中で「湯浅誠」氏は以下のように述べている。以下抜粋。

今回の大災害が、さまざまなものの転機になってくれればと私自身も思う反面、壮大な文明史観を持ち出すような前のめりの言説に違和感を抱くのは、それが「事件」の切断面にのみ着目しているように見えるからだ。
その人たちは「すべてが流されてしまったのだから、この際・・・」と、この機会を捉えようとする。そして復興プロセスに夢を託す。これまで、自身の生活、自身の住む社会において実現できなかった夢が、どうして「この際」なら可能なのかといえば、この「事件」によってすべてが切断され、更地になり、リセットされたと考えるからだ。しかし、そこでは被災地で連綿と続く「生活」が忘れ去られている。復興プロセスは、被災地のこれからの「生活」を左右する。逆から言えば、被災地の「生活」は復興プロセスによって振り回される。にもかかわらず、被災地の「生活」を軽視した復興プロセスが行われるのだとしたら、それは二次災害である。
だから私は、それを「便乗復興論」と呼ぶ。「便乗復興論」には、被災地の「生活」がないことの原因あるいは帰結として、論者自身の「生活」もない。大災害前から連綿と続き、良くも悪くも一人ひとりがそれに縛られている「生活」がなく、まるで「事件」がすべての経緯・文脈・歴史・「生活」から人々を解き放ったかのように、「事件」の切断面周囲に浮遊する。したがって、歴史的な事件だと強調しながら「便乗復興論」には歴史性がない。それに対しては、あんたの夢は、あんたの責任において、あんたの生活において実現してくれ、あんたの夢に被災地の生活を巻き込むな、と言いたくなる。

あんたとは、復興会議の面々である。「便乗復興論」とは言いえて妙である。

2011年6月27日月曜日

立ち止まって考えよう

たびたび、北川達夫氏の「対話力入門」からの引用をだすが、なぜかと言うと、やはり最近のテレビの討論会をみていても、いろんな政治家や知識人と言われる人々を集めてやられているが、大部分の人が、人の意見を聞かないで自分の意見をやたらと披露することが多いからである。ひどい人になると、他の人が発言中に遮ってしまって、自分の意見をひけらかすのだ。こういう時は司会者がうまく進行役をしてくれればいいのだが、中には司会者がやたらと自分の意見を述べまくる場合もある。
こんな討論会や、テレビショーはみないことだ。
 以下、抜粋
コミュニケーションで、いちばん大切なことは何ですかこのように問われたら、私は迷わず「相手の話をよく聴くこと」と答える。その最も単純な理由は「相手の話を聴かなければ、自分の話も聴いてもらえないから」。他人の話を聴かないような人間の主張など、誰が聴くものか。感情的な要因に加え「この人に何を言ってもムダだ」という諦念も働くため、まともなコミュニケーションが成立しなくなってしまうのだ。これは対話以前の問題である。だが、「議論が得意だ」「国際的に活躍している」と自称する人に限って、他人の話を聴かないという、不思議な傾向が見られる。きっと自分が一方的にまくしたてることによって、議論や国際社会を乗り切ってきたのだろう。そして、どこでも、まともなコミュニケーションを成立させることができないまま、孤独と無聊をかこっていたに違いない。一方的にまくしたてる人間は、少なくとも私の知るかぎり、世界中のどこへ行っても通用しないはずだ。相手の話を聴くといっても、単に黙って拝聴すればよいというものではない。理解できないところは理解できるまで質問し、納得できないところは納得できるまで質問して、初めて「聴いた」といえる。こうすることで、自分と相手との間に「理解」と「納得」を構築することができる。これは対話の基本技能だ。さまつな質問を乱発して嫌がらせをする人もいるが、本当に理解と納得を求めているかどうかは、相手にも、そして周囲の人々にもわかるものだ。
無聊(ぶりょう):たいくつなこと。
議論は、相手の話をしっかり聞くことから始まる。

2011年6月24日金曜日

自己表現としての政治

鹿島茂氏は毎日新聞の「引用句辞典」というコラムの中で、次期首相選びと題して以下のようなことを言っている

時期首相選びに出てくる顔ぶれをみるといまひとつの人材ばかりである。政治家には絶対あってはならない資質である「虚栄心」の持ち主がすくなくないように思えたからだ。もちろん、虚栄心はだれにでもある。第一虚栄心がなければ政治家になろうとなどしないだろう。問題は、政治家の虚栄心が「自己表現願望」となって現れてくることにある。すなわち「俳優のようにふるまい」、「自分の行為が与える『印象』ばかりを気にする」ようになったら最後、政治は「国民のための政治」などではなく「自己表現のための政治」となってしまう。
民主党政権が生んだ二人の首相、すなわち、鳩山由紀夫と管直人にはこの「白己表現としての政治」の疑いが強い。彼らは、国家戦略を定め、なにかしらの政策を実現せんがために政治家になったというよりも、ただ虚栄心の満足を得たいがために、すなわち「ド-ダ、まいったか、このオレは凄いだろう」と思わせたいために権力を目指したとしか思えないのである。彼らをこうした「自己表現としての政治」に追いやったのは、小泉純一郎元首相の劇場型政治に喝采を送ったマスコミであり、そのマスコミの「ぶら下がり」報道をスポーツ観戦でもするように喜んで眺めていたのは国民なのだ。国民のなかに潜む自己表現願望が「自己表現系の政治家」を次々につくりだしてしまったのである。では、自己表現系でない「まっとうな政治家」となるには、どのような資質が必要なのか?それは情熱と責任感と判断力、なかで一つだけといったら判断力ということになる。すなわち、仕事への「責任感」という形をとる「情熱」がまず不可欠だが、しかし、その情熱は判断力によって裏打ちされたものでなければならないのだ。
 確かに次期首相選びで出てくる顔ぶれをみても、このような資質をもった政治家はいない。「自分の自己表現のためだけの政治」だけは遠慮したいものである。

2011年6月22日水曜日

TPP亡国論

以前にも「TPP」について書いたが、なぜ急に「TPP」なるものが出てきたのか疑問に思っていた。本屋に行って「TPP亡国論」(中野剛志著)なる本を購入して読んだら、なるほどこういう事だったのかと理解できた。詳しくは読んで欲しいのだが、本の「はじめに」の文章を読めば概略わかるので、以下紹介する。

この本を世にだすにあたって私は、何ともいえない漠然とした不安を感じています。といっても、私個人の身に何か危害が及ぶとか、そういった類の不安感とは違います。 
この本は、国家的機密情報をリークするとか、外国の陰謀をあばくとかいったものではありません。ここに書かれていることは、すべて、公開情報をもとにしています。そして、誰にでも納得できるような論理を用いて、日本のTPP (環太平洋経済連携協定) への参加について反対し、その根拠を明らかにします。それだけのことです。
では、何が私を不安にしているのでしょうか。それは、我が国における議論や物事の進み方の異様さです。まず一番怖いのは、農業関係者を除く政治家、財界人、有識者あるいはマス・メディアが、ほぼすべてTPPへの参加に賛成しているにもかかわらず、その根拠があまりに弱く、その論理があまりに乱れているという点です。この全体主義的な事態は、ただごとではありません。
私は、TPPへの参加に賛成する議論を追っているうちに、ある共通する特徴に気づきました。それは、どの議論も、戦略的に考えようとするのを自分から抑止しているように見えるという点です。たとえるならば、戦略的に考えようとする思考回路に、サーキット・ブレーカーが付いていて、あるコードが出ると、それに反応してブレーカーが自動的に落ちて、思考回路を遮断してしまうような感じです。
TPPをめぐる議論には、そういうブレーカーを働かせるコードが特に多いのです。いくつか例を挙げてみましょう。「開国/鎖国」「自由貿易」「農業保護」「日本は遅れている/乗り遅れるな」「内向き」「アメリカ」「アジアの成長」「環太平洋」
TPP賛成論には、こういったお決まりのセリフがよく出てきます。そして、こういったセリフが出てきた瞬間、論理が飛んで、TPPに参加すべきだという結論へと着地するのです。どれほど論理が矛盾していようが、どれほど現実に起きていることと反していよぅが、「TPPに参加するしかない」となり、他の結論を許さないようになっているのです。
私は、TPPをめぐる議論を検証しながら、日本人の思考回路がたくさんのブレーカーでがんじがらめになっていることに気づきました。この本は、TPPに関する是非そのものを議論するというだけでなく、それを通じて、日本人の思考回路を束縛し、戦略的に考えられないようにしているブレーカーの存在を明らかするものと思いす。
戦略的に考えられないということは、今の世の中、致命的問題です。
二〇〇八年のリーマン・ショック以降、世界は激変しつつあります。かつての世界恐慌がそうでしたが、世界的な大不況では、各国とも生き残りに必死になります。そのためには手段を選ばず、武力衝突も辞さないでしょう。
こうした中、さまざまな国が、日本に対して、うまい話やきれい事を並べながら、えげつない計略をいろいろと仕掛けてくるでしょう。私は、TPPもそのひとつだと思っています。いや、TPPなど序の口なのかもしれないのです。
このように言うと、「排外主義だ」「感情論だ」「内向きだ」と批判されるかもしれません。しかし、二〇一〇年の環太平洋地域に限っても、すでにいろいろとキナ臭芸件が起きました。特に目立った動きだけでも、例えば、中国漁船による尖閣沖の領海侵犯事件とそれをめぐる中国の対応、ロシア大統領による北方領土訪問、北朝鮮による核開発や韓国への砲撃などが挙げられます。予測不能の事態がいつ起きてもおかしくはない世の中になっているのです。
これほど厳しい世界になっているのに、ちょっと戦略的に考えようとするや否や、すぐにブレーカーが落ちて思考回路を遮断してしまう。そのような頭の構造をしているようでは、あまりにも危な過ぎます。私たちは、そんなブレーカーを一刻も早く取り外して、まずは戦略的な思考の回路を取り戻さなくてはなりません。
この本は、TPPという具体的な問題の検証を通じて、日本人の戦略的思考回路を回復させようという試みです。ですから、これからTPP以外の問題が日本にふりかかったときにも、この本に書かれた戦略的思考回路が役に立つことを狙って、私は書いています。
実際TPPというアジェンダが浮上した背景、そしてそれに対する政府、財界、知識人、マス・メディアの反応を解明しようとすると、農業や貿易はもちろん、世界経済の構造変化、アメリカの戦略、金融、財政、グローバリゼーション、政治、資源、環境、安全保障、歴史 思想、心理、精神と多岐にわたる論点に考察を及ぼさなければなりせん。しかも、これらすべての論点が、TPPを中心にして、相互につながり、絡み合っているのです。
言い換えれば、TPPという穴をのぞくことで、リーマン・ショック後の世界の構造変化、そして日本が直面している問題の根本が見えてくるのです。ですから、それらを頭に入れておけば、今後、TPP以外の政治経済的な、問題に対処するにあたっても、きっと役に立つことと思います。
TPPとはそれだけ根の深い問題なのです

以前にも書いたが、TPPなるものは「アメリカ」を利する以外何物でもないことがよくわかる。

2011年6月20日月曜日

表現するということ

 私の大学時代の恩師で、今は静岡の伊豆に住んでおられる河合先生は「新しい薬学を目指して」という会報に以下のようなエッセイを寄せています。何事にも表現していくことが大事であると。黙っていることはよくない。
表現しなければ変わらない  河合聡
日常生活の中で不思議に思うことがいろいろあります。その一つは、この7月から始まると言うテレビの地デジへの移行です。どこで誰が決めたのかあまりに身勝手な措置に思えてなりません。まだ十分使えるアナログテレビを廃棄し、地デジ用テレビを準備しなければなりません。しかも個人の負担で。テレビの画面には毎日のように地デジへの切り替えが7月に迫っていることをテロップで流しています。明らかに脅迫です。準備しない方が悪いみたいです。 しかし、鳴りを潜めたように抗議の声を不思議にあまり聞きません。かく言う私も頭の中では不思議に思いながらあまり言葉にしないのだから同類です。角を立てずに暮らしたいという気持ちが心の片隅で働いているようにも感じます。実は最近、テレビで「太郎の塔」というのを見ました。岡本太郎と母かの子の強烈な個性に圧倒されました。岡本太郎のエッセー集も読みましたが「かの子のような社会の常識と相容れない人間がどうして生まれてくるのか」「彼女のような人間像にはとてもついていけそうにないが、一方で強く引かれるものを感じる」「社会の常識からはみ出た異端が社会を変える役割を果たしてきたのは事実だ」私の率直な感想です。芸術家太郎の社会的視点もさすがに鋭いと感銘を受けました。例えば「日本人は実によく働く。働き過ぎるほど働く」これはよく聞くことですが、それに続いて太郎が言う言葉が鋭い。「こんなに働くのになぜ生活が豊かにならないのか、という疑問を日本人は持とうとしない」「それは精神文化の未成熟の表れだ」という意味のことを綴っています。何かグサリと胸に迫るものを感じます。エッセー集を読み終わって、私は一度しかない自分の「人生」に何を託そうとしているのだろうか? と今さらのようにしみじみ思いました。「自分の流儀」で生きる、というのが私の信条です。言葉としてはそれでいいのだが、問題は「自分の流儀」の中身です。私は人間だから、人間とはどんな生き物なのかを限りなく追求し、さまざまの形で表現し続けることが私の生涯の課題のように思っています。それが生きることの意味だと。とにかく表現しなければ何も変わらないように思います。日常生活の中で不思議に思ったことはやはり表現し続けていくことが大切だと改めて思います。
私も自分なりの方法で表現していきたいと思う。

2011年6月13日月曜日

戦争の条件

 梅原猛氏の「戦争と仏教」という本を読んで、以下のような文章に出会った。「戦争の条件」というタイトルでイラク戦争のことを以下のように述べている。まさにその通りである。以下、要旨。
一、自国が戦争を仕掛ける相手の国よりはるかに強い武力をもっていて、その戦争の勝利が確実であること。
二、相手の国が自国に対して敵意をもっていること。
三、戦争で勝利を収めることによって巨大な利権が得られること。
アメリカ大陸に上陸した白人たちは、その武力において圧倒的に弱体でしかも侵略者に憎悪をもつインディアンを惨殺して大陸を征服し、世界一豊かなアメリカ合衆国という国家をつくった。もちろんこれはアメリカだけではなく、アラブやアフリカ諸国を植民地にしたヨーロッパ諸国、アジア諸国を侵略した日本もほぼ同じようなことをしてきた。このように世界史をみれば、ブッシュ大統領がイラクに戦争を仕掛けようとするのはごく当然なことであるといわねばならない
上記の一、二、三は具体的には以下のようになる。
一、      他の世界各国がすべてかかっていってもかなわないような水爆を含む巨大な武力をもつアメリカがイラクに勝つことは確実である。しかも世界の各国がアメリカの強権に屈したとしか思われない大量破壊兵器の査察によって、イラクが軍事的にまったく無力化したとすれば、アメリカがイラクをやっつけるのは赤子の手をひねるようなものであろう。
二、      イラクは湾岸戦争によってアメリカに対して強い敵意をもつ。そしてブッシュ大統領()は、湾岸戦争を不十分に終結させて、フセイン大統領を生き永らえさせ、それによって父親の大統領再選を不可能にしたイラクに対して強い憎しみをもっている。親の仇を打ち次の大統領選で楽々と勝利を収めねばならない。
三、      イラクは世界第二位の原油埋蔵量をもち、それをアメリカが支配する利権は甚だ大きい。
ブッシュ大統領が過去の権力者あるいは侵略者と同じ精神をもっているとすれば、イラク攻撃をためらうことはありえなかった。このようなアメリカの子分になっている日本はやがてアメリカ以外の国々と戦うはめになるであろう。

2011年6月7日火曜日

「がんばろう日本」?「日本の力を信じてる」?

「頑張ろう日本」「日本の力を信じてる」などという言葉を聞いたり、文章をみたりすると、私などは「・・・・」となってしまう。こんな言葉を素直に聞けないのだ。
そんな思いを抱いていた時、以下の文章に出会った。
大儀を振りかざす事への反発した気持ちなのだ。
サッカーなどの応援時の「ニッポン」「ニッポン」コールもついていけないなあ。
以下、読売新聞の記事から。
井上ひさしさん没後1年…「求められる言葉」への洞察
 いま、どんな言葉が求められているのか――。3月11日以降、そう考えるたびに、東北で生まれ育ち、東北が舞台の作品を生み出してきたあの人の顔が頭に浮かぶ。存命だったら、為政者の言葉に何を思い、被災者にどんな言葉をかけただろう? 井上ひさしさんが亡くなり、この4月で1年となった。
 命日の9日に開かれた「憲法のつどい2011鎌倉」。経済評論家の内橋克人さんは壇上からこう語りかけた。「『がんばれ日本』『日本の力を信じている』と言いますが、井上さんはそういう言葉には心を寄せなかったでしょう。大義を振りかざすというのが、もっともお嫌いでしたから」
 正しいと皆が何となく信じているもの。心のどこかでおかしいと感じつつ、なかなか口にできないもの。それらに対しても発言してきたのが井上さんだった。その思いがにじみ出る未完の小説が今月、相次いで刊行された。『グロウブ号の冒険』(岩波書店)と『黄金(きん)の騎士団』(講談社)だ。
 ともに1980年代後半に書かれ、『グロウブ号の冒険』は、カリブ海が舞台の宝探しの物語。相撲の新弟子を探しに出た男の船が難破、彼が流された小さな島にはお金が存在せず、保存食を作ること、つまり貯蓄も禁止されていた……。一方『黄金の騎士団』では孤児たちが、ある切実で大きな夢を実現するために、思いも寄らぬ方法で世の拝金主義と命がけで戦う。
 2作を書いたのがバブルのまっただ中だったというのが、井上さんらしい。「金が正義」の時代に、真の幸せとは何か、違う者同士が思いやり、共に暮らせる場所は作れないか、と問いかけた。『ひょっこりひょうたん島』『吉里吉里人』から連なる「ユートピア探し」でもあったのだろう。
 3月に出た『日本語教室』(新潮新書)では、井上さんの言葉への思いに触れることができる。たとえばこんな一文から。〈言葉は道具ではないのです(略)精神そのものである〉
 作家の大江健三郎さんは「憲法のつどい」で、広島の原爆で死別した父娘を描いた井上さんの芝居『父と暮せば』のラストシーンを朗読した。自分だけが生き残ったことを「申し訳ない」と思う娘に、これからも生きろ、と父の霊が説く場面。
 〈おまいはわしによって生かされとる。(略)あよなむごい別れがまこと何万もあったちゅうことを覚えてもろうために生かされとるんじゃ〉
 朗読の後、大江さんは言った。「井上さんは広島の文献を数知れず集め、その上で一番やさしい、誰の耳にも聞き取れるようなエッセンスをくみ取り、積み立て、言葉にしたんです」
 誰も井上ひさしのようにはなれない。が、懸命に想像することはできるはずだ。いま何を言い、どう行動すべきかと。(村田雅幸)
2011428  読売新聞)

2011年6月3日金曜日

TTPとはなんぞや


TTPとは「環太平洋連携協定」(Trans-PacificPartnership)の略称で、菅首相が昨年秋にこの協定交渉に参加を検討すると言いだし、大問題になっている。世界各国では、輸入品に関税をかけることで、国内産業を保護している。TPPへの参加は、農産物を含め、すべての物品(モノ)の関税を例外なく撤廃し、自由に貿易ができることになる。物品の貿易以外にも、金融や保険、医療の規制緩和など幅広い分野を対象としている。
事実上の「日米自由貿易協定」になるのだ。日本がTPPに参加すれば、日米だけで参加国のGDP(田内総生産)全体の9割を超えることになり、アメリカ製品の日本への輸入規制が完全になくなる。
 TPPと言えば、農産物の輸入自由化の問題がメディアで大きく取り上げられているが、以下のような問題もあるのだ。以下は423日付けの「しんぶん赤旗」に載った記事である。
TPPの弊害、NGO告発  後発薬 使えなくなる  国連に書簡
 国際的な非政府組織(NGO)や学者がこのほど、国連の人権特別報告官に公開書簡を送り、交渉中の環太平洋連携協定(TPP)は加盟諸国で適切なジェネリック医薬品の入手、使用を妨害するものだと訴えました。書簡は、TPP交渉に参加している政府に勧告をするよう求めています。
 公開書簡は国連人権理事会の「万人が最高水準の保健を享受する権利」に関する特別報告官、グローバー氏宛てのもの。同書簡に署名しているのは、ワシントンに本部を置く「ナリッジ・エコロジー・インターナショナル」などの14団体・個人です。書簡は、TPP知的財産(IP)条項に関する米国の提案が承認されると、開発途上国がより安価なジェネリック医薬品を製造、輸入することができなくなり、適切な医療行為ができなくなると批判、米国による医薬品独占を図るものだと警告しました。また交渉が秘密の下に行われており、米国の影響力が過大であることも指摘しています。
 公開書簡によると、米国はTPP交渉で、世界貿易機関(WTO)の「知的所有権の貿易関連の側面に関する協定」(TRIPS)での医薬品特許尊重義務の基準を超える条項を提案しているといいます。
 公開書簡署名者の1人、「マレーシア積極的医療アクセス推進グループ」(MTAAG+)のエドワード・ロー理事は、TRIPSではジェネリック医薬品メーカーは、既存医薬品の臨床データを使う権利を認められていると強調。これに対し、TPPでの米提案では独自に臨床実験をやり直さなければならなくなり、実質的に医薬品を発売できなくなると指摘しています。

 ジェネリック医薬品 後発医薬品ともいいます。特許が切れた医薬品を他の製薬会社が製造・供給するものです。開発コストがかからないため、安価に供給できます。成分特許を認めていないインドなどの国では制約を受けずに製造され、アフリカなどへ輸出されています。

 TPPとは簡単に言えば、アメリカが深刻な経済危機から脱却するために、急成長を続けるアジアへの輸出を増やし、経済の主権を握ろうとする策謀なのだ。