2011年6月7日火曜日

「がんばろう日本」?「日本の力を信じてる」?

「頑張ろう日本」「日本の力を信じてる」などという言葉を聞いたり、文章をみたりすると、私などは「・・・・」となってしまう。こんな言葉を素直に聞けないのだ。
そんな思いを抱いていた時、以下の文章に出会った。
大儀を振りかざす事への反発した気持ちなのだ。
サッカーなどの応援時の「ニッポン」「ニッポン」コールもついていけないなあ。
以下、読売新聞の記事から。
井上ひさしさん没後1年…「求められる言葉」への洞察
 いま、どんな言葉が求められているのか――。3月11日以降、そう考えるたびに、東北で生まれ育ち、東北が舞台の作品を生み出してきたあの人の顔が頭に浮かぶ。存命だったら、為政者の言葉に何を思い、被災者にどんな言葉をかけただろう? 井上ひさしさんが亡くなり、この4月で1年となった。
 命日の9日に開かれた「憲法のつどい2011鎌倉」。経済評論家の内橋克人さんは壇上からこう語りかけた。「『がんばれ日本』『日本の力を信じている』と言いますが、井上さんはそういう言葉には心を寄せなかったでしょう。大義を振りかざすというのが、もっともお嫌いでしたから」
 正しいと皆が何となく信じているもの。心のどこかでおかしいと感じつつ、なかなか口にできないもの。それらに対しても発言してきたのが井上さんだった。その思いがにじみ出る未完の小説が今月、相次いで刊行された。『グロウブ号の冒険』(岩波書店)と『黄金(きん)の騎士団』(講談社)だ。
 ともに1980年代後半に書かれ、『グロウブ号の冒険』は、カリブ海が舞台の宝探しの物語。相撲の新弟子を探しに出た男の船が難破、彼が流された小さな島にはお金が存在せず、保存食を作ること、つまり貯蓄も禁止されていた……。一方『黄金の騎士団』では孤児たちが、ある切実で大きな夢を実現するために、思いも寄らぬ方法で世の拝金主義と命がけで戦う。
 2作を書いたのがバブルのまっただ中だったというのが、井上さんらしい。「金が正義」の時代に、真の幸せとは何か、違う者同士が思いやり、共に暮らせる場所は作れないか、と問いかけた。『ひょっこりひょうたん島』『吉里吉里人』から連なる「ユートピア探し」でもあったのだろう。
 3月に出た『日本語教室』(新潮新書)では、井上さんの言葉への思いに触れることができる。たとえばこんな一文から。〈言葉は道具ではないのです(略)精神そのものである〉
 作家の大江健三郎さんは「憲法のつどい」で、広島の原爆で死別した父娘を描いた井上さんの芝居『父と暮せば』のラストシーンを朗読した。自分だけが生き残ったことを「申し訳ない」と思う娘に、これからも生きろ、と父の霊が説く場面。
 〈おまいはわしによって生かされとる。(略)あよなむごい別れがまこと何万もあったちゅうことを覚えてもろうために生かされとるんじゃ〉
 朗読の後、大江さんは言った。「井上さんは広島の文献を数知れず集め、その上で一番やさしい、誰の耳にも聞き取れるようなエッセンスをくみ取り、積み立て、言葉にしたんです」
 誰も井上ひさしのようにはなれない。が、懸命に想像することはできるはずだ。いま何を言い、どう行動すべきかと。(村田雅幸)
2011428  読売新聞)

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