2011年6月20日月曜日

表現するということ

 私の大学時代の恩師で、今は静岡の伊豆に住んでおられる河合先生は「新しい薬学を目指して」という会報に以下のようなエッセイを寄せています。何事にも表現していくことが大事であると。黙っていることはよくない。
表現しなければ変わらない  河合聡
日常生活の中で不思議に思うことがいろいろあります。その一つは、この7月から始まると言うテレビの地デジへの移行です。どこで誰が決めたのかあまりに身勝手な措置に思えてなりません。まだ十分使えるアナログテレビを廃棄し、地デジ用テレビを準備しなければなりません。しかも個人の負担で。テレビの画面には毎日のように地デジへの切り替えが7月に迫っていることをテロップで流しています。明らかに脅迫です。準備しない方が悪いみたいです。 しかし、鳴りを潜めたように抗議の声を不思議にあまり聞きません。かく言う私も頭の中では不思議に思いながらあまり言葉にしないのだから同類です。角を立てずに暮らしたいという気持ちが心の片隅で働いているようにも感じます。実は最近、テレビで「太郎の塔」というのを見ました。岡本太郎と母かの子の強烈な個性に圧倒されました。岡本太郎のエッセー集も読みましたが「かの子のような社会の常識と相容れない人間がどうして生まれてくるのか」「彼女のような人間像にはとてもついていけそうにないが、一方で強く引かれるものを感じる」「社会の常識からはみ出た異端が社会を変える役割を果たしてきたのは事実だ」私の率直な感想です。芸術家太郎の社会的視点もさすがに鋭いと感銘を受けました。例えば「日本人は実によく働く。働き過ぎるほど働く」これはよく聞くことですが、それに続いて太郎が言う言葉が鋭い。「こんなに働くのになぜ生活が豊かにならないのか、という疑問を日本人は持とうとしない」「それは精神文化の未成熟の表れだ」という意味のことを綴っています。何かグサリと胸に迫るものを感じます。エッセー集を読み終わって、私は一度しかない自分の「人生」に何を託そうとしているのだろうか? と今さらのようにしみじみ思いました。「自分の流儀」で生きる、というのが私の信条です。言葉としてはそれでいいのだが、問題は「自分の流儀」の中身です。私は人間だから、人間とはどんな生き物なのかを限りなく追求し、さまざまの形で表現し続けることが私の生涯の課題のように思っています。それが生きることの意味だと。とにかく表現しなければ何も変わらないように思います。日常生活の中で不思議に思ったことはやはり表現し続けていくことが大切だと改めて思います。
私も自分なりの方法で表現していきたいと思う。

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