2011年6月24日金曜日

自己表現としての政治

鹿島茂氏は毎日新聞の「引用句辞典」というコラムの中で、次期首相選びと題して以下のようなことを言っている

時期首相選びに出てくる顔ぶれをみるといまひとつの人材ばかりである。政治家には絶対あってはならない資質である「虚栄心」の持ち主がすくなくないように思えたからだ。もちろん、虚栄心はだれにでもある。第一虚栄心がなければ政治家になろうとなどしないだろう。問題は、政治家の虚栄心が「自己表現願望」となって現れてくることにある。すなわち「俳優のようにふるまい」、「自分の行為が与える『印象』ばかりを気にする」ようになったら最後、政治は「国民のための政治」などではなく「自己表現のための政治」となってしまう。
民主党政権が生んだ二人の首相、すなわち、鳩山由紀夫と管直人にはこの「白己表現としての政治」の疑いが強い。彼らは、国家戦略を定め、なにかしらの政策を実現せんがために政治家になったというよりも、ただ虚栄心の満足を得たいがために、すなわち「ド-ダ、まいったか、このオレは凄いだろう」と思わせたいために権力を目指したとしか思えないのである。彼らをこうした「自己表現としての政治」に追いやったのは、小泉純一郎元首相の劇場型政治に喝采を送ったマスコミであり、そのマスコミの「ぶら下がり」報道をスポーツ観戦でもするように喜んで眺めていたのは国民なのだ。国民のなかに潜む自己表現願望が「自己表現系の政治家」を次々につくりだしてしまったのである。では、自己表現系でない「まっとうな政治家」となるには、どのような資質が必要なのか?それは情熱と責任感と判断力、なかで一つだけといったら判断力ということになる。すなわち、仕事への「責任感」という形をとる「情熱」がまず不可欠だが、しかし、その情熱は判断力によって裏打ちされたものでなければならないのだ。
 確かに次期首相選びで出てくる顔ぶれをみても、このような資質をもった政治家はいない。「自分の自己表現のためだけの政治」だけは遠慮したいものである。

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