2011年11月28日月曜日

現代型うつ

 NHKのクローズアップ現代で「現代型のうつにどうむきあうか」という番組が放映された。
今、これまでの概念では捉えきれない「うつ病」が増加していると言う。不眠に悩む、職場で激しく落ち込むといった「うつ」の症状を示す一方で、自分を責めるのではなく上司のせいにする、休職中にも関わらず旅行には出かける…。いわゆる”現代型うつ”だ。2030代の若者を中心に増え続けているとされている。従来の治療法が効きにくいことから医療現場は混乱している。さらに企業では休職者が増え、経営を圧迫。中には「怠け」と判断し、解雇したところ裁判で訴えられるケースも出ていると言う。
その番組が頭から離れなかったので、本屋に行って「鬱の力」(五木寛之、香山リカ)と言う本を購入した。以下一部を紹介する。
香山 さきほども言いましたが、統合失調症が減ってきた反面、いまは日常生活に、軽度の被害妄想が忍び込んでいます。食べ物に対する過敏症にも、妄想が混じっている場合が多い。ネットで個人情報が盗まれたり、自分の噂がネットで勝手に語られていると思い込むのは、昔だったら、完全に被害妄想の症状です。こういう感覚を万人が持っているとしたら、統合失調症として診断される例は減ったけど、むしろ薄まって広がっているのかもしれません。
五木 統合失調症は、本来、想像力の過剰から生まれてくるものでしょう。ということは、想像力が劣化してきているわけですね。
香山 ええ、そうだと思います。統合失調症は、異文化同士の境界で起きる病気といわれていますが、いまは正常と異常のあいだに節目がなくなっている。異質な者同士がぶつかり合うところがなくなっているから、統合失調症もなくなっているのかもしれない。
うつ病の患者さんの話は、ある意味、了解可能なものばかりで、それほど面白くないんですよ。面白いなんて言ってはいけないのかもしれないけど、精神科医的好奇心からは、やはり「私は実はヒットラーの生まれ変わりなんですよ」とか、「先生、宇宙の法則を教えてあげましょう」なんていう話を聞いてみたい。でも、そういう誇大妄想的な、震撼させられるような話を聞くことが少なくなっていますね。
五木 それはたぶん、患者さん自身にとっても、大きなショックを受ける機会が少ないからですよ。誰でもちょっと気分が鬱になるぐらいは、当たり前に起こりうるけど。それに対して「うつ病」というのは重症の病気でしょう。
香山 私もこのごろ、自分が精神科医として治療をするなかで、「うつ病」と「鬱っぽい感じ」の境界をはっきりさせなきゃいけないと思っているんです。それで、クリニックに来る人に「あなたの場合は、うつ病と捉えなくても結構です。こういう悲しい出来事があったら、しばらく落ち込むのは当然ですから、時間が経てばちゃんと回復できますよ」って話すと、多くの方はそれで安心するんじゃなくて、逆に「じゃあ、私のこの気分は、いったいなんなんですか」って、とても不安になるんですよ。
五木 むしろうつ病だと言われたほうが楽なんだな。
香山 たぶん病気によって、自分の輪郭やアイデンティティを与えてほしいんでしょうね。『その痛みは「うつ病」かもしれません』(大塚明彦著)という本が出ています。体のあちこちが痛い人が、内科とかリウマチの検査とか、体を診る科に行っても、正常だと言われてしまう。「痛いんです」「いや、正常です」「本当に痛いんです」という繰り返しに疲れ果てたなかで、「実はあなたはうつ病でした」と言われると、本人も納得してしまうんだと思うんです。
五木 あなたはうつ病なので、それを治療すれば治ります、と言われると安心する、という心理はよくわかります。得体の知れないもやもやが不気味なので、原因をはっきりさせたいんですよ。まさに心療内科の領域ですね。
香山 そうでしょうね.それに、ただの「鬱気分です」って言われてしまったら、あとは自分の考え方とか生き方とかに直面して、自分で取り組まなければいけない課題になってしまう。でも「うつ病」ということになれば、病人なんだから「お任せします」と言えば済む。受け身の立場で手当てされたい、ケアされたい、流行り言葉で言えば「癒されたい」っていうこともあると思うんです。

たしかに、うつ病と鬱は区別して考えた方がいいと感じた。鬱を辞書で引くと、「暗い気持ちになる。気がふさぐ」と書いてある。鬱がない人はない。「うつ病」とは違うのである。他人に癒されたい、慰めて欲しい人が増えているような気がする。



2011年11月22日火曜日

瀬戸内寂聴

齋藤慎爾著の「寂聴伝」(新潮文庫)を購入して読んでいる。寂聴と言えば、51歳で出家得度して、瀬戸内晴美から寂聴になって久しい。瀬戸内晴美の名の小説を読んだことのある人は少ないのではないか。寂聴となってからの、彼女の活躍はここで記すまでもない。その彼女の評伝である。一部紹介したい。


習慣として四国八十八箇所巡りのほうを「遍路」と呼び、西国三十三箇所、即ち近畿地方一円の観音をまつった三十三の寺々を巡るほうは「巡礼」ということになっていて、その起源を遠く奈良時代にさかのぼるとする説もあり、一般に行なわれるようになったのは室町時代からだという。
晴美は物心ついたときから巡礼の旅姿を見て育っている。幼な心に(幸せな巡礼)(痛ましい巡礼)の二通りがあること、遍路が死と再生のイニシエーションであることを早くも察知している早熟な感性には驚かざるを得ない。幸福な巡礼は自分の店先で、郷里の知人への土産の数珠を買ったりお大師様の絵像を需(もと)めたりし、他方、痛ましい巡礼は、深くかぶった菅笠に崩れた顔をかくし、木の柄杓を遠くからさしのべて、「巡礼に御報謝」と、くぐもった声で低く言う様子をよく見ている。「彼等は、わが家の店の軒下で、鈴を振って御詠歌をうたった」「私は巡礼の御詠歌の哀切なひびきと、箱廻しと呼んでいた人形廻しの語る浄瑠璃の節まわしを同時に聞いて育った」と回想している。
近年、若い女性たちのあいだで、悲願成就を願うとか信仰とはかかわかりなく、ファッションとしての巡礼を楽しむことが流行しているが、ファッションはともかく、元禄のころから、種々のきまりや掟にしぼりつけられた百姓町人、あるいは生存競争のはげしい上方(大坂、京都)の人びとが、村の祭りや五節句に生活の息抜きを求めて、四国路に杖をひくのは恰好の骨やすめの気晴らしの旅であった。
巡礼の対象となっている土地や社寺は昔とほとんど変わってはいないが、すべてが量産され、大衆化する現代に至って、現代的な、あまりに現代的な巡礼の出現を見ることになる。寺とタイアップして西国三十三箇所巡礼のツアーを企画する旅行会社もあって、いまや人々はバスにさえ乗れば目的とする寺の門前にまで到着し、せいぜいさんけい石段を上る程度の難儀で参詣を済ますことができる。寺に入ると人々は一斉に走って寺務所の前に並ぶ。持参の蒐印帳に寺の印を押してもらうためである。肝心の参詣はあと回し、蒐印だけが目的であるような人もいる。三十三箇所の印を全部集めた蒐印帳は高く売れるというのだ。
宗教学者の笠原芳光は、「巡礼というのは寺に詣るだけではなく、その道中を歩くことをいうのではなかったか。目的だけでなく過程にも意味があるはずである。いや、その途中の旅こそが巡礼ではないのか。かつて、その旅は人生の縮図であり、信仰の道程であった。この辺りであれば山坂をあえぎながら、ときおり木の間隠れに見えるきざ波の志賀の湖に心を洗われて、ようやく寺にたどり着くという旅であったに違いない」と、便利さへの欲求という現代の病根の深さを指摘し、「仏の功徳があるとしたら、それは一つでも二つでも自らの足で歩いて詣でる人に与えられるであろう」と結ぶ。

宗教学者の笠原氏の言っていることは、他の事にも当てはまるのではないだろうか。結果だけで、物事を評価しがちなこのご時勢、道中が大事であることをあらためて考えさせられる。
この政局がめまぐるしく動く最中、前総理は前回のお遍路さんの続きを歩いていると言う。できれば国会議員を辞めてからやって欲しいと思うのは私だけではあるまい。

2011年11月17日木曜日

高峰秀子

 昼休みに甲府の中心地、銀座通りの方に散歩によくでかける。アーケード街を通り過ぎて、少し南に下ると私の好きな店「三枝豆店」がある。そこでは、よく千葉産の「ピーナッツ」と「イカ裂き」を購入する。このアーケード街、私が山梨に来た頃は、よく賑わっていたものだ。今は、昼も夜も人気がない。
 帰り道のアーケード街に「春光堂本店」という本屋があったので、ぶらーと入ってみた。この本屋なかなかやるな・・と思った次第。店主のこだわりの本や、配置が随所に見られた。応援したい本屋である。そこで見つけた本「台所のオーケストラ」高峰秀子著を購入した。高峰秀子と言えば、私にとっては「二十四の瞳」である。もっと若い人は、田中裕子の「二十四の瞳」かもしれない。その本の「まえがき」を紹介しよう。

初対面の人との会話にゆきづまったときは、とにかく食べものの話題を持ちだすのが一番無難だと、私は思っている。内心アホクサイと思っても、食べものの話の途中で突然に怒りだす人はいないし、世の中には意外に食いしんぼうが多いのか、今まで知らなかった食べものの話が聞けたりして思わぬトクをすることもある。
私があんまり食べものの話をしたり、食べものの雑文をあちこちに書き散らすので、
もしかしたら「食通」かも?なんて思う人もいるらしいけれど、とんでもないことで、私は食通ではなくてただの「食いしんぼう」なだけだし、第一、私のようにスキキライのはげしい偏見にみちた人間が「食通」なんかである筈がない。
食べることが大好きだから、といって、日夜、最高級の料亭やフランス料理店に入り
びたってニヤニヤするほどの御身分ではないから、せいぜい自分でマーケットに足を運び、自分の気に入った材料を仕入れてきて、自分で台所に立つよりしかたがない。
たまには半日がかりで煮込み料理などを作ったりもするけれど、いくら料理の本と首っ引きで頑張ったって、しょせんはプロの味に太刀打ちできるはずがないことくらいは、ノータリンの私にもちゃんと分っている。
世の中、平和でダレてるせいか、本屋には料理の本が氾濫している。私はいそいそとその料理の本を抱きしめてわが家へ帰り、まず、美しくて美味しそうなカラー写真に見とれたあと、ややこしくて、ひどく時間のかかりそうな製造過程を読み進む途中でガクン! と戦意を喪失して本をブン投げてしまう。しようこりもないことである。
「手間ヒマかける時間はない。でもサ、ちょっと目先の変ったものは食べたいわ、そ
れも買いおきの材料を使って、チョコチョコっと作れるヤツを」
そういう怠けものの情熱家のために、私は、私の貧しいレパートリーの中から、三
分から小一時間ほど」で出来あがる、私流の即席インチキ料理ばかりを選んで書いてみた。
ゴキブリ女房の手なぐさみのことだから、出来あがった料理をカラー写真にして皆さ
んにおめにかける自信は全くないし、もうひとつ、料理の本にはキチンと材料の分量が書いてあるけれど、私の即席料理はその日の気分や健康の工合でサジかげんもコロコロと変るから、だいたいの目安、目分量でしか紹介することができない。ということは、人にはそれぞれ自分の舌があり、好みの味というものがあるのだから、あとは御自分の舌と相談しながら作ってみてください、ということである。
ただ、私の経験からいうと、料理を作るために、三つのことだけは心がけていたいも
のである。ひとつはごく当り前のことだけれど、キュウリ一本、トマト一個といえども材料だけは吟味すること。醤油その他の調味料や香辛料は少なめに買うようにして、こ
まめに新陳代謝させること、もうひとつは、化学調味料の力は偉大だからこそ、効果的に使いこなすこと。以上のことは、常時、台所の若さを保つコツだと思っているし、大
根おろしひとつでも美味しく食べられることだと、私は信じている。
てな案配でゴタクを並べてみたものの、この中の料理が果たして本当に美味しいのかどうかも、無責任なようだけれど、実は私にも全然、分っちゃいないのです。
ま、中味の味は薄っぺらかも知れませんが、外味のほうだけは、私が日頃尊敬している、安野光雅先生が飾ってくださったので、『台所のオーケストラ』という題名も、楽
しい装丁にヒントを得てつけさせて頂いたというわけで、「馬子にも衣裳、髪かたち」
であります。

 なかなかの達筆家であり、食通とみた。ちなみに、高峰秀子さんは、201012月になくなっている。

2011年11月16日水曜日

特殊性

 引き続き「不都合な相手と話す技術」から、興味ある内容を引用する。

特殊性に逃げてはいけない
対話とは「相手のことはわからない」ということが前提のコミュニケーションである。わからないのだから、わかりあおうと思ったら話すしかないのである。だが、面白いことに、コミュニケ「ションにおいて「わからない」ことを逆手にとる人たちがいる。自分の特殊性を主張して、それが相手には「わからない」ことを強調するのだ。そうして相手よりも優位に立とうとしたり、あるいは自分の立場を正当化しようとしたりするのである。 
たとえば国際コミュニケーションにおいて「日本は特殊だから--」「日本語は特殊だから--」といった文句が使われることがある。これを日本(日本語)特殊論という。「だから外国人であるあなたにはわからない」という論法だ。「だから日本人である私を特別扱いしてほしい」という虫のいい話に使われる場合もある。
これは対話という観点からすると無用な論法である。ただでさえ「わからない」のに、ますます「わからない」状況へと逃げ込んでいる。
ただ、 これは対話以外のコミュニケーションでも無用な論法なのではないか。「自分は特殊だ」と言い張って、まともなコミュニケーションを拒否しているからだ。そもそも日本や日本語が特殊であるならば、アメリカや英語も特殊であり、フィリピンやタガログ語も特殊なのではないか。自分だけが特別だと思うのは、ちょっと幼児的である。
だが、日本特殊論は意外に根強い。
OECD2000年から3年ごとに実施しているPISA (国際学習到達度調査)という国際テストがある。数学・科学・読解力の3科目について、15歳の子どもを対象として行われる。フィンランドが全科目で1位を独占して話題になった国際テストだ。
日本の順位は年々下がっており、特に読解力の出来が悪い(06年は56カ国中15)読海読解力とは簡単にいえば国語のテストである。そのためか教育界の一部で日本特殊論が唱えられた。「あれは欧米型の国語のテストだ。日本語は特殊なのだ。できなくても仕方がない」というのだ。
ちなみに06年の読解力で1位になったのは韓国である。日本語は特殊だが、韓国語は特殊ではないとでもいうのか。みっともない。もともと順位を競うための国際テストではないので、順位のことはどうでもよい。自分の特殊性に逃げ込む態度がみっともないのである。
経験を強調しすぎると話し合いにならない
日常的なコミュニケーションでも特殊性を主張する人たちがいる。特に多いのが「自分の経験」を特殊性として主張する人たちだ。経験を語ることが悪いというのではない。「自分には経験があるからわかるが、経験のないあなたにはわからない」という姿勢が問題なのである。対話という観点からすると、改めて「わからない」ことを強調されても無意味なだけだ。また、一方的に「あなたにはわからない」と決めつけるのは、双方向的なコミュニケーションの拒否である。つまり、「話し合い」にもならないということだ。
もちろん経験は貴重なものだ。実際に経験しなければわからないことはいくらでもある。未経験者が経験者から学ぶべきことは多々あるだろう。だが、経験の過信は禁物である。経験とは厄介なもので、本人にとっては紛れもない事実である。しかし、科学的知識などと異なり、多方面から徹底的に検証されたものではない。だから個人の経験に、どの程度の一般的妥当性があるのかは誰にもわからない。そのため「私の経験では・・・」と語ったところで必ずしも説得力はない。

日本は万世一系の特殊な国なのだという事がよく言われる。特殊な国などないし、特殊な人種もない。
年を取ってくると、やたらと自分の経験から、分別くさいことを言うようになる。戒めたいものである。

2011年11月11日金曜日

不都合な相手と話す技術

 東洋経済に「わかりあえない時代の対話力入門」を連載していた、北川達夫氏の本「不都合な相手と話す技術」という本を購入した。現在、読んでいる最中であるが、その前書きを紹介しよう。

日本では、多弁な人間は嫌われる傾向にある。これは古代においては東アジア共通の価値観であり、言葉巧みに出世する人間は「ねい臣」との謗りを受けた。まさに孔子のいうところの「巧言令色すくなし仁(言葉や表情を巧みに使う人間には徳がない)」。 
現代では、同じ東アジアでも中国や韓国においては、この美意識はあまり残っていないよぅだ。いまの中国人や韓国人に、あまり物静かというイメージはない(むしろその逆だ)。その一方で、日本には根強く残っている。たとえば、企業のコミュニケーション研修を引き受けると、担当の偉い人から「まあ、コミュニケーションも大事なんですが、口先だけで中身のない人間になってもらっても困るわけですよ」と、孔子の教えを遵守したーしかし考えようによっては意味不明のコメントをいただくのである。コミュニケーション研修で「中身」の成長を期待されても、それこそ困るわけだが・・・。
言わずとも通じる・・いかなるコミュニケーションにおいても、これほど素晴らしいことはない。日本文化では、ことのほか「言わずとも通じる」ことを大切にしてきた。だから、余計な説明をする人間を「野暮」と呼んだのである。余計な説明を求める人間も同じこと。いちいち説明しないのだから、人によって解釈にプレが生じる。だが、そのプレも含めて「言わずとも通じる」ことのうちとしたのである。「それでは正確に伝わらないではないか」と文句を言う向きもあるだろうが、それもまた「野暮」というものだ。
「古池や蛙とびこむ水の音 淋しくもあるか秋の夕暮れ」という和歌がある。松尾芭蕉の有名な俳句に下の句をつけて、「淋しい」という感情、「秋」という季節、「夕暮れ」という時間帯を示したのである。この和歌について、作家の坂口安吾は「言葉の純粋性」を失わせるものとして痛烈に批判している。余計な説明をして、芭蕉の俳句を台無しにしたというのである。要するに「野暮」ということだ。
「言わずとも通じる」ためには、多くのものを共有している必要がある。わずかな言葉から同じことを連想するためには、文化の基盤をなす知識や経験はもちろんのこと、その背景をなす価値観の共有が絶対的な必要条件なのである。「野暮」な人間は、日本人ならば共有しているべきものを保有していないということで嘲りの対象となったのだ。
だが、時代は変わった。社会も変わった。世界も変わった。多様化・複雑化・グローバル化の波が押し寄せ、余計な説明をしないと通じない人々が急増している。外国人はもちろんのこと、同じ日本人であっても、いちいち説明しなければ理解も納得も得られなくなった。もはや「言わずとも通じる」ことは期待できない。言わなければ絶対に通じないが'言ったところで通じるとは限らない時代になりつつある。こうして「わかりあえない時代」に突入したのだ。
女「あたしの気持ちなんて、誰もわかってくれない・・・」男「そう、わからない。だから俺にもわかるように、きちんと説明してくれ」
こういうやりとりをしなければならない時代になったのかと思うと、心底ゾッとする。まったく「野暮」の極みではないか。だが、「わかりあえない時代」において求められるコミュニケーションの本質とは、おおむねこのようなものだ。「わかりあえない時代」において求められるコミュニケーションーーこれが「対話」である。
対話の発想と方法について詳しく紹介することが、本書の主要なテーマである。ただ、それが必要であるとわかっていても、やはり「野暮」はイヤだ。対話において「野暮」を避けることはできないのか・・・これを追究することもまた、本書の主要なテーマである。

私は、常々夫婦も人種が違う位に考えて、対話した方がいいと思っている。これは会社という組織でも当てはまると思う。
最後まで読んだら、又読後感を紹介したいと考えている。
PS:ねい臣とは「主君におもねり、心の不正な臣下」の意。

2011年11月9日水曜日

ウォール街占拠運動

 東洋経済に連載している、藤原帰一氏(国際政治学者)がウォール街占拠運動について興味ある見解を述べている。

ウォール街そばの公園で開始された活動は10月に入ると全米各都市からロンドン、ローマ、シドニー、東京などへと波及し、オークランドなどでは警察の介入と逮捕者までも生み出した。米国東部降雪のために人数拡大が難しくなったとはいえ、雪の中でも公園を占拠する人々の姿が伝えられている。この占拠運動をどう考えればよいのだろう。
占拠運動で注目を集めたのは、何よりもその運動のスタイルである。既成政党や政治家に働きかけるのではなく、ウォール街を占領する。とはいっても、金融機関に襲いかかるのではなく、公園にテントを張って居座るだけだから、実力行使とは程遠い。不公正な富を蓄えたウォール街で持続的なアピールを続けるという、シンボリックな意味が勝った行動であると評すべきだろう。
そして、フェイスブックやツイッターなど、新しいメディアが活躍した。ツイッターでウォール街占拠が次々に伝えられていた9月、ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストなどでこの活動が伝えられることはほとんどなかった。ノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・E・スティグリッツや投資家のウォーレン・バフェット、告発型ドキュメンタリーで知られるマイケル・ムーアなどがこの活動に加わることで、まず米国外の報道機関が大きく取り上げ始め、10月に入ると米国の新聞やテレビも大々的に報道を始める。新しいメディアが社会連帯を作り、それが「事件」を作り出すわけだ。
彼らは何を訴えているのか。運動の掲げる争点は一つ、人口の1%に富が集中する状況に対抗して、残りの99%から異議を申し立てるというものである。統計の取り方に多少の異論があるとしても、レーガン大統領が就任してからおよそ30年の間、高額所得者が所得を伸ばす一方で、ほかの階層の所得が減少したことに異議のある学者は少ないだろう。
その結果、中間層が経済的繁栄を支えるかっての米国は失われ、これまでにない所得格差が広がってしまった。この格差への告発が占拠運動の中核にあるといってよい。より具体的に見れば、占拠運動の背後には、リーマン・ブラザーズの破綻に発した08年世界金融危機以後の経済情勢への不満がある。膨大な公的資金が注入されることによって金融機関は救済されたが、米国経済の混乱は続き、失業率も9%に上ってしまった。投資会社を救済するためには税金を使うのに、失業が放置されるのはどうしてなのか。99%からの異議申し立てには説得力があるといえる。
だが占拠運動には、異議申し立てはあっても政策はない。金融機関を救済する政策の転換を求めたり、失業対策のための政策を訴えるのではなく、1%が富を独占する現状への告発が運動の中核にある。現状への告発に支えられたこの運動は、具体的な政策要求を伴っていない。
ソーシャルメディアを媒介とする市民の結集という点だけを見れば、この占拠運動にはチュニジアやエジプトに民主化をもたらした「アラブの春」と似た面がある。だが、「アラブの春」には独裁者退陣の要求という明確な目的があった。ところが占拠運動の場合、これが実現されたら勝利だという勝利条件が示されていない。政策の実現を争点にしないのであれば、占拠運動が「勝利」を収めることはできないだろう。
運動は迷惑行為として衰退?厳しくいえば、公園の占拠はただの迷惑行為、それも金持ちだけではなく一般市民にとっても迷惑行為にすぎない。運動の決着点が見えないかぎり、世界各地の占拠運動は、それが長続きすればするほど、逆にその地域に居住する人々の支持を保つことが難しくなる。
世界各地に同時発生した運動は、膨大な数の人々による異議申し立てに成功したにもかかわらず、現実の社会変革をもたらすことなく衰えてゆくのではないか。占拠運動の現状は、そのような暗い展望を予感させる。
どれほど既得権に冒され、 一般市民から乖離したとはいっても、既成政党や政治結社は、社会と政治を結び付けるうえでなお大きな役割を果たしている。確かに、既成の政治が吸い上げていない社会的な不満の大きさを示す点において、占拠運動は大きな役割を果たした。だが、異議申し立てだけでは変革は訪れない。

確かに、「アラブの春」においても、独裁者を倒すまではいいが、それがすぐに民主化に繋がらない。物事を着実に変化させるためには、しっかりとした政治結社(政党)が必須である。政治結社であっても、独裁では駄目である。地域政党大阪維新の会は決して長続きはしないであろう。


2011年11月5日土曜日

トランスサイエンス

もうダマされないための「科学」講義(光文社新書)というタイトルの本を読んだ。なかなか面白い本であった。その中で、なるほどと思った箇所がいくつもあった。その中の一つを紹介する。

価値判断の多面性や政治的・法的問題との関わりの深さ

原子力に限りませんが、リスクの問題は、常に世の中の価値観や利害関係、政治的・経済的・法的な問題との関わりが深いという意味でもトランスサイエンス的です。
その一例として、人々がリスクの程度をどのような要因(因子)に基づいてどのように認識するかを示す「リスク認知」というものがあります。もともとリスク認知は心理学の分野で研究されてきたもので、しばしば科学的に算定された「客観的リスク」に対立する「主観的リスク」と見なされ、前者に基づいて「矯正」されるべきバイアスとして語られることも少なくありません。しかしそれは、リスクというもののトランスサイエンス的性格を見誤った偏狭な見方です。
たとえば、リスクにさらされているのが自分たちだけで、リスクの裏返しである便益は自分たちにはないと認められる場合には、そうでない場合よりもリスクは大きく捉えられる傾向があります。これは社会におけるリスクと便益の分配の「公平性」という正義の問題であり、単なる個人的・主観的な「バイアス」などではありません。
リスクにさらされるのが自発的な意思に基づくのか、そうでないのかも、リスクの捉え方に違いをもたらします。非自発的・強制的であるほうが、リスクは大きく捉えられる。これは「自己決定権」の問題であり、やはり社会正義に属する事柄です。
またいずれの場合も、人々にリスクの「大きさ」として認識されているのは、「損害の発生確率」× 「損害の重大さ」として表される科学的なリスクの大きさではなく、公平性や自発性などトランスサイエンス的な要素についての判断を加えたリスクの「受け入れがたさ」でしょう。
そもそも科学的なリスクの大きさにしても、たとえば「生涯のがん死確率が100mSVの被ばくで0.5 (1000人中5)増加する」ことを、「たかだか0.5%」として受け入れるか、「0.5%も増加」として受け入れがたいと見なすかは、個人の価値判断に依るでしょう。
このように人間は多面的にリスクを認識しているのであって、科学的なリスクの見方は、重要ではあっても、さまざまにある見方の一つにすぎないのです。このことを軽視して、科学的な見方ばかりをゴリ押しすることは、リスクコミュニケーションではしばしば失策を招くことになります。
3.11以降繰り返されている「福島第1原発事故による放射線リスクは、レントゲンやCTスキャン、放射線治療による被ばくのリスクよりも小さい」といったリスクの比較はその典型例です。この場合、後者の医療放射線による被ばくには、疾病の早期発見や治療などの便益があるし、線量や照射部位もコントロールされています。受けるかどうかは本人の意思に任されています。
これに対し事故による放射性被ばくには何の便益もないし、コントロールも当事者の了解も一切なくばらまかれています。このため、たとえ科学的なリスクの大きさとしては小さかったとしても、リスクの受け入れがたさは事故による被ばくのほうが大きくなります。この違いを無視して「○○よりリスクは小さい」と説明することは、リスクを軽視し、その受け入れを強制する発言のように受け取られ、強い反発を招くことになります。
このため、たとえば米国疾病予防管理センター(CDC)のトレーニング教材『危機・緊急時のリスクコミュニケーション(Crisis&EmeygencyRz'shCommunication)』でも、安易なリスク比較は慎むべきとされています。

リスク問題を簡単に数字だけで、割り切ろうとするのは真の科学ではない。いわゆる科学者が「レントゲン検査であびる数値より小さいですよ」と言って安心させようとするが、これは逆効果になると思う。科学という言葉はきわめてあいまいであると思う。そういうことをあらためて考えさせられた本であった。
解説:「トランスサイエンス」とは1972年にアメリカの核物理学者アルヴィン・ワインバーグが提唱した概念で「科学に問うことはできるが、科学では答えを出せない問題群」を扱う領域だとされている。
「バイアス:とは他のさまざまな影響による偏向。偏りを言う。(bias

2011年11月2日水曜日

増税論

民主党のブレーンとしていろんなところで発言してきた、北海道大学大学院教授の山口二郎氏が「東洋経済」の中で、以下のようなことを言っている。概略を紹介しよう。
ゴール不在の増税論は逆再分配を強めるだけだ
党内融和を優先し、低姿勢で出発した野田佳彦政権だが、そうした内向きの論理だけでは政権がもたない。ここに来て、重要な政策課題について舵を切る姿勢を見せ始めた。政策路線を選択することは政治指導者の使命である。国内世論で賛否が分かれるような争点について腹をくくって決断するということ自体は、必要なことだと考える。その際、目指す目標、理念を明確にして、政策に伴う犠牲と得られる恩恵を具体的に示し、国民を説得するという態度を取るべきである。その点で、野田政権の展開には大きな不安を感じる。
目下の最大の争点TPP (環太平洋経済連携協定)交渉への参加問題である。TPP積極論を開いていると、私は郵政民営化論議を思い出す。市場原理を拡大することによって日本社会が活気を取り戻し、国民が幸せになるという単純な議論を繰り返してはならない。
輸出産業の経営者が、バスに乗り遅れるなということでTPPへの参加を主張することは当然である。他方、農業団体がこれに反対するのも当然である。経営規模拡大によって日本農業が世界市場で競争力を持つなどという空論は、日本最大の経営規模を持つ北海道の農民でさえ信じていない。
政治とは、この種の利害対立の中で極力折り合いをつけながら一つの方針を決定する作業である。あえて火中の粟を拾うという野田首相の意志は評価したい。しかし、決め方を誤っては禍根を残す。仮にTPP参加を決断したいなら、バラ色のシナリオで粉飾してはならない。また、どちらかの主張が正しいから選ぶのでもない。TPPが毒を含んだ政策であっても、国益のためにこれを選択するという苦渋の判断であることを、国民に丁寧に説明しなければならない。
税・社会保障一体改革についても、野田政権の誠実さが問われる。各種世論調査が示すように、国民は、社会保障の持続可能性や東日本大震災の復興財源のことを考えて、いずれ増税は不可避だと思っている。しかし、復興のための国債を短期間で償還するとか、2-3年後に消費税率を10%に引き上げるという話には、納得していない。野田首相は財務官僚の操り人形というストーリーが一部のメディアに流れ、これを支持する人も大勢いる。要するに、国民は財務官僚を信用していないのである。復興財源のための増税にしても、大震災を隠れみのに、国民に増税を受容させる予行演習という性格があるように思える。
財政の機能として、公共財の提供、所得再分配、景気調整の三つがあるという規定は、高校の政治経済でも習う基本である。では、日本の財政はこれらの役割を果たしているのか。日本の税収は1990年をピークとして、20年間減少の一途である。この間、GDPはほぼ横ばいであるのに税収が減少しているということは、減税をした結果である。
減税の恩恵は、所得税の累進制の緩和や法人税減税という形で、富裕層や大企業に与えられた。他方、国民負担のうち社会保険料は増加の一途をたどっている。2010年、国民負担の対GDP比率は276%であり、税負担が152%'社会保険料負担が124%である。社会保険料は、国民年金保険料を思い浮かべればわかるように、逆進性が強い。したがって、日本の財政は再分配機能を著しく弱めている。東京大学社会科学研究所の大沢真理教授の調査によれば、所得再分配どころか、日本では当初所得よりも再分配後の所得のほうが、格差が大きい。つまり、政府はわざわざ税と社会保険料を徴収し、貧困層から富裕層へ逆の再分配をしているのである。
このような財政に対する現状認識を国民と共有することなしに、一切の増税論議をしてはならない。財務省の描く消費税率引き上げが、逆再分配を強める「やらずぶったくり」につながるのではないかという国民の懸念には十分理由がある。私自身は、新自由主義を批判し、福祉国家の拡充を訴えてきたので、基本的には増税論者である。しかし、国民負担の増加によってどのような社会を作るのかという理念論を欠いた増税論議には、反対せざるをえない。ゴール不在の増税論がまかり通れば、その反作用として河村たかし名古屋市長が唱えるような減税ポピュリズムがはびこり、結果として政府の役割は一層縮小、社会はますます荒廃する。だからこそ、増税論議を財務官僚に任せるわけにはいかない。

民主党のブレーンの山口氏でさえ、野田政権の危うさを指摘している程、今の民主党政権は、政権交代した時から変質してきている。(もともとの体質の化けの皮が剥がれてきただけだが)赤字で記してあるところは、まさに同感である。