2011年11月16日水曜日

特殊性

 引き続き「不都合な相手と話す技術」から、興味ある内容を引用する。

特殊性に逃げてはいけない
対話とは「相手のことはわからない」ということが前提のコミュニケーションである。わからないのだから、わかりあおうと思ったら話すしかないのである。だが、面白いことに、コミュニケ「ションにおいて「わからない」ことを逆手にとる人たちがいる。自分の特殊性を主張して、それが相手には「わからない」ことを強調するのだ。そうして相手よりも優位に立とうとしたり、あるいは自分の立場を正当化しようとしたりするのである。 
たとえば国際コミュニケーションにおいて「日本は特殊だから--」「日本語は特殊だから--」といった文句が使われることがある。これを日本(日本語)特殊論という。「だから外国人であるあなたにはわからない」という論法だ。「だから日本人である私を特別扱いしてほしい」という虫のいい話に使われる場合もある。
これは対話という観点からすると無用な論法である。ただでさえ「わからない」のに、ますます「わからない」状況へと逃げ込んでいる。
ただ、 これは対話以外のコミュニケーションでも無用な論法なのではないか。「自分は特殊だ」と言い張って、まともなコミュニケーションを拒否しているからだ。そもそも日本や日本語が特殊であるならば、アメリカや英語も特殊であり、フィリピンやタガログ語も特殊なのではないか。自分だけが特別だと思うのは、ちょっと幼児的である。
だが、日本特殊論は意外に根強い。
OECD2000年から3年ごとに実施しているPISA (国際学習到達度調査)という国際テストがある。数学・科学・読解力の3科目について、15歳の子どもを対象として行われる。フィンランドが全科目で1位を独占して話題になった国際テストだ。
日本の順位は年々下がっており、特に読解力の出来が悪い(06年は56カ国中15)読海読解力とは簡単にいえば国語のテストである。そのためか教育界の一部で日本特殊論が唱えられた。「あれは欧米型の国語のテストだ。日本語は特殊なのだ。できなくても仕方がない」というのだ。
ちなみに06年の読解力で1位になったのは韓国である。日本語は特殊だが、韓国語は特殊ではないとでもいうのか。みっともない。もともと順位を競うための国際テストではないので、順位のことはどうでもよい。自分の特殊性に逃げ込む態度がみっともないのである。
経験を強調しすぎると話し合いにならない
日常的なコミュニケーションでも特殊性を主張する人たちがいる。特に多いのが「自分の経験」を特殊性として主張する人たちだ。経験を語ることが悪いというのではない。「自分には経験があるからわかるが、経験のないあなたにはわからない」という姿勢が問題なのである。対話という観点からすると、改めて「わからない」ことを強調されても無意味なだけだ。また、一方的に「あなたにはわからない」と決めつけるのは、双方向的なコミュニケーションの拒否である。つまり、「話し合い」にもならないということだ。
もちろん経験は貴重なものだ。実際に経験しなければわからないことはいくらでもある。未経験者が経験者から学ぶべきことは多々あるだろう。だが、経験の過信は禁物である。経験とは厄介なもので、本人にとっては紛れもない事実である。しかし、科学的知識などと異なり、多方面から徹底的に検証されたものではない。だから個人の経験に、どの程度の一般的妥当性があるのかは誰にもわからない。そのため「私の経験では・・・」と語ったところで必ずしも説得力はない。

日本は万世一系の特殊な国なのだという事がよく言われる。特殊な国などないし、特殊な人種もない。
年を取ってくると、やたらと自分の経験から、分別くさいことを言うようになる。戒めたいものである。

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