2011年11月11日金曜日

不都合な相手と話す技術

 東洋経済に「わかりあえない時代の対話力入門」を連載していた、北川達夫氏の本「不都合な相手と話す技術」という本を購入した。現在、読んでいる最中であるが、その前書きを紹介しよう。

日本では、多弁な人間は嫌われる傾向にある。これは古代においては東アジア共通の価値観であり、言葉巧みに出世する人間は「ねい臣」との謗りを受けた。まさに孔子のいうところの「巧言令色すくなし仁(言葉や表情を巧みに使う人間には徳がない)」。 
現代では、同じ東アジアでも中国や韓国においては、この美意識はあまり残っていないよぅだ。いまの中国人や韓国人に、あまり物静かというイメージはない(むしろその逆だ)。その一方で、日本には根強く残っている。たとえば、企業のコミュニケーション研修を引き受けると、担当の偉い人から「まあ、コミュニケーションも大事なんですが、口先だけで中身のない人間になってもらっても困るわけですよ」と、孔子の教えを遵守したーしかし考えようによっては意味不明のコメントをいただくのである。コミュニケーション研修で「中身」の成長を期待されても、それこそ困るわけだが・・・。
言わずとも通じる・・いかなるコミュニケーションにおいても、これほど素晴らしいことはない。日本文化では、ことのほか「言わずとも通じる」ことを大切にしてきた。だから、余計な説明をする人間を「野暮」と呼んだのである。余計な説明を求める人間も同じこと。いちいち説明しないのだから、人によって解釈にプレが生じる。だが、そのプレも含めて「言わずとも通じる」ことのうちとしたのである。「それでは正確に伝わらないではないか」と文句を言う向きもあるだろうが、それもまた「野暮」というものだ。
「古池や蛙とびこむ水の音 淋しくもあるか秋の夕暮れ」という和歌がある。松尾芭蕉の有名な俳句に下の句をつけて、「淋しい」という感情、「秋」という季節、「夕暮れ」という時間帯を示したのである。この和歌について、作家の坂口安吾は「言葉の純粋性」を失わせるものとして痛烈に批判している。余計な説明をして、芭蕉の俳句を台無しにしたというのである。要するに「野暮」ということだ。
「言わずとも通じる」ためには、多くのものを共有している必要がある。わずかな言葉から同じことを連想するためには、文化の基盤をなす知識や経験はもちろんのこと、その背景をなす価値観の共有が絶対的な必要条件なのである。「野暮」な人間は、日本人ならば共有しているべきものを保有していないということで嘲りの対象となったのだ。
だが、時代は変わった。社会も変わった。世界も変わった。多様化・複雑化・グローバル化の波が押し寄せ、余計な説明をしないと通じない人々が急増している。外国人はもちろんのこと、同じ日本人であっても、いちいち説明しなければ理解も納得も得られなくなった。もはや「言わずとも通じる」ことは期待できない。言わなければ絶対に通じないが'言ったところで通じるとは限らない時代になりつつある。こうして「わかりあえない時代」に突入したのだ。
女「あたしの気持ちなんて、誰もわかってくれない・・・」男「そう、わからない。だから俺にもわかるように、きちんと説明してくれ」
こういうやりとりをしなければならない時代になったのかと思うと、心底ゾッとする。まったく「野暮」の極みではないか。だが、「わかりあえない時代」において求められるコミュニケーションの本質とは、おおむねこのようなものだ。「わかりあえない時代」において求められるコミュニケーションーーこれが「対話」である。
対話の発想と方法について詳しく紹介することが、本書の主要なテーマである。ただ、それが必要であるとわかっていても、やはり「野暮」はイヤだ。対話において「野暮」を避けることはできないのか・・・これを追究することもまた、本書の主要なテーマである。

私は、常々夫婦も人種が違う位に考えて、対話した方がいいと思っている。これは会社という組織でも当てはまると思う。
最後まで読んだら、又読後感を紹介したいと考えている。
PS:ねい臣とは「主君におもねり、心の不正な臣下」の意。

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