2011年11月22日火曜日

瀬戸内寂聴

齋藤慎爾著の「寂聴伝」(新潮文庫)を購入して読んでいる。寂聴と言えば、51歳で出家得度して、瀬戸内晴美から寂聴になって久しい。瀬戸内晴美の名の小説を読んだことのある人は少ないのではないか。寂聴となってからの、彼女の活躍はここで記すまでもない。その彼女の評伝である。一部紹介したい。


習慣として四国八十八箇所巡りのほうを「遍路」と呼び、西国三十三箇所、即ち近畿地方一円の観音をまつった三十三の寺々を巡るほうは「巡礼」ということになっていて、その起源を遠く奈良時代にさかのぼるとする説もあり、一般に行なわれるようになったのは室町時代からだという。
晴美は物心ついたときから巡礼の旅姿を見て育っている。幼な心に(幸せな巡礼)(痛ましい巡礼)の二通りがあること、遍路が死と再生のイニシエーションであることを早くも察知している早熟な感性には驚かざるを得ない。幸福な巡礼は自分の店先で、郷里の知人への土産の数珠を買ったりお大師様の絵像を需(もと)めたりし、他方、痛ましい巡礼は、深くかぶった菅笠に崩れた顔をかくし、木の柄杓を遠くからさしのべて、「巡礼に御報謝」と、くぐもった声で低く言う様子をよく見ている。「彼等は、わが家の店の軒下で、鈴を振って御詠歌をうたった」「私は巡礼の御詠歌の哀切なひびきと、箱廻しと呼んでいた人形廻しの語る浄瑠璃の節まわしを同時に聞いて育った」と回想している。
近年、若い女性たちのあいだで、悲願成就を願うとか信仰とはかかわかりなく、ファッションとしての巡礼を楽しむことが流行しているが、ファッションはともかく、元禄のころから、種々のきまりや掟にしぼりつけられた百姓町人、あるいは生存競争のはげしい上方(大坂、京都)の人びとが、村の祭りや五節句に生活の息抜きを求めて、四国路に杖をひくのは恰好の骨やすめの気晴らしの旅であった。
巡礼の対象となっている土地や社寺は昔とほとんど変わってはいないが、すべてが量産され、大衆化する現代に至って、現代的な、あまりに現代的な巡礼の出現を見ることになる。寺とタイアップして西国三十三箇所巡礼のツアーを企画する旅行会社もあって、いまや人々はバスにさえ乗れば目的とする寺の門前にまで到着し、せいぜいさんけい石段を上る程度の難儀で参詣を済ますことができる。寺に入ると人々は一斉に走って寺務所の前に並ぶ。持参の蒐印帳に寺の印を押してもらうためである。肝心の参詣はあと回し、蒐印だけが目的であるような人もいる。三十三箇所の印を全部集めた蒐印帳は高く売れるというのだ。
宗教学者の笠原芳光は、「巡礼というのは寺に詣るだけではなく、その道中を歩くことをいうのではなかったか。目的だけでなく過程にも意味があるはずである。いや、その途中の旅こそが巡礼ではないのか。かつて、その旅は人生の縮図であり、信仰の道程であった。この辺りであれば山坂をあえぎながら、ときおり木の間隠れに見えるきざ波の志賀の湖に心を洗われて、ようやく寺にたどり着くという旅であったに違いない」と、便利さへの欲求という現代の病根の深さを指摘し、「仏の功徳があるとしたら、それは一つでも二つでも自らの足で歩いて詣でる人に与えられるであろう」と結ぶ。

宗教学者の笠原氏の言っていることは、他の事にも当てはまるのではないだろうか。結果だけで、物事を評価しがちなこのご時勢、道中が大事であることをあらためて考えさせられる。
この政局がめまぐるしく動く最中、前総理は前回のお遍路さんの続きを歩いていると言う。できれば国会議員を辞めてからやって欲しいと思うのは私だけではあるまい。

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