2011年11月17日木曜日

高峰秀子

 昼休みに甲府の中心地、銀座通りの方に散歩によくでかける。アーケード街を通り過ぎて、少し南に下ると私の好きな店「三枝豆店」がある。そこでは、よく千葉産の「ピーナッツ」と「イカ裂き」を購入する。このアーケード街、私が山梨に来た頃は、よく賑わっていたものだ。今は、昼も夜も人気がない。
 帰り道のアーケード街に「春光堂本店」という本屋があったので、ぶらーと入ってみた。この本屋なかなかやるな・・と思った次第。店主のこだわりの本や、配置が随所に見られた。応援したい本屋である。そこで見つけた本「台所のオーケストラ」高峰秀子著を購入した。高峰秀子と言えば、私にとっては「二十四の瞳」である。もっと若い人は、田中裕子の「二十四の瞳」かもしれない。その本の「まえがき」を紹介しよう。

初対面の人との会話にゆきづまったときは、とにかく食べものの話題を持ちだすのが一番無難だと、私は思っている。内心アホクサイと思っても、食べものの話の途中で突然に怒りだす人はいないし、世の中には意外に食いしんぼうが多いのか、今まで知らなかった食べものの話が聞けたりして思わぬトクをすることもある。
私があんまり食べものの話をしたり、食べものの雑文をあちこちに書き散らすので、
もしかしたら「食通」かも?なんて思う人もいるらしいけれど、とんでもないことで、私は食通ではなくてただの「食いしんぼう」なだけだし、第一、私のようにスキキライのはげしい偏見にみちた人間が「食通」なんかである筈がない。
食べることが大好きだから、といって、日夜、最高級の料亭やフランス料理店に入り
びたってニヤニヤするほどの御身分ではないから、せいぜい自分でマーケットに足を運び、自分の気に入った材料を仕入れてきて、自分で台所に立つよりしかたがない。
たまには半日がかりで煮込み料理などを作ったりもするけれど、いくら料理の本と首っ引きで頑張ったって、しょせんはプロの味に太刀打ちできるはずがないことくらいは、ノータリンの私にもちゃんと分っている。
世の中、平和でダレてるせいか、本屋には料理の本が氾濫している。私はいそいそとその料理の本を抱きしめてわが家へ帰り、まず、美しくて美味しそうなカラー写真に見とれたあと、ややこしくて、ひどく時間のかかりそうな製造過程を読み進む途中でガクン! と戦意を喪失して本をブン投げてしまう。しようこりもないことである。
「手間ヒマかける時間はない。でもサ、ちょっと目先の変ったものは食べたいわ、そ
れも買いおきの材料を使って、チョコチョコっと作れるヤツを」
そういう怠けものの情熱家のために、私は、私の貧しいレパートリーの中から、三
分から小一時間ほど」で出来あがる、私流の即席インチキ料理ばかりを選んで書いてみた。
ゴキブリ女房の手なぐさみのことだから、出来あがった料理をカラー写真にして皆さ
んにおめにかける自信は全くないし、もうひとつ、料理の本にはキチンと材料の分量が書いてあるけれど、私の即席料理はその日の気分や健康の工合でサジかげんもコロコロと変るから、だいたいの目安、目分量でしか紹介することができない。ということは、人にはそれぞれ自分の舌があり、好みの味というものがあるのだから、あとは御自分の舌と相談しながら作ってみてください、ということである。
ただ、私の経験からいうと、料理を作るために、三つのことだけは心がけていたいも
のである。ひとつはごく当り前のことだけれど、キュウリ一本、トマト一個といえども材料だけは吟味すること。醤油その他の調味料や香辛料は少なめに買うようにして、こ
まめに新陳代謝させること、もうひとつは、化学調味料の力は偉大だからこそ、効果的に使いこなすこと。以上のことは、常時、台所の若さを保つコツだと思っているし、大
根おろしひとつでも美味しく食べられることだと、私は信じている。
てな案配でゴタクを並べてみたものの、この中の料理が果たして本当に美味しいのかどうかも、無責任なようだけれど、実は私にも全然、分っちゃいないのです。
ま、中味の味は薄っぺらかも知れませんが、外味のほうだけは、私が日頃尊敬している、安野光雅先生が飾ってくださったので、『台所のオーケストラ』という題名も、楽
しい装丁にヒントを得てつけさせて頂いたというわけで、「馬子にも衣裳、髪かたち」
であります。

 なかなかの達筆家であり、食通とみた。ちなみに、高峰秀子さんは、201012月になくなっている。

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