2011年12月9日金曜日

迷惑行為

「不都合な相手と話す技術」から、考えさせられる文章があったので、紹介したい。

迷惑行為にどう対処するか
新幹線に乗っていたときのことである。二人席の隣席の男性が楽譜を取り出した。オペラの楽譜のようである。この初老の男性はオペラ歌手なのかもしれない。初めのうちは楽譜をパラパラとめくっていただけだった。ところが、しばらくすると小さな声で・・小さな声だが明らかに「オペラっぽく」歌い始めたのである。
初めのうちは気にならなかったのだが、それが延々と続くうちに不快になってきた。声量自体はたいしたものではない。普通の会話と同程度の声の大きさである。会話であれば気にならない。だが、不思議なことに、歌となると気に障るもので、しかも抑揚をたっぷりとつけて歌われると気になって仕方がない。歌声にばかり気を取られてしまう。注意をそらそうと思っているのに、なぜか注意がそちらに向いてしまうのである。だんだん胃がムカムカとしてきた。このまま何時間も同席していたら、胃に穴が開くかもしれない。私は男性に声をかけた。
「すみません。隣で歌うのをやめてもらえませんか」すると、男性はムッとしたような顔をして答えた。「やめろって、あなたに何の権利があってそんなことを言うんだ?」「いや'特に権利はないと思うので、こうしてお願いしているんです」
男性は一瞬びっくりしたような顔をしたが、渋面をつくって黙りこんでしまった。それから二度と歌うこともなかった・・。
 感情の問題を論理で語らない
この体験について、後に友人・知人に話したところ、その反応は大きく二つに分かれた。
多かったのは「悪いのは相手だけれど、自分だったら何旦苧見ない、何も言わない」といぅ反応である。相手と争うのはイヤだし、相手が否を認めても気まずさが残る。ガマンしたほうがマシというのだ。また、非常識な相手とはかかわりたくないという意見も多かった。そういう相手とかかわれば、ますます不快になるだけだというのである。
その一方で、私の対応を「生ぬるい」と批判する友人・知人もいた。これがもう一つの反応である。「悪いのは相手なのだから、『お願いする』とは生ぬるい。徹底的に糾弾した上でやめさせるべきだ」というのである。理は我にあり。相手の迷惑行為の問題点を客観的かつ論理的に説き、相手を恥じ入らせた上でやめさせろというのである。 
何も言わないか、それとも徹底的に糾弾するか・・・このように発想が大きく異なる場合に「相違から共通を見出す」のが対話の手法である。両者の発想をよく見ると、「悪いのは相手である」という点については共通していることがわかる。そしてこの両者の発想の共通点こそ、私の発想との相違点なのである。私自身は「悪いのは相手である」とは考えていなかったのだ。
相手が歌っていたのは事実である。それを私が不快と感じていたのも事実である。不快さが受忍限度を越えたから、「やめてもらえませんか」と言ったのだ。ただ、不快さというのは私の感情の問題であり、そこには何の理屈も存在しない。相手を論理的に説得するのは無理なので、「お願い」したのである。
迷惑行為をしているのだから、「相手が悪い」のも事実ではないか・・そう思う人もいるだろう。ただ、何が迷惑で、何が悪いかの判断は、個人の価値観や感覚によって大きく異なる。この事例についても「歌ぐらいでゴチャゴチャ言うな」と思う人もいるのではないか。価値観の共有を前提とするなら、厳格な道徳律の下で「みんなが悪いと思うべきこと」が存在するのだろう。だが、価値観の共有を前提としない対話的発想では、あくまでも私個人が迷惑だと感じているだけなのだ。
さまざまな価値観の人々が社会で共生していくには、さまざまな「迷惑」の調整が必要である。迷惑だと感じたら、自分から「迷惑だ」と声を上げないと、いつまでたっても調整は始まらない。
この「わかりあえない時代」において、「自分の迷惑」を「みんなの迷惑」にすりかえ,相手を「悪」と決めつけるほどの勇気は私にはない。また、感情の問題を論理で語るとロクなことはない。感情に突き動かされた論理は、自分を正義とし、相手を不義としがちである。戦争における「敵国の悪魔化」と同じ原理だ。外見は論理的だが、実質は感情的という、実に醜悪な議論になる。
人間は感情からは逃れられない。だからといって、感情的に問題解決を図るのは得策ではない。では、どうするか。私の場合は、感情に突き動かされていることを自覚しつつ、努めて丁重に「お願い」してみたというわけだ。
「こういう場合は車掌さんに言ったほうがいいのでは」という意見もあった。もちろんそれも一案である。もっと大きな問題であれば、そうするしかない場合もあるだろう。社会においても、権力の介入によって調整が図られることは多い。ただ、権力であれ何であれ、他人が受忍限度を決めることにガマンならない人もいることだろう。
人とかかわらなければ問題は解決しない
この事例では「相手とかかわりたくない」という意見が多かった。見知らぬ相手とかかわるのは面倒なもの。対立することが明らかな場合はなおさらだ。だが、相手とかかわらなければ問題は解決しない。
最近、日本の社会全体が人と人とのかかわりを難しくする方向に動いているように感じられる。私の家の近所に「気をつけよう/おとなはこどもに/道聞かない」という標語が掲げられている。おそらく道をたずねるふりをして子どもに近づこうとする不審者が多いからなのだろう。
ただ、この標語は私個人にとっては迷惑である。私は教員研修の仕事で日本各地の小学校を巡っている。初めての土地で、目的の小学校にたどり着くのは意外に難しい。道に迷ったとき、いちばん頼りになるのは、その小学校から下校してくる小学生なのである。ところが、「おとなはこどもに/道聞かない」というのでは、気軽に道を教えてもらうわけにはいかない。不審者と間違えられるではないか。もちろん、不審者の問題も重々承知しているから、標語について「迷惑だからやめてほしい」とお願いすることはないが・・。冗談はさておき、いま伝統的な地域社会の崩壊によって人間関係が希薄になっているうえ、社会の複雑化。多様化・国際化などの要因も重なり、人と人とのかかわりがさらに難しくなっている。その一方で、社会問題が急増しているので'多くの人がかかわり合い協力して問題を解決していかなければならない。それを実現するには多様な「迷惑」の調整が必要であり、そのためには対話的発想が不可欠なのである。

全面的に、著者の北川氏と同じ考えではないが、非常に参考になる考え方である。
「気をつけよう、おとなは子どもに、道きかない」と言う標語があるとは知らなかった。ちょっと、寂しい標語である。

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