2012年4月27日金曜日

使える時間

 徒然草108段を紹介する。
  「一日のうちに、飲食すること・排便すること・睡眠を取ること・話すこと・歩くことなど、やむをえないことで、多くの時間を失っている。その余りの暇な時間はどれほどもない。そのなかで、役にも立たないことをし、役にも立たないことをいい、役にも立たないことを考えて時間をすごすだけでなく、一日を消費し、それがひと月にわたり、一生をうかうかと送るのは、最も愚かである。」(第108段)
  標準的な生活をしている人の、一日の所要時間を実際に計算してみると、睡眠時間7時間・排便1時間・食事4時間・おしゃべり2時間(メールを含む)・通勤通学の往復1時間で、合計15時間になる。残りの待ち時間は9時間で、この間に大人は仕事や家事・育児を、子どもたちは学業を行っていることになる。
  仕事や学業を人生の大事と考えるなら、この9時間をボーッとすごすかしっかり活すかは大きな差になる。仕事や学業は生きるための術で、もっと大事なことがあるという人は、まして、それに当てることのできる時間は2時間あるかないかである。 
  「もっと時間があれば」と思うのは誰しも同じであるが、実際のところ、暇を持て余している人に限って、無益にすごしている時間が多い。勉強や仕事に身を入れるでもなく、家事や育児も手抜きのしたい放題で、余った時間をテレビゲームやメールで埋め、知識といえばゴシップと芸能人ネタのみというお粗末さ。そのくせ「虚しい現実」に不満タラタラで、自分はこんなままでは終わるはずがないと、途方もなく大きな将采を夢想する。
  こうして「今」をむだにして10年をすごし、今度は「すぎた10年」を後悔してさらに大きな夢に追いすがる。その目線は、いつも「目前の現実」ではなく、「遠い将来の幻影」を見ているのである。この際限のない繰り返しの果てに、ついに「つまらない人生」を総括することになり、夢と現実のあまりのギャップに精神を病むことすらある。
  チャンスのなかった運命を呪い、自分を見すごしにした周囲を恨んで日を暮らす。擦った時間の穴埋めに新たな時間を注ぎ込むのでは「負けの込んだ深追い博打」ではないか。
いっぼう、忙しい人は、効率よく用事を片づけないと1日が終わらないから、処理能力が自然と早くなる。「急用は忙しい人に頼め」というが、多忙な人ほど多くのことを形にしている。
  子どものときには途方もなく長かった1年が、歳を重ねるにつれてどんどんと短く早く感じられる。「光陰矢のごとし」である。今日すべきことは今日のうちに、今しなければならないことは今すぐに。それを習慣づければ、一生のうちになすことの差は量質ともに計り知れない。
  全く同感である。「急用は忙しい人に頼め」は至言。

2012年4月24日火曜日

沖縄の本土復帰とは

沖縄のことを理解するには、沖縄の人同士が話し合っている文章を読むことが大切である。沖縄の新聞で、琉球大学沖縄国際研究所教授の「喜納育江」サン(45歳)と、沖縄、西表島出身の作家「崎山多美」(57歳)さんとの往復書簡が「琉球タイムス」に載っていた。その中で崎山さんの言葉が印象深い。以下はその一部。

私が個人的にも人生のエポックと感じてきた「復帰」について、1967年生まれでアメリカ先住民の文学を研究する喜納さんと、紙面で対話をする機会があることに、深い感慨を覚えています。
「復帰」時に5歳だったという喜納さんの中では、「復帰」を挟む時代の荒々しい変化は記憶に残らない出来事で、気がついたら日本国民として生活し教育を受けていた、ということなのかもしれませんね。「復帰」という時代の変わり目を、高校2年のときに体験し、その翌年に琉球政府立から日本政府立に変わった琉球大学に入学した私とは、記憶のあり方に大きな違いはあるのかもしれません。
けれど、時代を検証する際、その現場に居合わせたというだけで特権的に出来事を体験したと考えてしまうのは、硬直した考えに陥ると私は思っています。「原体験」は出来事の検証にとって重要な要素にはちがいありませんが、原体験を体験として身体化するためには、現在の時間の中で過去の体験の意味を意識化する思考の持続力が必要だからです。その意味で、「復帰前後」をつなぐ言葉を世代の異なる喜納さんと交わすことで、私にとっての「復帰体験を意識化し直すことはとても大切なことだと感じています。
さて、「コザ(現沖縄市)という場所であの日を迎えた」私にとって、「復帰」はどのような出来事だったか、ということですが、コザは、沖純が米軍占領下にあることをいやでも思わせる、米兵の閲歩する基地のマチでした。とくに私の住むコザ十字路界隈は黒人街と言われ、米兵同士の間でも白人との人種差別が露骨にあった繁華街で、彼等が落とすドルで生活をしている人々が大勢いる場所でもありました。米兵同士の暴力沙汰の現場や痕跡を目撃することは度々で、「復帰」の3年前に離島からコザに越してきた私にとって、コザは、ちょっと怖いマチでした。
そのコザを私の住む場所だと少しずつ思い始めたころ、「復帰」運動の盛り上がりの中、沖縄の日本「復帰」はやってきました」。「復帰」運動は米軍の沖縄への差別的支配から脱するために必要だったという言い方があって、その考えを私は全面的に否定することはできませんが、声にならない違和感を覚えていたことは確かです。私が在籍していたコザ高校では「復帰」をテーマにした討論会は頻繁で、熱心な先輩や同級生から意見を求められることも度々でしたが、口ごもって返事をごまかしていた気がします。
ですから、私があのころ「復帰」をどのように理解していたか、という明確な言葉は残念ながらありません。ただ、あの5月15日に私の取った次の行動は、今になって思えば、声にならなかった私の違和感が衝動的に行った「身体表現」だったという気がしています。あの日私は、どしゃぶりの雨の申、「復帰反対」を掲げる旗の下に集まる人々に交じって、与儀公園の隅にひとり立っていた。そのことは、私が沖縄で生きる自分を考えるとき、どうしても消すことのできない記憶のシーンです。
この書簡は3回にわたって連載されている。私がここで考えることは、沖縄の人にとって、本土復帰が本当によかったのかということである。もちろん米軍に占領されたままでよいわけがない。琉球政府という選択肢があったら・・と考えてしまう。琉球の言葉、文化がどんどん忘れ去られてしまうのではないか・・。沖縄の足場はどこにあるのか・・。

2012年4月17日火曜日

ショック・ドクトリン

民医連医療5月号「メディアへの眼」(畑田重夫)の「節操のない巨大メディア」のタイトルで、5大紙「朝日」「毎日」「読売」「日経」「産経」の不甲斐なさを指摘している。古い人間は「朝日」は反権力側と思っている人がいるかもしれないが、かなり前から「体制擁護」新聞となりはてている。全国紙ではないが、首都圏の新聞である「東京新聞」が検討している程度である。記事の中で、面白い部分を紹介する。

相次ぐショッキングな出来事
いま世界各国で広く読まれている本にナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』があります。邦訳書も、岩波書店から上・下巻で刊行されています。この本は、大企業というのは、ハリケーンのような自然災害にしろ、政変などの社会的異変にしろ、そこへつけこんで金儲けをすることを考えるものであるということを実証的に装付けている労作です。いわば大惨事便乗型資本主義の正体を暴いている書物です。
日本でも、「3・11」の東日本大震災につけこんで、「○○特区」などといい、大企業が被災地へ乗りこんでいって利潤をせしめようとしていますが、思想的・政策的にも、「3・11」以後、急に保守的、反動的な言動が目立つようになりました。
「3・11」を契機として、国民の間には、助け合いや思いやりといった協調的なムードが広がりつつあり、人々の人生観、社会観、世界観も変わりつつあるのに不快感をいだき、焦りや不安を覚えるのでしょうか、そこにつけこんでショッキングな波紋を投げかけるかのような言動が目立つのです。
代表的なのは、名古屋の河村たかし市長の「『南京大虐殺』はなかった」や、石原慎太郎都知事の「憲法を破棄せよ」といった主張などです。
今年は、日中国交正常化40周年という節目のですし、名古屋市と南京市は「友好都市」の関係にあるにもかかわらず、南京大虐殺はなかったという言い方は、ひとり名古屋市の問題にとどまらず、日本の対外政策にかかわる重大問題です。これこそ、歴史認識にかかわる深刻な問題です。
石原都知事は、彼に定期的に紙面を提供する「産経」(3月5日付朝刊)紙上で、「日本人はなぜ肝心なこと、基本的なことについて考えようとしなくなったのだろうか」と前置きし、北朝鮮やロシアと日本との関係にふれた後、「シナはシナで東シナ海における領海の区切りに難を唱え、尖閣諸島は自らの領土だと主張し日本領海での海底資源調査に難癖をつけその中止を迫る」と述べています。
中国と言うべきところを、意識的に「シナ」と言うとは、まさに確信犯的な思想のあらわれとしか言いようがありません。そのうえで、石原氏は、憲法の「改正」や「改定」ではなく「破棄」をすべきだという持論を次のように展開しています。
「憲法改正などという迂遠な策ではなしに、しっかりした内閣が憲法の破棄を宣言して即座に新しい憲法を作成したらいいのだ。憲法の改正にはいろいろ繁雑な手続きがいるが、破棄は指導者の決断で決まる。それを阻害する法的根拠はどこにもない」
石原氏は、現憲法を、米占領軍に一方的に押しつけられたものという認識に立脚していますが、数年前に、日本各地で上映された「日本の青空」という映画を観てもわかるように、現憲法は単純にアメリカによって押しつけられたものとみるのは事実に反します。鈴木安蔵民ら日本の意法学者たちの研究や日本の各政党の憲法草案なども十分に生かされているし、最終的には1946年の日本の意法制定議会における衆院特別委員会(芦田均委員長)の議を経て国会が確定した憲法なのです。
現憲法99条には、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し、擁護する義務を負ふ」と規定されています。石原氏は、選挙で選ばれた地方公務員の一人です。この憲法を守る義務のある彼が、破棄を唱えるということは、それこそクーデターを主張しているに等しいわけで、民主主義の原理のうえに成り立っている日本の社会と国においては絶対に許されない言動と言わなければなりません。


石原氏のような言動に対して、はっきりと指摘するメディアを構築したいものである。

2012年4月13日金曜日

雑誌「世界」

雑誌「世界」5月号の目次を本屋でみていたら、近藤幹夫教授(白梅学園大学)という文字が眼に飛び込んできた。彼は、以前「さくらんぼ保育園」で保父をしていて、よく知っているので思わず買ってしまった。記事のタイトルは「市場化される子育て・保育」。 
紹介するのは、「世界」の中のコラム「沖縄という窓」である。琉球新報の記者が書いている。


2月8日、日米両政府は、在沖海兵隊員とその家族のグアム移転を先行実施し、普天間飛行場の名護市辺野古への移設、嘉手納基地より南の六基地の返還を切り離すことを共同記者発表した。
2006年の日米合意の米軍再編行程表は、個々の在沖基地再編計画が「相互に結びついたパッケージであり」、「嘉手納基地以南(より南)の統合及び土地返還」の実施は、「部隊の一体性を維持する形で」海兵隊員8000人とその家族9000人がグアムに移転することを条件付けた。
沖縄県が、辺野古移設よりも先に、不要性が高まった五基地返還を実現するよう求めても、防衛省や外務省は、木で鼻をくくったように「密接不可分のパッケージは絶対に切り離せない」と、あしらってきた。
「沖縄の負担軽減のため」という枕詞を付けて、日米両政府が頑なにこだわってきたパッケージが崩れた事態は、日米合意が沖縄に基地を押し付けることを主眼に置き、「負担軽減」が虚飾に彩られていたことを物語る。
「辺野古は不可能」と見切り、国防予算の削減を迫る議会の圧力を受けた米政府が、苦し紛れに再編見直し協議を打ち出し、日本が追随したのが真相だろう。
「牧港補給地区(浦添市)の先行返還を協議」など、沖縄にとってプラスと見せかける印象操作が目に付くが、沖縄県幹部は「負担軽減はさんざん喧伝されたが、ふたを開けると大したことはないの繰り返しだった。県が『画期的だ』と口にした途端、辺野古移設容認と受け取られ、政府が主導権を握る挙に出かねない」と警戒を緩めない。
基地問題をめぐる沖縄県の分析眼は、政府のごまかしや情報隠しが上書きされる度に研ぎ澄まされ、日米両政府の思惑を見通す力を高めていると実感する。

沖縄県は4月から「地域安全政策課」をつくり、新たな攻めの基地行政に挑んでいると言う。県の反転攻勢は沖縄の民意と結ばれていると言われている。沖縄県知事だけのコメントでなく、沖縄県民の民意をもっと知らなくてならない。

2012年4月10日火曜日

生活保護

 日経の日曜日欄に「今を読み解く」というコーナーがある。そこで、本の紹介しているのだが、4月8日は「生保」関係の2冊の本が紹介されていた。紹介文を紹介したい。

 日本国憲法25条は、生活に困窮するすべての国民に対して健康で文化的な最低限度の生活を保障している。それならば、なぜ、現代日本において衣食住が不足したり、医療サービスを受けられない人々が発生するのであろう。制度的には公的年金(老齢、障害、遺族)、最低賃金、失業保険、児童扶養手当など、さまざまな制度が最低生活保障の一端を担っている。そして、これらの制度をもってしても、貧困から脱出できない人々に対する最後のセーフティーネットとして生活保護がある。
 しかし、残念ながら、公的年金や最低賃金などの現行の諸制度は、最低生活の保障という観点からは設計されていないのが事実である。駒村康平編『最低所得保障』(岩波書店10年)は、これら制度の発足当時からの理念や改正の内容を「最低生活の保障」という観点から詳細に分析する労作である。そこから見えてくるのは、最低生活保障の機能がほとんど生活保護へ押し付けられているということである。
 
高齢者と医療費
例えば、諸外国では、公的年金で高齢者の最低生活が保障されているので、そもそも高齢者が公的扶助の対象とならない国もあるが、日本の生活保護の受給者は、半分が60歳以上の高齢者である。また、生活保護費の約半分が医療費であり、その多くが精神関連の入院費である。
 地域に精神障害をもった人が暮らせる受け皿が用意されていれば、生活保護は大きく削減できる。すなわち、公的年金や精神障害者への制度の不備が、「つけ」として生活保護に回ってきているのである。
 生活保護の現状について最もわかりやすく解説しているのは本田良一著『ルポ生活保護』(中公新書10年)であろう。
 本書は、貧困の定義から現状の生活保護の運用の問題まで網羅している。生活保護は、その運用によって大きく変わる。1980年代にも、不正受給を理由に引き締められ、受給率が大幅に下がった。しかし、貧困率はその間も上昇し続けている。必要なのは、受給額の1%にも満たない不正受給(10年度調査)に一喜一憂するのではなく、いかに国民の最低生活を保障するかの議論である。
 そのためには、生活保護の手前の制度をいかに充実させるかの議論が必要なのである。高齢化や精神疾患を抱える人の増加は今後も生活保護率を上げるプレッシャーとなる。それをすべて生活保護で丸抱えするのか、選択の時期が来ている。

 日経は経済新聞である。政治的な記事はかなり右よりであるが、それ以外の記事は結構読むべきものがある。

2012年4月6日金曜日

名言

木立氏の「医療経済・政策学関連ニューズレター」の最後に「私の好きな名言・警句の紹介」欄がる。その中で、湯浅誠氏と瀬戸内寂聴氏のコメントを紹介したい。
湯浅誠(反貧困ネットワーク事務局長。2009年10月から内閣府参与を務めていたが、2012年3月7日に辞任)「原則的な立場は大事です。問題は、原則的なことを言 っていれば原則的なことが実現するわけではない、という点にあります。『ぶれずにある立場を堅持していれば、いずれ理解される』と言って、30年40年と同じことを言い続けている人がいます。しかし、言い続けてきた30年分40年分、世の中が言っていることに近づいてきているかというと、必ずしもそうでないという場合があります。世の中には、反対の立場から30年40年原則的なことを言い続けている人もいるからです。その際の問題点は『原則的な立場を堅持するかどうか』ではなく、『原則的な立場に現実を少しでも近づけるための、言い方ややり方の工夫をする必要がある』という点にあります。工夫が足りないことの結果として自分の見解が広く理解されなかったことの結果責任の自覚なく、『聞き入れないあいつらがわかってない』と言っているだけでは、さらに多くの人たちから相手にされなくなっていくだけで、その逆にはならないでしょう」(「内閣府辞任について」2012年3月7日。)
このように、いつも原則的なことばかり言って、なにもしない人いませんか?
瀬戸内寂聴(作家、天台宗僧正。大震災から1年間、被災3県を訪ね歩いた。89歳)「今の時期、分かりやすい利益を旗印とする、思想なき独裁者に惑わされやすくなっていないか。リーダーは現れるのではなく、民衆が作り上げるもの。服従は容易だが、危険を伴う。東北の人々は確かに辛抱強く1年を乗り切ったが、どうか、我慢しすぎないで。政府や自治体の方針に意義があるなら、自分たちの意志をしっかり訴えてほしい」(「読売新聞」2012年3月10日朝刊「過酷な体験 生き抜く糧」)。
リーダーは、民衆が作り上げるもの・・しかり。なりたがるものではありませんね。アウンサンスーチーさんを思い浮かべました。

2012年4月2日月曜日

援助への期待感に応じる支援

毎日新聞の日曜版に以前、「心のサプリ」というタイトルのコラムがあった。いいコラムだったので、終了したのが残念であった。ところが、4月より「新心のサプリ」と題して復活した。書いているのは、診療内科医の海原純子さんである。4月1日のコラムを紹介する。

日曜朝のこのコーナーを、また書けることになった。いったん終了した連載が復活するというのはあまり聞かないから、これは読者の方々から「帰れコール」をたくさんいただいたためだろうと、心から感謝の気持ちでいっぱい。この1年、思うことはたくさんあるのに、表現する場がなくて、本当につらかった。毎月の連載やウェブ媒体とは違う、毎週活字になる文章の重みをしっかり感じつつ、新しいスタートを切りたい。
さて、震災後1年が経過した。震災以前とははっきりした変化を感じるのは、「じゃあ、またね」という言葉を発するときの心の持ち方である。この一言の重みが以前と違うのは、関東などでも大地震が近いうちに起こる可能性があると発表されたためだろう。
数カ月に一度会う友人と別れるとき、その一瞬の相手の笑顔や手を振る姿が、はっきりと脳裏に刻まれる。かつては、全自動のカメラで撮ったようなその記憶が、震災後は、ライカの手動カメラで1校ずつピントを合わせ、フレームに収めたように明確だ。一つ一つの出会いが当たり前ではなく、幸せなのだとの無意識の気づきが、この変化を生んだのだろう。
ところで、知り合いに高校生の娘と小学生の息子をもつ夫婦がいる。裕福とは言えないが元気なお父さんとパートで働くお母さんに子供たちの4人家族だ。近々大きな地震の可能性があると聞いたとき、娘は「お父さんがいるから大丈夫」。この一言に、両親は、うれしく感じつつも身が引き締まった。
困難な状況に陥った人へのサポートは、四つの方法がある。第一は直接的支援、第二は情報による支援、第三は共感による支援、そして第四は援助への期待感に応じる支援だ。この期待感とは、「大変な状況でも、あの人がいるから何とかしてくれる。手助けしてくれるだろう」という思いのこと。
こうした期待感は、困難な状況を乗り越える大きな助けになる。先に紹介したお父さんは、まさに援助への期待感を受ける役目をしているのだろう。その安心感が子供たちを救う。一家の大黒柱という言葉はもはや死語かもしれないが、その存在の大切さを実感する。
今の日本、援助への期待感を受けるというサポートをしている政治家はいるのかしら、と思うと心が寒い。見かけや言葉に惑わされず、地道に役割を果たす人を選ぶ力が必要だろう。この困難な時代、このコーナーでそんなことを考えたり、ちょっと笑ったり、泣いたり、怒ったりしていきたいと思う。

サポートの方法の4番目の「援助への期待感に応じる支援」という視点は、なるほどと思った。この期待感に応じる支援は、日常の職場でも当てはまると思う。日々、期待に応じる支援がでるよう努力していきたい。